G黷ェl句

July 3071998

 ラムネ抜けば志ん生の出の下座が鳴る

                           今福心太

キですねえ。いいですねえ。夏の寄席には、ちょっと安っぽくて野暮な感じのラムネが似合います。しかもこれから、高座は天下の志ん生ですよ。噺を聞く前から楽しい気分になっている作者の気持ちが、よく伝わってきます。ラムネはサイダーとほとんど同じ成分だそうですが、なんといっても嬉しいのは瓶の形状ですね。どう言ったらよいのか。あの「玉入りガラス瓶」は、そんなに美味とは言えない中身を凌駕して余りある魅力を保持してきました。パッケージ人気で売れた元祖みたいな商品でしょう。数年前にラムネ人気が息を吹き返したこともありましたが、プラスチック製の瓶では、やはり駄目だったようですね。機能的には同一でも、手にしたときの重さだとかガラス玉とガラス瓶の触れ合う音が、まったく違います。こういう句を読むと、昔はよかったんだなと、つくづく思います。寄席には、冷房なんぞというシャレた仕掛けもなかった時代に、しかし、客の楽しみは現代よりももっともっとふんだんにあったというわけですから。「庶民的」という言葉が、文字通りに生きていた時代の句です。(清水哲男)


June 2061999

 ラムネ玉河へ気づかぬほどの雨

                           北野平八

光地でか、それとも吟行先でか。いずれにしても、大の大人がラムネの壜を手にするのは、日常的な時間のなかでではないだろう。どんよりと曇った蒸し暑い昼下がり。休憩所か食事処かで、ちょっとした茶目っ気に懐しさも手伝って、作者はひさしぶりに飲んでみた。子供の頃の、遠い日の味がよみがえってくる。眼前を悠々と流れる河面を、ラムネ玉を鳴らしながら見るともなしに見ているうちに、ふと細かい雨が降りだしたのに気がついた。よく目をこらさないと「気づかぬほどの雨」である。事実、同行者の誰もがまだ気づいていないようだ。みな、賑やかに笑い合ったりしている。べつに細かい雨などどうということもないのだが、このように人はふと、ひとり意識が交流の場からずれることがある。その淡くはかない哀歓の訪れた束の間の時間を、作者はのがさなかった。北野平八得意の芸である。「ラムネ」という名称の由来は、レモネードからの転訛(てんか)説が有力だ。最近はプラスチック製の瓶が出回っているようだが、あれはやはりガラス壜でないと感じが出ない。『北野平八句集』(1987)所収。(清水哲男)


August 0782001

 少女期やラムネの瓶に舌吸はれ

                           高倉亜矢子

学校高学年か、中学校低学年くらいの少女を連想した。ちょっと悪戯っぽい感じの女の子だ。ラムネを飲むのにもいささか飽きてきて、玉を舌先で触って遊んでいるうちに、何かの拍子でひゅっと「吸はれ」てしまった。それだけのことでしかないが、それだけのことだから「少女期」を象徴する出来事として受け止められるのだ。私の観察するところでは、少年に比べると、案外に少女はおっちょこちょいである。無鉄砲は少年の属性のようなものだが、それとは違い、少女は少年には考えられないようなアクシデントに見舞われたりする。本質的に、おおらかなのかもしれない。少年だったら、まずこんなドジは踏まないだろう。句は、そのあたりのことを言っている。ただ昔の少年として気になったのは、実際にこういうことが起きるという理屈がわからないところだ。ラムネ瓶のなかでは飲料水の発するガス圧が玉を押し上げる仕掛けだから、この場合はほとんど飲んでしまった後で、逆に瓶の中が外気圧に押されていた故に「吸はれ」てしまったのだろうか。……というふうに、とかく少年(男)は理屈っぽい。理屈っぽくない少女だった作者としては、「だって、ホントにそうなっちゃったんだもん」と答えるのだろうな。作者は1971年生まれ。なかなかに良いセンス。「香水に水の匂ひのありにけり」。この句も素敵だ。期待したい。「俳句」(2001年8月号)所載。(清水哲男)


June 0862002

 夜の雲やラムネの玉は壜の中

                           真鍋呉夫

語は「ラムネ」で夏。一読、漠然たる不安な感じに誘われた。月が出ているのだろう。いくつもの雲の端のほうが、月光を反射して少し明るくなっている。濁った色合いの雲だ。それらの雲が風に乗って移動していく様子を、作者は「ラムネ」を片手に眺めている。「夜の雲」ではなく「夜の雲や」というのだから、そんな雲に心を引かれていることがわかる。では、どのように引かれているのか。それが中七下五句で明らかにされ、明らかにされると同時に不安感が立ち上るという仕組みだ。さて「ラムネの玉」もまた、いささかの濁った色合いを持っている。決して、透明ではない。しかも半透明の「壜(びん)の中」にあるので、なおさらに濁りを帯びて見える。雲の色は天然自然の濁りであり、ひるがえってラムネの玉のそれは人工の濁りだ。このときに作者は、自分がまるで瓶の中の玉のようだと感じたのだと思う。いかに純粋を希求してもついに透明にはなることは適わず、濁りを帯びたままの存在であるしかないのだ、と。しかもその濁りは、夜の雲のように天然自然に発したものではなく、あくまでも人工的なそれでしかない。こう読むと、壜は文明社会を暗示しており、玉は好むと好まざるとに関わらず文明社会に取り込まれた人間存在の比喩となるだろう。そこでもう一度上五に戻ると、すっかりラムネの玉と化した自分が、夜の雲を見上げている気持ちにさせられる。不安感は、私自身のラムネの玉化によるものと思われる。『眞鍋呉夫句集』(2002・芸林21世紀文庫)所収。(清水哲男)


July 2872002

 腰の鎖じゃらじゃら鳴らしラムネ飲む

                           古澤千秋

語は「ラムネ」で夏。日常的な飲み物ではないが、祭や観光地に出かけると、ふっと飲みたくなったりする。私などちっとも美味くないとは思うけれど、遊び心にマッチした飲み物ではあるだろう。しかし、句の様子からすると、主人公は遊び心で飲み、ひとりでに「腰の鎖」が「じゃらじゃら」鳴っているのではない。「鳴らし」とあるからには、故意である。すなわち、演技的に鳴らしているのだ。そもそも腰に鎖をつけること自体が、演技的である。では、なぜ鳴らしているのか。大づかみに、二つ考えられる。一つは、これみよがしに自分の存在を誇示しているケース。もう一つは、自分のなかに倦怠感など鬱屈したものがあって、苛立ちを身体で表現しているケースだ。そのどちらであるかは、句からだけでは第三者にわかりっこない。けれど、飲んでいる人は女性だから、たいがいの男にはコケティッシュに写るにちがいないと思った。なかなか「いいじゃん」と、少なくとも私には写る。何がいいのかと聞かれても困るのだが、「じゃらじゃら」の響きにはどこか崩れた調子、投げやりな感じがあって、そういうところに他愛なく惹かれるのが、おおかたの男というものだろう。ただし、鳴らしすぎては逆効果になることもあるから難しい。過度になると「甘ったれんじゃねえ」みたいな反応も起きてくる。実際に鳴らしている人は、そんなことには無関心かもしれないが、作句者の立場からはそのへんを十分に意識してのことだろうと思われた。「じゃらじゃら」は「チャラチャラ」にも通じ、両方とも好みの表現だが、実際にいざ俳句で使うとなると、想像以上に難しいんだろうなあ……。そんなことを、チャラチャラと思って遊んでいる日曜日です。俳誌「ににん」(2002年夏号)所載。(清水哲男)


June 0562003

 芸大の裏門を出てラムネ飲む

                           永島理江子

語は「ラムネ」で夏。大学とは限らず、どんな裏門にも、正門とは違った姿がある。そして、その姿には例外なく隙(すき)がある。正門は常に緊張していて隙を見せないが、裏門はどことなくホッとしているようで、力が抜けている。だから、裏門を通って外に出ると、人もまたホッとする。不思議なことに、正門から出たときにはあまり振り返ったりしないものだが、裏門からだと、つい振り返りたくなる。裏門は油断しているので、振り返ると門の中の真実が見えるような気がするからだ。実際、振り返ると、「ああ、こんなところだったのか」と合点がいく。そこで作者はホッとして、ラムネを飲んだというわけだ。何かクラシカルなイベントでも見てきたのだろう。クラシックなイメージの濃い「芸大」に対するに、ポップな「ラムネ」。学問としてのアートに対して、庶民の生んだアート。作者は自分の行動をそのまんま詠んだのだろうが、図らずもこんな取り合わせの面白さが浮き上がってきた。べつに「芸大」でなくたって同じこと、と思う読者もいるかもしれない。でも、たとえばこれを「東大」などに入れ替えてみると、どうなるだろうか。今度は、学問的知対庶民的知という格好になって、句がいささか刺々しくなってくる。どこかに、いわゆる象牙の塔に対する庶民の意地の突っ張りみたいなニュアンスが出てきてしまう。やはり、ラムネ飲むなら芸大裏がいちばんなのだ。「俳句研究」(2002年8月号)所載。(清水哲男)


November 20112007

 さざんくわはいかだをくめぬゆゑさびし

                           中原道夫

茶花(さざんくわ)は冬の庭をふわっと明るくする。山で出会っても、里で出会っても、その可憐な美しさは際立っている。しかし掲句は「筏を組めぬ」という理由で寂しいという。確かに山茶花の幹や枝は、椿よりずっとほっそりしていて、おおよそ筏には向かないものだ。とはいえ、掲句の楽しみ方は内容そのものより、その伝わり方だろう。集中は他にも〈いくたびもあぎとあげさげらむねのむ〉〈とみこうみあふみのくにのみゆきばれ〉などがあり、そこにはひらがなを目で追っていくうちに、ばらばらの文字がみるみる風景に形づくられていく面白さが生まれる。生活のなかで、漢字の形態からくる背景は無意識のうちに刷り込まれている。目の前にあるガラス製の容器を「ビン」「瓶」「壜」と、それぞれが持つ異なるイメージのなかから、ぴったりくるものを選んで表記している。ひと目で誤解なく伝達されるように使用する漢字はまた、想像の振幅を狭めていることにも気づかされる。一方〈戀の字もまた古りにけり竃猫〉では、逆に漢字の形態を大いに利用してやろうという姿勢、また〈決めかねつ鼬の仕業はたまたは〉では、漢字とひらがなのほどよい調合が感じられ、飽きずに楽しめるテーマパークのような一冊だった。『巴芹』(2007)所収。(土肥あき子)

★「いかだ」は、花筏(桜の花びらが水面に散り、吹き寄せられて流れていく様子)の略だろう、とのご指摘をたくさんいただきました。「筏」と聞いて、ひたすら山茶花の細く混み合った枝ばかり思い描いてしまったわたくしでした。失礼しました。


May 1952009

 蝉の羽化はじまつてゐる月夜かな

                           大野崇文

は満ち欠けする様子や、はっきりと浮きあがる模様などから、古今東西神秘的なものとして見られている。また、タクシードライバーが持つ安全手帳には、満月の夜に注意することとして「不慮の事故」「怪我」「お産」と書かれていると聞いたことがある。生きものの大半が水分でできていることなどを考えると、月の引力による満潮や干潮の関係などにも思い当たり、あながち迷信妄信と切り捨てられないようにも思う。蝉が何年もの間、長く暮らした土中から、必ず真夜中に地上に出て、夜明けまでに羽化するのは、月からの「いざ出でよ」のメッセージを受けているのではないのか。地中から出た蝉の背を月光がやわらかに割り、新しい朝日が薄い羽に芯を入れる。今年のサインを今か今かと待つ蝉たちが、地中でそっと耳を澄ましているのかと思わず足元を見つめている。〈ラムネ玉こつんと月日還りけり〉〈蟻穴を出づる大地に足を掛け〉『夕月抄』(2008)所収。(土肥あき子)


July 0672010

 街で逢ふ産月らしき白日傘

                           小澤利子

ろそろ日差しも真夏を感じさせるほどの強烈さに。産月(うみづき)は臨月と同様、出産する予定の月をいう。出産を間近に控えた大きなお腹を抱えた女性が、白日傘をさしているという掲句。今や日焼けを嫌う女性にとって日傘は四季を通して使われているが、盛夏に大きなお腹の女性を思えばそれだけで「いやはやご苦労さまです」と、ねぎらいたくなる。白日傘は自分だけに傾けているのではなく、もうすぐこの世に誕生する小さな命にも「今日も暑いね」と語りかけるように差しかけているのだろう。妊婦の友人に聞いた一番愉快に思った話しは、食後に必ずお腹を蹴られるということだった。胃袋がふくれることで居場所が圧迫され、「せまーい」と不満を訴えているのだという。こっちは確かに広いけど、しんどいことも結構多いよ。でも、楽しいこともたくさんあるから、さあ、そろそろ真夏の子として生まれておいで。〈ラムネ飲み雲の裏側おもひをり〉〈まな板をはみ出してゐる新若布〉『桐の花』(2010)所収。(土肥あき子)


August 2982012

 ラムネ飲んでその泡のごと別れたる

                           和田博雄

ムネの泡は一挙に激しく盛りあがるけれど、炭酸ゆえにたちまち消えてしまう。この場合の「別れ」はいかなる事後の別れなのかわからない。しかし、ラムネの泡のごとくあっさりしたものなのだろう。ビールの泡のごとき別れだったら、事情はちがってくる。博雄が下戸だったかどうかは知らないが、この別れは男同士ではなく、男と女の別れと解釈したほうが「ラムネ」が生きてくる。それはあまり深刻なケースではなかったのかもしれないし、逆に深刻の度を通り越していたとも考えられるけれど、それ以上に「別れ」をここで詮索する必要も意味もあるまい。このごろのラムネ瓶はプラスチック製だから、振っても音がしないのが口惜しい。博雄は吉田内閣で農林大臣や国務大臣をつとめ、のちに左派社会党の書記長をつとめたことでも知られる。俳句の上で博雄とつき合いのあった安藤しげるは「和田さんは、後に政界をスッパリ引退し、俳句三昧に遊び……」と書いている。西東三鬼の句に「ラムネ瓶太し九州の崖赤し」がある。安藤重瑠『戦渦の疵を君知るや』(2012)所載。(八木忠栄)


May 1052016

 龍天に登る背中のファスナーを

                           嵯峨根鈴子

は春分の頃に雲を引き連れ天へと登り、秋分の頃に地に下り淵に潜むとされる。中国後漢時代の字典による俳人好みの季題である。しかし、作者は伝説上の生きものをとことん身近に引き寄せる。あるときは背中のファスナーに住みつき、またあるときは〈龍天にのぼる放屁のうすみどり〉と、すっかり飼いならされた様子となる。今頃はおそらく作者の家の欄間あたりに身を寄せているのではないか。なんというファンタジー、なんという愉快。目を凝らせばこのような景色が見えるのかもしれないと、慌てて見回してみれば梅雨入り間近の猫がひきりなしに顔を洗っているばかりである。〈ラムネ壜しぼれば出さうラムネ玉〉〈わたむしに重力わたくしに浮力〉『ラストシーン』(2016)所収。(土肥あき子)




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