July 1171998

 夏痩せて身の一筋のもの痩せず

                           能村登四郎

ーワードは「身の一筋のもの」である。夏負けで身体全体が少々痩せてきても、この部分だけは痩せてはいないと、作者は言っている。さてそれならば、「身の一筋のもの」とは何だろうか。読者が男性であれば(いや、男性でなくとも)、たぶん「ははあ、アレのことか」とすぐに見当がつくのではなかろうか。これを精神的なアレだと思った人は、生来のカマトトだろう。私も、みなさんと同じように(!?)即物的に「アレのことか」と思った次第だ……。で、そう思った次には、すぐに「よく言うよ」と思って笑ってしまい、その次にはしかし、なんだか妙な気分に捉われてしまった。この句に詠まれていることが本当かどうかという問題ではなくて、ヒトの身体というものの寂しさを、この句が象徴しているように思えたからである。自分の身体は、死ぬまで自分と一緒である。あたかもそれは「不治の病」と同じような関係構造を有しているのであり、その意味から言うと、人は誰でも「自分という病」を、身体的には先験的に病んでいるのだとも言える。そこらあたりのことを、しかし俳人はかくのごとくに「へらへらっ」とした調子で詠んでみせる。もしかしたら持ち合わせている「身の一筋のもの」が、かなり私などとは異なるのかもしれない。そんな不安にもさいなまれそうになる作品だ。『民話』(1972)所収。(清水哲男)




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