G黷ェ句

July 1871998

 青森暑し昆虫展のお嬢さん

                           佐藤鬼房

国の夏は、ときに「猛暑」という言葉がぴったりの猛然たる暑さとなる。たしか日本の最高気温の記録は岩手で出ているはずだ。そんな日盛りのなか、青森を旅行中の作者は昆虫展の会場に入った。暑さに耐え切れず、たまたま開かれていた昆虫展を見つけて、涼みがてらの一休みのつもりだったのかもしれない。と、いきなり会場にいた一人の少女の姿が目につき、このような句が生まれたというわけだ。「昆虫」と「お嬢さん」。この取り合わせには、作者ならずとも一瞬虚をつかれる思いになるだろう。少なくとも私はこれまで、昆虫が好きだという女性にお目にかかったことがない。ちっぽけな蜘蛛一匹が出現しただけでも、失神しそうになる人さえいる。ましてや、何の因果で昆虫展をわざわざ見に出かける必要があるだろうか。偏見であればお許しいただきたいが、一般的にはこの見方でよいと思う。作者もそう思っていたので、あれっと虚をつかれたわけだ。昆虫の標本を見ながらも、時折視線は彼女に注がれたであろう。そしてだんだんと、好意がわいてきたはずでもある。このときにはもはや、外部の猛暑は完全に消え失せてしまっている。「お嬢さん」の威力である。『何處へ』〔1984〕所収。(清水哲男)


July 1071999

 あなただあれなどと母いふ暑さかな

                           竹内 立

にかく暑い。そこへもってきて、母親が何度も「あなただあれ」などと問いかける。ますます暑苦しい。しかし、この暑さも母親のボケも、どうなるものでもない。じっと耐えるしかない。脂汗までが浮いてくるようだ。作者は七十一歳。第4回「俳句αあるふぁ」年間賞受賞作(塩田丸男選)。しっかり者だった私の祖母も、晩年はボケた。遠く離れていたこともあり、ボケてからは会うこともなかったが、やはり「あなただあれ」を連発していたという。知人の話などを総合してみても、たいていボケた人は「あなただあれ」と言うようだ。そんな話を聞くたびに、この質問の意味は何なのかと思う。文字通りに、相手の名前や正体を質しているのだろうか。それとも幼児が「これなあに」を連発するように、正確な解答を求めるというよりも、コミュニケーションそれ自体を欲する問いにしかすぎないのか。どうも後者に近いような気がするが、このとき、質問を発する人の心持ちはどうなのだろう。気軽なのか、逆に苦しいのか。そこまでは、専門家にもわかるまい。「俳句αあるふぁ」(1999年6-7月号)所載。(清水哲男)


July 0672000

 あつきものむかし大坂夏御陣

                           夏目漱石

りゃ、物凄く暑かったろう。なにせ、みんな戦(いくさ)支度だもの。大坂夏の陣は、1615年(元和元年)夏。徳川家康・秀忠の大軍の前に、豊臣秀頼(23歳)、淀君(48歳)が自刃して果て、豊臣家が息絶えた戦であった。夏の陣のことを思うとき、たいていの人は二人の悲劇に思いをめぐらすだろうが、漱石は「さぞや暑かったろうナと」涼しい顔をしている。シニカルなまなざし。ここらへんが、いかにも漱石らしい。ほとんど「ものはづけ」の雑俳の世界だが、このように同じ事態や事象を見るときに、大きくアングルを転換させる作法も俳句が培ってきたものだ。笑える句。面白い句。この国の近代文学が「喜怒哀楽」の感情のうちの「怒哀」に大きく傾斜していった(それなりの必然性はあったにせよ)なかで、俳句だけは「喜怒哀楽」すべてを詠みつづけてきた。いまでも、詠みつづけている。実にたいしたものだと私は思っていますが、いかがなものでしょうか。ところで、あなたにとって「あつきもの」とは何ですか。漱石以上に意表を突こうとすると、これがなかなか難しい。『漱石俳句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)


July 1272000

 暑き日を海に入れたり最上川

                           松尾芭蕉

上川の河口は酒田(山形県)だ。いましも、遠い水平線に真っ赤な太陽が沈もうとしている。その情景を「沈む」と抒情せず、最上川が太陽を押し「入れたり」と捉えたところに、芭蕉の真骨頂がある。最上川の豊かな水量とエネルギッシュな水流とが想像され、また押し「入れ」られてゆく太陽の力感も想起され、読者はその壮大なポエジーに圧倒される。初案は「涼しさや海に入たる最上川」だったという。このときに「入たる」を「いりたる」と読んでしまうとさして面白みはない句になるが、掲句と同様に「いれたる」と読めば、句はにわかに活気を帯びて動き出す。つまり、最上川が自分自身を悠々として海に「入れた」ということになり、情景は雄大なスケールのなかに浮き上がってくる。ただ、この情景が「涼しさ」に通じるかどうかについては、意見の分かれるところだろう。芭蕉としても地元への挨拶としての「涼しさ」(真夏というのに、当地は涼しくて良いところですね)の使用だったろうから、はじめから若干の無理は感じていたのかもしれない。捨てがたい味わいを持つが、やはり掲句の格が数段上である。(清水哲男)


July 2872001

 弟子となるなら炎帝の高弟に

                           能村登四郎

い暑いと逃げ回るのにも、疲れる。かといって、しょせん凡人である。かの禅僧快川が、火をかけられ端坐焼死しようとする際に発したという「心頭を滅却すれば火もまた涼し」の境地には至りえない。ならば、猛暑の上を行ってやろう。すなわち、いっそのこと「炎帝(えんてい)」の弟子になってやれ、それも下っ端ではなくて「高弟」になるんだ。「高弟」になって、我とわが身を真っ赤な火の玉にして燃えつづけてやるんだ……。暑さには暑さを、目には目を。猛暑酷暑に立ち向かう気概にあふれていて、気持ちの良い句だ。しかし、よほど身体の調子がよいときでないと、この発想は生まれてこないだろう。「炎帝」は夏をつかさどる神、またはその神としての太陽のことで、れっきとした夏の季語である。同じ作者に「露骨言葉に男いきいき熱帯夜」があり、こちらは立ち向かうというのではなく、やり過ごす知恵とでも言うべきか。どうせよく眠れない「熱帯夜」なのだからと、酒盛りをおっぱじめ、飲むほどに酔うほどに卑猥な言葉を連発しあっている男たち。不眠に悶々とするよりは、かくのごとくに「いきいき」できるのだからして、「露骨言葉」もなんのそのなのである。『寒九』(1986)所収。(清水哲男)


July 0472002

 上野から見下す町のあつさ哉

                           正岡子規

まり暑くならないうちに、書いておこう。高浜虚子編『子規句集』明治二十六年(1893年)の項を見ると、「熱」に分類された句がずらり四十一句も並んでいる。病気などによる「熱」ではなく「暑さ」の意だ。体感的な暑さを読んだ句(「裸身の壁にひつゝくあつさ哉」)から精神的なもの(「昼時に酒しひらるゝあつさ哉」)まで、これだけ「熱」句をオンパレードされると、げんなりしてしまう。とても、真夏には読む気になれないだろう。「上野」はもちろん、西郷像の建つ東京の上野台だ。句が詠まれたときには、既に公園は完成しており動物園もあった。いささかの涼味を求めてか、上野のお山に登ってはみたものの、見下ろすと繁華な町からもわあっと熱風が吹き上がってくるではないか。こりゃあ、たまらん。憮然たる子規の顔が浮かんでくる。現代の上野にも、十分に通用する句である(今のほうが、もっと暑いだろうけれど)。他にも「熱さ哉八百八町家ばかり」とあって、とにかく家の密集しているところは、物理的にも精神的にも暑苦しい。ましてや、子規は病弱であった。「八百八町」の夏の暑さは、耐え難かったにちがいない。句集の「熱」句パレードは、「病中」と前書された次の句によって止められている。「猶熱し骨と皮とになりてさへ」。『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)


July 1372002

 人間に火星近づく暑さかな

                           萩原朔太郎

句については、昨年前橋文学館で、以下のように話しました。速記録より、ほぼそのまんま。……今みたいに解明された、あそこには何もないんだよ、という火星とは、ちょっと朔太郎の使った時代には違っていて、もう少し、火星には何かあるに違いない、というような火星が近づいてきてるわけですね。この「人間に近づく」っていうのが手柄だと思いますよ。「地球」に近づくだったら、あまり面白くなくなる。「人間」に「火の玉」のような星が近づいてくる。だから「暑さかな」ってのは、暑くてかなわん、というよりも、何かこう暑さの中に不気味なものが混ざっているような暑さということで、単にもう、暑いから水浴びでもするかっていうふうなことじゃなくて、水浴びなんかしたって取れないような暑さ、ちょっと粘り着くような暑さが感じられる句で、冬に読むとあまり実感が湧かないかもしれません。これ真夏の暑いときに、暑さにもいろいろありますからね、もう本当に暑くて暑くて何も考えられなくて、シャワーでも浴びるかっていうのもあれば、何か不気味な感じの、何か粘つくような暑さっていうのもあって、どっちかっていうと、これは粘つくような暑さを読んだ句だなあと思って、これはなかなか、なかなかというと失礼ですけど、これは非常に、非常な名句だと思います。『萩原朔太郎全集・第三巻』(1986・筑摩書房)所収。(清水哲男)


August 1782002

 暑き日の證下界に光るもの

                           山口誓子

子は登山をよくしたから、山の句も多い。頂上まで登る途次に、一休みで「下界」を見下ろした。煙草を喫う人だったかどうかは知らないけれど、一服しながら眺める下界の様子は心に沁みる。あんなに低い所から登ってきたという達成感もあるが、それ以上にあるのは、あそこには人々の暮らしがあるのだという感慨だろう。高い山には、まったく暮らしの匂いがない。ないから、ごく自然に「下界」(人間界)と口をついて出てくる。それにしても、ヤケに暑い日だ。何度くらいだろうか。見やっている下界では、ところどころで何かが陽射しを反射して強烈に光っている。あれが暑さの「證(あかし)」だ、道理で暑いわけだと、納得している。山の子だった私には、かつて見慣れた光景だが、下界に「光るもの」と言われて、あらためて気づいたことがある。人が暮らす場所には、必ず「光るもの」があるということ。川や海も光るが、もっと鮮烈に光るものと一緒に人は暮らしているということだ。昔は土蔵の白壁だったり屋根瓦だったり、いまではビルの窓ガラスや車のボディだったりするわけで、地上ではさして気にもとめないでいる「光るもの」が、高い山なる「天界」から見ればまことに鮮やかに写るのである。となれば、あの世には「光るもの」などない理屈だと、妙なことまで思ってしまった。『山嶽』(1990・ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)


August 2782003

 大きな火星へ汚れ童子等焚火上ぐ

                           川口重美

星最接近の日。六万年ぶりという。最接近とは言っても、地球からの距離は5千5百万キロメートルほどだから、上の看板みたいに大きく見えるわけじゃない。昨夜のラジオで国立天文台の人が、肉眼では2百メートル先の百円玉くらいにしか見えないと言っていた。今夜よりも少し遠ざかるが、大気が澄み上る時間が早くなる九月か十月が見ごろとも……。さて、火星といえば何と言っても萩原朔太郎の「人間に火星近づく暑さかな」が秀抜だが、この句については既に触れた。他にないかと、やっと探し当てたのが掲句である。「焚火」は冬の季語だから、残念なことに季節外れだ。戦後三年目(1948年)の作句。「汚れ童子等」とは、おそらく戦災孤児のことだろう。寒いので、そこらへんの燃えそうなものを持ってきては、委細構わずに燃やしている。生き伸びるための焚火である。中村草田男の「浮浪児昼寝す『なんでもねえやい知らねえやい』」に通う情景だ。このときに「大きな火星」とは、何だろうか。むろん実景としては常よりも少しは大きな火星が見えているのだろうが、句の勢いからすると、むしろ巨大に見えているという感じがする。その巨大な火星にむけて、子供らのやり場の無い鬱屈した怒りが、炎となって焚き上げられている。もはや、こんな地球は頼むに足らずと言わんばかりだ。作句年代からすると、この火星はソビエト連邦のシンボルであった赤い星に重ね合わされているのかもしれない。当時盛んに歌われた歌の一節に「赤き星の下に眠る我が山河広き野辺、世界に類無き国、麗し明るき国、我らが母なるロシア、子供らは育ちゆく」という文句があった。藤野房彦サイト「私の書斎」所載。(清水哲男)


July 1172004

 學徒劇暑し解説つづきをり

                           後藤夜半

十数年ほど前の句。ちょうど私が「學徒(学生)」だったころの話だから、思わず苦笑させられた。たしかに理屈っぽかったなあ、あのころの学生は……。演劇のことはよく知らないが、スタニスラフスキー・システムがどうのと、演劇部の連中はよく議論してたっけ。チケットを売りつけられてたまに見に行ったけど、能書きばかりが先に立って、よくわからない芝居が多かった。作者もまた、そんな演劇を見ている。はじまる前に解説があって、それがヤケに長いのだ。当時のことゆえ、学生が借りられるような会場に冷房装置はないのだろう。長く七面倒くさい解説にはうんざりさせられるし、暑さはますます厳しいし、何の因果でこんなものを見に来る羽目になったのかと、我が身が恨めしい。どうやら、まだまだ解説はつづくようだ。やれやれ、である。いまどきの学生演劇でこんなことはないと思うが、演劇に限らず、昔の学生の文化活動には、どこか啓蒙臭がつきまとっていた。無知なる大衆の蒙を啓こうとばかりに、ときには明らかな政治的プロパガンダの意図を持って、さまざまなイベントが展開されていた。傲慢といえば傲慢な姿勢ではあるが、しかし一方で自分たちの活動に純粋な信念を持っていたのも確かだ。このことの是非は置くとして、作者ならずとも、心のうちでは文句を言い、大汗たらたら、団扇ぱたぱたで、しかし大人しく(!!)開幕を待つ人たちの姿が彷彿と浮かんでくる一句だ。『彩色』(1968)所収。(清水哲男)


August 0282004

 暑き故ものをきちんと並べをる

                           細見綾子

語は「暑き(暑し)」。人の性(さが)として、炎暑のなかでの行為はどうしても安きに流れがちだ。注意力も散漫になるし、適当なところで放り出したくなる。だが、そうした乱雑な振る舞いは、結局は精神的に暑さを助長するようなもので芳しくない。たとえば取り散らかした部屋よりも、きちんと片付いている部屋のほうに涼味を感じるのはわかりきったことだ。なのに、ついつい私などは散らかしっぱなしにしてしまう。で、いつも暑い暑いとぶつぶつ文句を言っている。掲句では、何を「並べをる」のかはわからないが、それはわからなくてもよい。暑いからこそ、逆に普段よりも「きちんと」しようという意思そのものが表現されている句だからだ。それも決して大袈裟な意思ではなくて、ちょっとした気構え程度のそれである。でも、この「ちょっと」の気構えを起こすか起こさないかは大きい。その紙一重の差を捉えて、句は読者に「きちんと」並べ終えたときの良い心持ちを想起させ、暑さへのやりきれなさをやわらげてくれている。句に触れて、あらためて身辺を見回した読者も少なくないだろう。むろん、私もそのひとりだ。『冬薔薇』(1952)所収。(清水哲男)


October 31102007

 無駄だ、無駄だ、/大雨が/海のなかへ降り込んでいる

                           ジャック・ケルアック

藤和夫訳。原文は「Useless,useless,/theheavyrain/Drivingintothesea」の三行分かち書きである。特に季語はないけれど、秋の長雨と関連づけて、この時季にいれてもよかろう。たしかに海にどれほどの大雨や豪雨が降り込んだところで、海はあふれかえるわけではなく、びくともしない。それは無駄と言えば無駄、ほとんど無意味とも言える。ケルアックは芭蕉や蕪村を読みこんでさかんに俳句を作った。アレン・ギンズバーグ同様に句集もあり、アメリカのビート派詩人の中心的存在だった。掲出句を詠んだとき、芭蕉の「暑き日を海に入れたり最上川」がケルアックの頭にあったとも考えられる。この「無駄だ・・・」は、単に海に降りこむ大雨の情景を述べているにとどまらず、私たちが日常よくおかすことのある「無駄」の意味を、アイロニカルにとらえているように思われる。その「無駄」を戒めているわけでも、奨励しているわけでもなさそうだけれども、「無駄」を肯定している精神を読みとらなくてはなるまい。この句はケルアックの『断片詩集(ScatteredPoems)』に収められている。同書で俳句観をこう記している。「(俳句は)物を直接に指示する規律であり、純粋で、具象的で、抽象化せず、説明もせず、人間の真のブルーソングなのだ」。これに対し、自分たちビート派の詩は「新しくて神聖な気違いの詩」と言って憚らないところがおもしろい。佐藤和夫『海を越えた俳句』(1991)所載。(八木忠栄)


May 2652008

 中肉にして中背の暑さかな

                           加藤静夫

の句、どことなくおかしい。「おかしい」と言うのは、変であり滑稽でもあるという意味だ。すらりと読み下ろせば、この「中肉にして中背の」形容は「暑さ」に掛かることになる。つまり、暑さを擬人化していると読める。しかしいくら擬人化しているとはいえ、中肉中背の暑さとは不可解だ。どんな暑さなのか。強いて言えば季節に頃合いの暑さと受け取れなくもないけれど、その暑さの程度はわかったようでわからない。でも読者は馬鹿じゃないから、ここで瞬時に読みの方角を転換して、中肉中背とはすなわち作者のことであり、その作者が感じている暑さのことだと頭を切り替える。が、そう読んでしまうと、さあっとシラける。せいぜいが肥満体にして長身の人の暑がっている姿などを想像し、それに比べれば楽そうだなどと思うだけで、句全体はさして面白くなくなるからだ。そこでまた馬鹿じゃない読者は最初の読みに戻り、いや待てよとばかりに次の読みに行き、そうこうしているうちに、この読み方の揺れ自体に句のねらいがありそうだと気付き、気付いたときには作者の術中にはまってしまっているのである。つまり前者と後者の読みが揺れながら重なったり離れたりすることで、この句はようやく精彩を発揮するというわけだ。そこらへんに、変であり滑稽であると感じさせる仕掛けの秘密があると読んだ。『中肉中背』(2008)所収。(清水哲男)


May 2852008

 石載せし小家小家や夏の海

                           田中貢太郎

太郎は一九四一年に亡くなっているから、この海辺の光景は大正から昭和にかけてのものか? 夏の海浜とはいえ、まだのどかというか海だけがだだっ広い時代の実景であろう。粗末で小さい家がぽつりぽつりとあるだけの海の村。おそらく気のきいた海水浴場などではないのだろうし、浜茶屋といったものもない。海浜にしがみつくようにして小さな家が点々とあるだけの、ごくありきたりの風景。しかも、その粗末な家の屋根も瓦葺ではなく、杉皮か板を載せて、その上に石がいくつか重しのように載っけられている。いかにも鄙びた光景で、夏の海だけがまぶしく家々に迫っているようだ。「小家小家」が打ち寄せる「小波小波」のようにさえ感じられる。何をかくそう、私の家も昭和二十五年頃まで屋根は瓦葺でもトタンでもなく、大きな杉皮を敷きつめ、その上にごろた石がいくつも載っかった古家だった。よく雨漏りがしていたなあ。貢太郎は高知出身の作家。代表作に『日本怪談全集』があるように、怪談や情話を多く書いた作家だった。そういう作家が詠んだ句として改めて読んでみると、「小家」が何やら尋常のもではないような気もして謎めいてくる。貢太郎の句はそれほど傑出しているとは思われないが、俳人との交際もさかんで多くの句が残されている。「豚を積む名無し小駅の暑さかな」という夏の句もある。「夏の海」といえば、渡邊白泉の「夏の海水兵ひとり紛失す」を忘れるわけにはいかない。『田中貢太郎俳句集』(1926)所収。(八木忠栄)


July 2172008

 暑うしてありありものの見ゆる日ぞ

                           今井 勲

者は私と同年。昨夏、肝臓ガンで亡くなられたという。句は亡くなる前年の作で、何度も入退院を繰り返されていたが、この頃は比較的お元気だったようだ。が、やはりこの冴え方からすると、病者の句と言うべきか。暑くてたまらない日だと、たいていの人は、むろん私も思考が止まらないまでも、どこかで停止状態に近くなる。要するに、ぼおっとなってしまう。でも作者は逆に、頭が冴えきってきたと言うのである。「見ゆる日ぞ」とあるから、暑い日にはいつも明晰になるというわけではなく、どういうわけかこの日に限ってそうなのだった。ああ、そうか。そういうことだったのか。と、恐ろしいほどにいろいろなことが一挙にわかってきた。死の直前の句に「存命の髪膚つめたき真夏空」があり、これまた真夏のなかの冷徹なまでの物言いが凄い。「髪膚(はっぷ)」は髪の毛と皮膚のこと。人は自分に正直になればなるほど、頭でものごとを理解するのではなく、まずは身体やその条件を通じてそれを果たすのではあるまいか。病者の句と言ったのはその意味においてだが、この透徹した眼力を獲得したときに、人は死に行く定めであるのだとすれば、人生というものはあまりに哀しすぎる。しかし、たぶんこれがリアルな筋道なのだろうと、私にはわかるような気がしてきた。こういうことは、誰にでも起きる。遺句集『天樂』(2008・非売)所収。(清水哲男)


July 3172008

 ほらごらん猛暑日なんか作るから

                           中原幸子

れにしても暑い。おおせの通り、言葉が現実を作り出すのでしょうか。「夏日」「真夏日」に加えて「猛暑日」が作られたのが去年。そんな看板に合わせてどんどん気温がうなぎのぼりになっているのかもしれない。「酷暑」「極暑」なんて季語も、いかにも暑そうだけど「猛暑」となると一枚上手、暑さがうなり声をあげて息巻いていいそうである。いまや30度の「真夏日」なんてまだ涼しい、と思ってしまう自分がこわい。冷房の効いたビルから一歩外へ踏み出せば、灼熱の日差し、アスファルトの照り返しに頭がかすんで息も詰まるばかり。そんなとき、この句がぐるぐる頭を回りだす。「ほらごらん」とは、「猛暑日」を作ったお役人とともに作者も含め快適さを享受しながら暑さにおたおたする私達へも向けられているのだろう。今までの最高気温は去年熊谷で記録された40.9度ということだったけど、今年はどうなのだろう。みなさま熱中症にはくれぐれもお気をつけください。「船団」75号(200712/1発行)所載。(三宅やよい)


May 3152009

 物申の声に物着る暑さかな

                           横井也有

申(ものもう)と読みます。今なら「ごめんください」とでもいうところでしょうか。いえ、今なら呼び鈴のピンポンなのでしょう。マンション暮らしの長い私には、人が声をあげて訪ねてくる場面には、ほとんど出くわしません。子供たちが小さな頃でさえ、「遊びましょ」という呼びかけを、聞いたことがありません。訪ねてきた人は、子供であろうと大人であろうと、いつも同じ大きさの「ピンポン」です。そこには特段の思い入れが入る余地はありません。この句を読んで思ったのは、「普段着」のことでした。昔はたしかに、家の中にいるときには夏でなくてもひどい格好をしていました。国ぜんたいが貧しかった頃ですから、子供だったわたしはそれほど気にしていませんでしたが、思い出せばいつも同じの、きたない服を着ていました。夏はもちろん冷房などはなく、この句にあるように、暑さに耐えるためには服を脱ぐしかありませんでした。今は真夏でも、人が訪ねてくればともかく、すぐに会える姿をしています。それがあたりまえのことではなかったのだと、この句はあらためて思い出させてくれます。一瞬の動作と、時代を的確に描ききっています。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


July 0172010

 捨てきれぬ山靴ありし暑さかな

                           本郷をさむ

日は富士山をはじめ多くの山で山開きが行われる。歳時記によるとむかし山に登るのは修行であり信仰行事であったため、一般の人は山に登るのは禁止されていた。が、夏の一定期間だけは許されていたのでその名残だという。最近の中高年登山ブームに乗っかって、私も秩父の山に登ったりはするが、最後は息切れがして頂上へたどりつくのがやっとである。それでも山岳地図を広げ頂上を極めた山に印をつけるのは楽しい。ましてや若いときから登山を続けてきた人にとっては困難な高峰への登頂をともにした登山靴への思い入れは格別だろう。軽く歩きやすい登山靴がいくらでも出ている今、若い頃履いた重い山靴は実用に耐えそうにないが、それでも捨てきれない。そんな自分の執着を「暑さかな」と少し突き放して表現しているだけに作者のその靴に対する思い入れが伝わってくる。『物語山』(2008)所収。(三宅やよい)


July 1972012

 暑からむいとしこひしの大阪は

                           守屋明俊

の間オリエンタルカレーの懐かしのパッケージを見つけて思わず買ってしまった。その昔、日曜日の昼と言えばオリエンタルカレー提供の「がっちり買いまショウ」を見ていた。いとし、こいしが司会だった。当時は物足りなかったけど、二人にはやすし、きよしのようなしゃべくり漫才にはない大人の味わいがあった。大阪の暑さは格別で、奥坂まやの句にも「大阪の毛深き暑さ其れを歩む」という句がある。湿気が高くてそよりとも風の吹かない大阪の夏はむうっと息が詰まる暑さだ。しかし掲載句は「暑からむ」と推定になっている。大阪から遠くに離れ、今はいない「いとしこいし」の洒脱な漫才を想うように大阪の粘る暑さを懐かしく思っているのだろう。今年の大阪も暑いだろうか。京都の夏、名古屋の夏、東京の夏、それぞれの都市に似合いの人や事柄を取り合わすことで暑さの受け取り方も変わってきそうだ。『日暮れ鳥』(2009)所収。(三宅やよい)


July 2372012

 鶏舎なる首六百の暑さかな

                           佐々木敏光

百羽もの鶏が鶏舎から首を出して、いっせいに餌を食べている図だ。想像しただけで暑さも暑しである。私が子どもだったころには、こういう光景は見られなかった。そのころはどこでも「平飼い」であり、句のような立体的な鶏舎で飼う方式(バタリー方式)に移行したのは50年代も後半からだったと記憶する。父が購読していた「養鶏の友」などという雑誌で、盛んにバタリー方式が推奨されていたことは知っていたが、まさか平飼いが消滅するとは夢想だにしなかった。この方式では、雌鳥を完全に卵を産む機械とみなしている。一羽あたりの生息面積はA4判くらいしかなく、夜も照明を当てられて産まない自由は奪われている。私のころの夏休みといえば鶏の世話は子どもの役目で、夕暮れどきに散らばっている鶏たちを鶏舎に追い込む苦労も、いまとなっては楽しい思い出だ。鶏は頭がよくないという説もあるが、あれでなかなか個性的であり、一羽一羽に情がうつったものである。が、バタリー方式になってしまっては、そうした交流もかなわない。ただただ暑苦しいだけ……。ヨーロッパあたりでは、この残酷な飼い方を見直す動きが出ていると聞く。『富士・まぼろしの鷹』(2012)所収。(清水哲男)


July 2572012

 年毎の二十四日のあつさ哉

                           菊池 寛

句が俳句として高い評価を受けるに値するか否か、今は措いておこう。さはさりながら、俳句をあまり残した形跡がない菊池寛の、珍しい俳句として採りあげてみたい。この「二十四日」とは七月二十四日、つまり「河童忌」の暑さを詠んでいる。昭和二年のその日、芥川龍之介は服毒自殺した。三十六歳。「年毎の……あつさ」、それもそのはず、一日前の二十三日頃は「大暑」である。昔も今も毎年、暑さが最高に達する時季なのだ。昭和の初めも、すでに猛烈な暑さがつづいていたのである。「節電」だの「計画停電」だのと世間を騒がせ・世間が騒ぎ立てる現今こそ、発電送電体制が愚かしいというか……その原因こそが愚策であり、腹立たしいのだが。夏はもともと暑いのだ。季節は別だが、子規の句「毎年よ彼岸の入に寒いのは」をなぜか連想した。芥川自身にも大暑を詠んだ可愛い句がある。「兎も片耳垂るる大暑かな」。また万太郎には「芥川龍之介仏大暑かな」がある。そう言えば、嵯峨信之さんは当時文春社員として、芥川の葬儀の当日受付を担当した、とご本人から聞かされたことがあった。芥川の友人菊池寛が、直木賞とともに芥川賞を創設したのは昭和十年だった。さまざまなことを想起させてくれる一句である。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 2662014

 東京ははたらくところ蒸し暑し

                           西原天気

日都心に通勤しているが、「はたらくところ」というのは実感だ。東京の都心は生活の匂いがしない。窓のあかない高層ビルの只中に緑はまばら、夏の日の照り返しを受けた舗道を歩くとあまりの暑さに息が詰まる。冷房のきいたオフィスと戸外の気温の落差に一瞬目がくらむほどだ。「はたらく」という忍耐の代償としてお給料がある。と、新聞の人生相談に書いてあったけど、憂鬱な表情で通勤している人たちはどうやって自分をなだめているのだろう。今朝もまた人身事故で電車が遅れるという告知が電光掲示板に流れる。やってられないなぁ、と思いつつ掲句を呟いてみる。『はがきハイク』(2010年7月・創刊号)所載。(三宅やよい)


July 1972014

 伸びきつてゐたる暑さやタマの午後

                           高濱朋子

はタマ、の由来は様々あるらしいが現在は、庭付き平屋一戸建てに三世代のサザエさん一家同様かえって珍しい。それでも、白い猫を見て、タマ、の名前を思い浮かべる人はまだ多くいるだろう。あら、お前も暑そうねえ、とわずかな物陰に体を合わせるように身を横たえる猫に声をかける作者。そこでふと思いついた一句、猫、とせずに、タマ、とする遊び心がこの作者の持ち味の一つだ。おもしろさだけでなく、どこにでもいる白い猫のありさまを読み手が共有することは、連日の暑さをやれやれと思いつつも、日本らしい夏への愛着を共有することにつながっている。虚子の七番目の孫にあたる作者の第一句集、その名も『おそき船出に』(2014)所収。(今井肖子)


August 2082014

 フード付きマント/影の色持ち/オアシスの暑さ

                           ジム・ケイシャン

句は「a burnoose takes on / the color of the shade / oasis heat」(Jim Kacian/邦訳:夏石番矢)。海水浴場の砂浜にかぎらず、暑い日差しのなかでは、フード付きマントのフードをすっぽりかぶっていないと、炎暑はたまったものではないし、健康管理上ヤバい。「影の色」とはマントについた「フード」による日影を意味していると思われる。単なる「影」ではなく、「影の色」と表現したところにポエジーが感じられる。フードで暑さはいくぶん避けられるとしても、マント全体は暑い。フードを「オアシス」ととらえても暑さは避け切れない。でも、確かに多少なりともホッとできるような、「オアシス」という語感がもつ救いが若干なりともあるだろう。句の舞台は実際の砂漠ではなくて、暑い日差しのなかでの「フード付きマント」であり、それを「オアシス」と喩えたものと私は解釈したい。ケイシャンはアメリカ人で、「英語俳句を創作し、広めることを目的とした団体を創立し、ディレクターを務める」「多くの俳句の本を出版する」と略歴紹介にあるとおり、英語俳句の実力者である。「吟遊」63号(2014)所載。(八木忠栄)


June 1162015

 ぎりぎりの傘のかたちや折れに折れ

                           北大路翼

月11日は「傘の日」らしい。台風や雨交じりの強風が吹いたあと、道路の片隅にめちゃくちゃになったビニール傘が打ち捨てられているのを見かける。まさに掲句のように「ぎりぎりの傘のかたち」である。蛇の目でお母さんが迎えにくることも、大きな傘を持ってお父さんを駅に迎えに行くこともなくなり、雨が降れば駅前のコンビニやスーパーで500円のビニール傘を購入して帰る。強い衝撃にたちまちひしゃげてしまう安物の傘は便利さを求めて薄くなる今の生活を象徴しているのかもしれない。掲句を収録した句集は新宿歌舞伎町を舞台に過ぎてゆく季節が疾走感を持って詠まれているが、傘が傘の形をした別物になりつつあるように、実体を離れた本意で詠まれがちな季語そのものを歌舞伎町にうずまく性と生で洗い出してみせた試みに思える。「饐えかへる家出の臭ひ熱帯夜」「なんといふ涼しさ指名と違ふ顔」『天使の涎』(2015)所収。(三宅やよい)


June 2862015

 この街に生くべく日傘購ひにけり

                           西村和子

がスタートしています。前向きな明るさに、元気をいただきました。作者は横浜育ちのようですが、たぶんご主人の仕事の都合で大阪の暮らしが始まったのでしょう。句集には「上げ潮の香や大阪の夏が来る」「大阪の暑に試さるる思ひかな」があり、そのように推察します。「生くべく」で語調も強く意志を示し、「購(か)ひにけり」で行動をきっぱり切る。動詞を二語、助動詞を三語使用しているところにこの句の能動性が表れています。それにしても「日傘購ひ」は、男にはほとんどない季語の使い方で、いいですね。素敵な日傘を購入したことでしょう。句集では「羅(うすもの)のなよやかに我を通さるる」が続き、大阪の街を白い日傘をさして、女性らしい張りをもって歩く姿を読みとります。『かりそめならず』(1993)所収。(小笠原高志)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます