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July 2371998

 ゆく船へ蟹はかひなき手をあぐる

                           富沢赤黄男

をゆく船に、蟹が手をあげて「おーい、おーい」と呼びかけている。白い大きな船と赤い小さな蟹。絵本にでも出てくれば、微笑ましく見えるシーンだ。が、俳人は「呼びかけたって、どうにもなりはしないのに」と、いたましげなまなざしで蟹を見つめている。行為の空しさを叙情しているわけだ。1935〔昭和10〕年の作品で、歴史を振り返ると、翌年には二・二六事件、翌々年には日華事変が勃発している。深読みかもしれないけれど、この句は来るべき戦争を予言しているようにも読めないことはない。このとき白い船は平和の象徴であり、赤い蟹は天皇の赤子〔せきし〕としての民衆である。行為の空しさを叙情することは、戦争遂行者にとっては危険きわまりない「思想」と写る。かつて、俳人や川柳作家が次々に検挙された時代があったなどとは容易に信じられない現代であるが、逆に言えば、叙情や風刺もまたそれほどの力を持っていたということになる。しからば、この句をこのようにして現代という光にあてて見るとき、叙情の力はどの程度のものだろうか。少なくとも私には、いまだに衰えを知らぬパワーが感じられる。なお、作者は新興無季俳句運動の旗手であったから、当然無季として詠んでいるのだが、当歳時記では便宜上、夏の季語である「蟹」から検索できるようにしておく。『昭和俳句選集』〔1977〕所収。(清水哲男)


June 1262012

 平家蟹カゲノゴトクツキマトウ

                           小泉八雲

平家蟹
句や短歌など、日本の詩歌を英訳し紹介しつづけた小泉八雲。妻節子の『思い出の記』には「(八雲は)発句を好みまして、沢山覚えていました。これにも少し節をつけて廊下などを歩きながら、歌うように申しました。自分でも作って芭蕉などと常談を云いながら私に聞かせました。どなたが送って下さいましたか『ホトトギス』を毎号頂いて居りました。」という記述がある。そこでしばらく小泉八雲の俳句をあちこち探したが、見つけることはできなかった。実は掲句、小泉八雲の秘稿画本『妖魔詩話』(1934)に収められた八雲の草稿から見つけたものだ。これは天明老人編「狂歌百物語」に収められて狂歌を英訳したものだが、八雲は未発表のまま亡くなり、昭和9年没後にご子息一雄氏が編者となって出版した。平家蟹の項には八雲のペンによって描かれた強面の蟹のスケッチの脇に「カゲノゴトクツキマトウ」とカナで記されている。影の如く付きまとう……。蟹の甲羅に浮かぶおそろしい武士の顔を丹念に写し取るとき、思わず蟹の姿となって、ひいては安息を得られない平家の霊のひとつとなってペン先からこぼれ落ちたつぶやきであろう。はたしてこれを俳句作品として挙げるのは乱暴かもしれないが、八雲の作った俳句のようなもの、として紹介したい。(図版『妖魔詩話』「平家蟹」より)(土肥あき子)


June 2662012

 死にたれば百足虫は脚を数へらる

                           雨宮きぬよ

足虫(ムカデ)はその名の通り、多い種になると173対というから300本をゆうに越える足を備える。日頃怖れているものが死んでいるとき、観察する派と、死体であっても無理派に分かれる。作者を含む前者は、刺されたり攻撃されることさえなければ、その個体に興味が湧くという探究心の持ち主であろう。死んだ百足虫を目の前にして、ぞろりと揃えられた足の一本一本が絡まることなく規則正しく動いていた事実に思いを馳せる。生前の嫌悪は遠ざかり、複雑な身体を持った彼らに「お疲れさま」とねぎらうような視線が生まれる。同集には〈いくたびも潮の触れゆく子蟹の屍〉も見られ、こちらはさらに温情の純度が高まっている。一方、生きていようが死んでいようが、存在自体に意気地なく尻込みするタイプもある。私もはっきりそちらに所属しており、おしなべて昆虫関係は不得手だが、ことに足が多いほど苦手度は増す。ムカデ、ヤスデといった存在は虫というより怪物に近い戦慄を覚える。虫嫌いの傾向は子どもの世界まで万延し、ノートの定番ジャポニカ学習帳の表紙にも昆虫が登場しなくなったという現実を聞くとやはりさみしいと思う。わらじを脱いでいると思ったらまだ履いているところだった、という「ムカデの医者むかえ」など親しみも持てる話しや、一匹を退治すると連れ合いが探しにくるといわれる百足虫の夫婦愛の深さなど胸を打たれるではないか。キーボードを打つだけで粟立っている者の言葉では説得力に欠けるが……。『新居』(2011)所収。(土肥あき子)




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