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June 0861998

 開くかな百合は涙を拭いてから

                           折笠美秋

白の百合である。百合の開花を、このように人間的に、しかも高貴に捉えた句を他に知らない。作者は百合という生命体を心からいとおしみ、自己衰亡につながる開花を決然とやってのける姿に打たれている。もとより百合自身にそんな意識はないのであるが、それがそのように見えるのは、作者の生命に対する畏怖であり畏敬の念からである。見事なほどに美しい句だ。たしかに、百合は決然と花開く。そうか、そしてその前にはひっそりと涙を拭いているのか。折笠美秋は東京新聞の優れた記者であると同時に気鋭の俳人として活躍していたが、志半ばにして病に倒れた。ベッドでの思いを、夫人が口の動きだけを頼りに書きとめた文章のごく一部を紹介しておく。「……奇妙な病魔に冒され、五体萎えて動かず、ほぼ意のままに動かし得るのは、目と口とのみである。その口も音声を発し得ず、目もまた、いたずらに白い天井を睨むばかりである。/字が書きたい」。病名を筋萎縮性側索硬化症というが、当人には知らされなかった。『君なら蝶に』(1986)所収。(清水哲男)


June 1462000

 百合の花超然として低からず

                           高屋窓秋

て、窓秋晩年の一句をどう読めばよいのか。表層的な意味ならば、中学生にだって理解できる。凛乎とした百合の花讃歌だ。この百合の姿かたちに、誰も異存はないと思う。「低からず」とわざわざ述べているのは、丈の高低を問題にしているからではなく、「超然とし」た花のすがたを、なお鮮やかなイメージに補強するためである。普通に読むと「超然」に「低からず」は潜在的なイメージとして浮き上がってくるはずだが、窓秋は念には念を入れている。もっと言えば、下手くそな句になることがわかっていながらの、あえての念押しなのだ。なぜだろうかと、私は立ち止まってしまった。考えてみて、以下は私の暴論に等しいかもしれぬ結論である。すなわち、このときに窓秋は、もはや読者のイメージを喚起することに空しさを覚え、みずからが築いてきた喚起装置にも疑念を抱き、逆にそれらを封印する句を作ってみたかったのではあるまいか。誰が読んでも読み間違えのない句。言葉の通り以上でも以下でもない句。つまりは、表層的にしか読みようのない句。そんな句を作りたかった……。だからこその「念押し」だったのではないか。かつて「山鳩よみればまはりに雪がふる」と書き、天下を酔わせた俳人のこの文学的帰着は、個人的作法を越えた俳句全体の問題として、なお考えてみる必要がありそうだ。『花の悲歌』(1993)所収。(清水哲男)


July 0272000

 山百合の天に近きを折り呉るる

                           櫛原希伊子

誌「百鳥」が届くと、待ちかねて同人欄で最初に読むのが、櫛原希伊子の句だ。この人の句は、なによりも思い切りがよい。「天に近きを」と言ったのは、事実描写であると同時に、山百合のこの上ない美しさに「天」を感じたからだ。野生の山百合には、他の百合には及ばない気高さがある。この気高さは、たしかに「天」を思わせる。小学校の通学路(山道)に、山百合の乱れ咲く小高い山があった。たまに道草をして、山百合や小笹の群生する丘を分けのぼり、寝転がって空を眺めるのが好きだった。空からは、長閑な閑古鳥の声が聞こえ、細目で真下から見上げる花の美しさは、子供心にも強く訴えてくるものがあった。後に「山のあなたの空遠く、さいわい住むと人の言う」ではじまるカール・ブッセ(だったかしらん)の詩を習ったが、私にはとうてい外国人の詩とは思えなかった。なんだか、その頃の自分の気持ちを代弁してくれているように感じたからである。詩に山百合は出てこないが、私にははっきりと見えるような気がした。いまでも、この詩を思い出すと、まっさきに山百合の姿が浮かんでくる。山百合の句で人口に膾炙しているのは、富安風生の「山百合を捧げて泳ぎ来る子あり」だろう。風生の句もまた、事実描写であるとともに、その気品のある美しさへの思いを「捧げて」に込めている。やはり、「天」に通じているのだ。『櫛原希伊子集』(2000・俳人協会刊)所収。(清水哲男)


August 1882001

 ひぐらしや尿意ほのかに目覚めけり

                           正木ゆう子

の「目覚め」の時は、朝なのか夕刻なのか。早朝にも鳴く「ひぐらし(蜩)」だから、ちょっと戸惑う。「尿意ほのかに」からすると、少し遅い昼寝からの目覚めと解するほうが素直かなと思った。つまり、ほのかな尿意で目覚めるほどの浅い眠りというわけだ。そんな眠りから覚めて、覚醒してゆく意識のなかに、まず入ってきたのは「ひぐらし」の声だった。もう、こんな時間。もう、こんな季節。ほのかな寂寥感が、ほのかな尿意のように、身体のなかの遠くのほうから滲むように忍び寄ってくる。寂寥を心理的にではなく、体感的にとらえることで、説得力のある一句となった。人はこのようにして、不意に謂われのない寂しさに囚われることがある。しかもその寂しさは悲しみに通じるのではなく、むしろ心身の充実感につながっていくような……。寂しさもまた、人が生きていくためには欠かせない感情の一つということだろう。作者はそのあたりの機微にとても敏感な人らしく、次のような佳句もある。「双腕はさびしき岬百合を抱く」。この句にも、しっかりとした体感が込められているので、一見大げさかと思える措辞が少しも気にならない。『悠 HARUKA』(1994)所収。(清水哲男)


June 1462003

 笹百合や嫁といふ名を失ひし

                           井上 雪

笹百合
語は「笹百合」(写真参照)で夏。葉が笹に似ている。山野に自生し、西日本を代表する百合の花と言われてきたが、最近はずいぶんと減ってしまったようだ。生態系の変化もあるけれど、根元から引っこ抜いていく人が後を絶たないからだという。でも、自宅で育てるのは非常に難しいらしい。さて、句の前書には「姑死す」とある。作者は寺門に嫁いだ人だから、それだけ「嫁」の意識は強かったのだろう。私の知人に、つい数年前に僧侶と結婚した人がいる。ごく平均的なサラリーマンの娘だった。で、話を聞いてみると、なかなかに戸惑うことも多いらしい。新婚当時、二人で寺の近所を散歩していたら、檀家衆から「並んで歩くのは如何なものか」という声が聞こえてきたという。以来、本当に三歩ほど下がって歩いているというのだから、この一事をもってしても、「嫁」を意識するなというほうが無理である。もちろん、掲句の作者の生活については何も知らない。が、やはり「姑」との関係は、世間一般の人のそれよりも濃密であったと想像される。亡くなられて、まず「嫁といふ名」を思ったことからも、そのことがよくうかがえる。このときに「笹百合」は、清楚な生涯を送った姑に擬していると同時に、ひっそりと、しかししっかりと咲く姿を、今後の自分のありように託していると読んだ。追悼句ではあるけれど、単なる悼みの句だけに終わっていないところは、やはり「嫁」ならではの発想であり発語だと言うべきか。『和光』(1996)所収。(清水哲男)


July 0172005

 暇乞い旁百合を嗅いでいる

                           池田澄子

語は「百合」で夏。「旁」は「かたがた」。玄関先だろうか。「暇(いとま)乞い」に訪れた人が、たまたまそこに活けてあった「百合を嗅いでいる」。百合を嗅ぐ行為と暇乞いとは何の関係もないのだけれど、ほとんどの読者はこの情景を、ごく自然なものとして受け入れるだろう。訪ねてきた人を変わった人だなどとは、まず思わない。それはおそらく、シチュエーションは違っても、私たちは日常的にこの種の行為を自分で繰り返したり目撃したりしているからだと思う。何かをする「旁」、ほとんど無意識的に目的とは無関係な行為をプラスするのだ。何故だろうか。……と問うほうが実は変なのであって、人間は合目的的な行為だけを選択し実践しているわけじゃない。合理の世界から言えば、むしろ無駄な行為を多く実践することによって、人はようやく合理に近づけるのではなかろうか。句の人の合理は、むろん暇乞いにある。が、暇乞いとは通常別れ難い感情を内包しているから、単に事務的に口上を述べればよいというものではない。いくら言葉で別れ難さを表現したとしても、口上では表現できない感情の部分が残ってしまう。何かまだ、相手には伝え足りない。落ち着かない。そんな思いが、突然百合の香を嗅ぐという非合理的な行為につながった。心理学者じゃないので、当てずっぽうに言ってみているだけだが、これも人情の機微の不思議なところで、その一瞬を逃さずに詠んだ作者の目は冴えに冴えているとしか言いようが無い。『たましいの話』(2005)所収。(清水哲男)


July 0672005

 寝不足にやや遠ざけし百合の壺

                           能村研三

語は「百合」で夏。「寝不足」がたたって、体調がよろしくない。それでなくとも百合の花の芳香は強いから、こういうときにはいささかうとましく感じられるものだ。そこで、飾ってある壺を少しだけ遠ざけたと言うのである。花粉が飛び散らないように、そろそろっと壺を押しやっている作者の手つきまでが見えるようだ。このように、体調如何によって人の感覚は微妙に変化する。その昔の専売公社の宣伝に「今日も元気だ、煙草がうまい」というのがあったが、これなどもそのことをずばりと言い当てた名コピーだろう。だから、誰にとっても常に美しかったり常に美味かったりする対象物はあり得ないことになる。すべての感覚は、体調や、それに多く依拠している気分や機嫌の前に、相対的流動的なのであって定まることがない。ただ哀しいかな、私たちがそのことを理解できるのは体調不良におちいったときのみで、いったん健康体に戻るや、けろりと「永遠絶対の美」などという観念に与したりするのだから始末が悪い。飛躍するようだが、テレビなどという媒体は、視聴者が全員元気であることを前提にしている。したがって、身体的弱者や社会的弱者へのいたわりの気持ちが無い。早朝から天気予報のお姉さんがキャンキャン言い募るのも、視聴者がみな熟睡して爽快な気分で目覚めていると断定していることのあらわれで、句の作者のような状態ははじめから勘定の外にあるわけだ。やれやれ、である。『滑翔』(2004)所収。(清水哲男)


May 1252008

 二の腕を百合が汚してゆきにけり

                           河野けい子

合の花は好ましいが、ただ花粉の量が多くて厄介だ。部屋に飾っておくと、いつの間にやら花粉が飛散して、そこらじゅうを汚してしまう。服やテーブル・クロスなどに付着すると、なかなか取れなくて往生する。だから花屋によっては、最初からオシベを取ってしまって売っていたりする。句は、ノースリーブの作者が街中で百合の束を持った人とすれ違った直後の情景だろう。二の腕が花に触れたか触れないかくらいのことだったろうが、気になってぱっと見てみたら、やはり汚れていた。とっさに花粉を払いのけながら、しかし作者は汚れを不快に思っているわけではない。むしろ、思いがけずも自然と腕とがジカに触れ合ったことを、微笑しつつ受け入れている。男の私から言えば、瑞々しく健康的なエロティシズムすら感じられる情景だ。余談になるが、マリアの受胎告知の絵に添えられる百合には、オシベが描かれていないのだそうである。むろん花粉を心配して描かなかったのではなく、マリアの処女性に配慮してのことだろう。「俳句界」(2008年5月号)所載。(清水哲男)


June 1262010

 百合の香の朝やはらかと思ひつつ

                           小川美津子

、家に帰りついて部屋のドアを開けた途端、そこに百合の闇が待ちかまえていたことがあった。何年か前のちょうど今頃、むっとする空気とともに一気に押し寄せるその香りは、まさに息が詰まるほど。芳香には違いないが、ちょっと苦手という人もいるかもしれない。山道を歩いていて、ほのかに百合の香りがするのに花が見あたらず、よく見たら枯れた百合がそっと落ちていた、ということもあった。ほんのりと甘さを風に残しているくらいで、ちょうどよかった気がする。この句の作者は、朝の散歩で百合に出会ったのか、朝摘みの百合を活けたのか。百合も目覚めたばかり、まだひんやりとすがすがしく、その香りもなんとなく漂うくらいなのだろう。「やはらかと思ひつつ」今日もきっと暑くなるし百合の香りもさらに濃く、百合らしくなっていくのだろうと思いながら、静かな朝のひとときを過ごしている。『青田』(1996)所収。(今井肖子)


May 2652013

 百合落ちてスローテンポの風となる

                           服部千恵子

りそうでない句です。歳時記数冊で、百合の句数十にあたってみましたが、百合に「落ちる」という動詞を使った句はみつかりませんでした。花瓶や生け花に挿されている百合は、落ちる前にしおれて処分されるでしょうし、庭や野山の百合が落ちる場面を目にすることも稀な偶然です。百合にかぎらず、花が散る、落ちる瞬間を目にすることは実は稀なことで、ゆえに、散る桜に心ひかれるのかもしれません。掲句は、実景嘱目ではなく、虚構でしょう。それゆえ、読む側も自由に場を設定して楽しませていただきます。たとえば、お見合いの席で緊張している二人の会話はちぐはぐでかみ合わない。そのとき、今まで目に入ることもなかった床の間の白い百合の花弁が落下傘のようにゆっくりひらりと舞い落ちる。敏感になっている二人は、波紋のように広がるスローテンポの風を感じ、たがいに百合の匂いにつつまれる。ぎこちなかった二人が微笑し合う。ちょっと乙女チックに夢想しすぎました。なお、掲句は、「風人句会・十周年記念合同句集」(2002)所載。以下、作者のあとがきから抜粋します。「風人句会の良さは、なんといっても師匠のいないことでしょう。ひとりひとりが師匠であり、同時に弟子でもある。(略)師匠がいない良さは他にもあります。それはいろいろな俳人を師匠にできること。おかげで私ものびのびと俳句を作ってきました。(略)今日も私は『たんぽぽのぽぽのあたり』を探しているのです。」(小笠原高志)




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