June 0661998

 蛇苺われも喩として在る如し

                           河原枇杷男

から禁じられても青い梅などは平気で口にしていた悪戯小僧たちも、蛇苺だけには手を出さなかった。青梅は腹をこわすだけですむけれど、蛇苺は命を失うと脅かされていたからだ。敗戦直後の飢えていた時代にも、蛇苺だけはいつまでも涼しい顔で生き残っていた。別名がドクイチゴ。そういう目で見ると、たしかに蛇苺の赤い色は相当に毒々しい。命名の由来は知らないが、べつに蛇が食べるからというのではなく、たぶん人々が蛇のように忌み嫌ったあたりにありそうだ。つまり、れっきとした苺の仲間なのに、苺とは見做されてこなかった。苺なのに苺ではないのだ。ここを踏まえて、作者は自分も蛇苺と同じように、人間なのに人間じゃないような気がすると韜晦(とうかい)している。人間の喩(ゆ)みたいだと、自嘲しているのである。枇杷男のまなざしは、たいていいつも暗いほうへと向いていく。性分もあるのだろうが、人間存在の根底に流れているものは、そんなに明るくないことを絶えず告知しつづけてきた表現には、ずしりと胸にこたえるものがある。なお、蛇足ながら蛇苺はまったくの無毒であり、勇気を出して食べた人によると「極めてまずい」のだそうである。『蝶座』(1987)所収。(清水哲男)




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