June 2361998

 雨の日は傘の内なり愛国者

                           摂津幸彦

ういう句を読むと、俳句はつらいなと思う。愛国者の「主義主張」も「悲憤慷慨」も、しょせんは雨に濡れるのを嫌う普通の人々と同じ思考回路(傘)の内にある……。と、一つの読み方はこれでよいと思うが、しかし、ここでは肝腎の「愛国者」の顔がまったく見えてこない。あまりにも漠然としていて、つかみ所がないのである。こいつは、読者には大いに困る事態なのだ。なぜこうなるかは、もちろん俳句が短いという単純な理由によるわけで、作者の「愛国者」観は永遠に作者の内(傘の内)に閉じ込められたままとなっている。そこで読者としては、俳句お得意の取り合わせの妙があるかどうか、作者によって各自にゆだねられた「愛国者」観を通して、それを感じるしかないということになってしまう。作者の書き残した散文を読むと、単なる取り合わせだけに終わっている句を嫌悪しているが、そしてこの句は確かに「単なる取り合わせ」の殻を破ろうとしていることだけはわかるが、しかし結局は取り合わせで読まれるしかない不幸を構造的に背負ってしまっている。そんなハンデを百も承知で、なぜ摂津幸彦は俳句に執したのだろうか。句の「愛国者」をこれまた曖昧な概念の「売国奴」に入れ替えたとしても、作者のねらいは少しも変わらないのではないかと、私には思える。俳句は自由詩じゃない。だからこのように、誰かがつらいシーンを引き受けなければならない場合もあるということなのか。『奥野情話』(1977)所収。(清水哲男)




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