July 1771998

 蜥蜴出て遊びゐるのみ牛の視野

                           藤田湘子

際に、牛の視野がどの程度のものなのかは知らない。大きな目玉を持っているので、たぶん人間よりも視野は広いと思われるが、どうであろうか。逆に闘牛のイメージからすると、闘牛士が体をかわすたびに牛は一瞬彼を見失う感じもあるので、案外と視野は狭いのかもしれない。どちらかはわからないけれど、この句は面白い。鈍重な牛に配するに、一見鈍重そうに見えるがすばしこい蜥蜴〔とかげ〕。もちろん、大きな牛と小さな蜥蜴という取り合わせもユーモラスだ。牛も蜥蜴もお互いに関心など抱くはずもないのだけれど、俳人である作者の視野にこうして収められてみると、俄然両者には面白い関係が生まれてきてしまう。動くものといえばちっぽけな蜥蜴しか見えない大きな牛の「孤独」が浮かび上がってくる。この取り合わせは、もとより作者自身の「孤独」に通じているのだ。作者にかぎらず、俳人は日常的にこのような視野から自然や事物を見ているのだろう。つまり、何の変哲もない自然や事物の一部を瞬時に切り取ってレイアウトしなおすことにより、新しい世界を作り上げる運動的な見方……。それが全てではないと思うが、俳句づくりに魅入られる大きな要因がここにあることだけは間違いなさそうだ。『途上』〔1955〕所収。(清水哲男)




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