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May 2051998

 水平ら安曇は空に田を植うる

                           森 澄雄

葵(わさび)の名産地としても知られているくらいだから、信州安曇(あずみ)は水のきれいなところ。その清らかな水が、どこまでもつづく広大な田圃一面に張られ、田植えがはじまっている。おりからの好天に水は鏡のように青空を写していて、さながら空に田を植えているようだ。清冽爽快、気持ちのよい句である。農家の人々の労苦を脇にして思えば、田圃とは面白い場所だ。こんなにも満々たる水を広大な土地に平らに張れるところなどは、田圃を除いては他にないからである。その意味では、田圃はあくまでも人工的な自然管理の場所なのであり、巨大な箱庭のようである。したがって、逆に稲作農家の人はなかなかこういう具合には詠めないだろう。彼はまず、どうしても田圃に「設計」を感じてしまうはずだからだ。『四遠』(1986)所収。(清水哲男)


May 1252001

 線と丸電信棒と田植傘

                           高浜虚子

わず笑ってしまったけれど、その通り。古来「田植」の句は数あれど、こんなに対象を突き放して詠んだ句にはお目にかかったことがない。田植なんて、どうでもいいや。そんな虚子の口吻が伝わってくる。芭蕉の「風流の初やおくの田植うた」をはじめ、神事とのからみはあるにせよ、「田植」に過大な抒情を注ぎ込んできたのが田植句の特徴だ。そんな句の数々に、虚子が口をとんがらかして詠んだのだろう。だから正確に言うと、虚子は「田植なんて」と言っているのではなくて、「田植『句』なんて」と古今の歌の抒情過多を腹に据えかねて吐いたのだと思う。要するに「線と丸だけじゃねえか」と。何度も書いてきたように、私は小学時代から田を植える側にいたので、どうも抒情味溢れる句には賛成しがたいところがある。多くが「よく言うよ」なのだ。田植は見せ物じゃない。どうしても、そう反応してしまう。我ながら狭量だとは感じても、しかし、あの血の唾が出そうな重労働を思い返すと、風流に通じたくても無理というもの。明け初めた早朝の田圃に、脚を突っ込むときのあの冷たさ。日没ぎりぎりまで働いて腰痛はひどく、食欲もなくなった腹に飯を突っ込み、また明日の単調な労働のために布団にくるまる侘びしさ。そんな体験者には、かえって「線と丸」と言われたほうが余程すっきりする。名句じゃないかとすら思う。その意味からして、田植機が開発されたときには、もう我が身には関係はないのに、とても嬉しかった。これで農村の子供は解放されるんだと、快哉を叫んだ。『新日本大歳時記・夏』(2000)所載。(清水哲男)


June 0762002

 田一枚植て立去る柳かな

                           松尾芭蕉

遊行柳
語は「田植」で夏。近着の詩誌「midnight press」(No.16 2002年夏)の「ポエトリイ・コミック」(長谷邦夫)が、この句を取り上げていた。テーマは、句の主格は誰なのか……。昔からこの論議はかまびすしく、主格早乙女説、芭蕉説、はたまた柳説とにぎやかだ。なかには山本健吉のように、植えたのは早乙女で、立去ったのは芭蕉だと、主格を二つに分けた説もある。長谷さんは、平井照敏がこの柳の精が翁の姿で現れる能『遊行柳』を根拠とした柳(の精)説を支持している。いずれにも読めるが、私も柳説だ。ただし、根拠は少し違う。そもそも芭蕉がこの柳を目指したのは、私淑していた西行にこの柳を詠んだ歌があったからだ(『奥の細道』参照)。憧れの柳だったのである。その柳をいま眼前にして、感激の余韻のうちにすっと句が成った。このときに、私の着眼点は「田一枚植(うえ)て」にある。あまり鮮明ではないが、写真(栃木県那須町HPより・中央が遊行柳)に見られるように、芭蕉の昔から周辺には田が何枚もあった。通常の田植で一枚だけ植えて立ち去る手順などはありえないから、芭蕉が現実に見たとすれば、最後の一枚という理屈だ。が、最後の一枚を言うときに「田一枚」とはいかにも不自然である。したがって、現実の田植ではない。私は、芭蕉の前にはまだ一枚も植えられていない田圃が広がっていたのだと思う。しかし、やっと西行ゆかりの柳の陰に立つことのできた芭蕉の興奮が、しばし白日夢のように展開し、柳(の精)が彼を歓迎するかのように「田一枚」を植えてみせる情景が浮かんだのだ。この幻想は、先の能から来たものとも考えられる。しばらくして放心状態から醒めてみれば、柳はただの柳であり、涼しげに風に吹かれているばかり。それにしても、私の知るかぎり「田一枚」にこだわった解釈にはお目にかかったことがない。不思議なこともあればあるもの。(清水哲男)


May 1952004

 田植うるは土にすがれるすがたせり

                           栗生純夫

に田植えが終わった地方もあるし、これからのところもある。先日の久留米の宿でローカルニュースを見ていたら、長崎地方の田圃で開かれた「泥んこバレー」の模様を写していた。水を入れた田圃で転んでは起きしてのバレーボールは愉快だが、単に遊びというだけでなく、こうやって田圃を足でかき回しておくと、田植えに絶好の土ができるのだそうだ。いずれにせよ、いまはほとんどが機械植えになっているので、農家の人々ですら、こんなことでもやらないと田圃の土に親しむことはなくなってしまった。手で植えたころの苦しさを思えば、田植え機の登場は本当に画期的かつ革命的な出来事だった。実際、手で植えるのは辛い。私の子供の頃は、この時期になると学校が農繁期休暇に入り、みな田圃にかり出された。イヤだったなあ。暗いうちから起きて、日が昇るころには田圃に入る。あの早朝の水の冷たさといったら、思い出すだに身震いがする。それから日没まで、休憩は昼食時とおやつの時間のみという条件の下で働くのだ。疲れても、適当に切り上げることはできない。というのも、集落のなかでは全戸の田植えの日取りが決まっており、お互いに相互扶助的に人手を出し合って植えていたからである。切り上げて明日にしようと思っても、明日は他家の田植えが待っているというわけだ。午後ともなると、子供のくせに老人のように腰を叩きながらの作業となる。そんな必死のノルマのほんの一角だけを担った体験者からしても、掲句はまことに美しく上手に詠まれてはいるが、作者の傍観性がやはり気になる。かつての土にすがって生きる「すがた」とは、このようなものではない。もっと戦闘的であり策略的であり、もっと雄々しくて、しかし同時に卑屈卑小の極みにもどっぷりと浸かった「すがた」なのであった。宇多喜代子『わたしの名句ノート』(2004)所載。(清水哲男)


May 0752005

 植うる田を明けの駅員見つつゆく

                           剣持洋子

の句を載せている歳時記では、田植えの終わった「植田」の項に分類しているが、間違いだと思う。「植うる」とは「植えられつつある」の意だから、当歳時記では「田植」に分類しておく。季節は夏。夜勤「明け」の駅員が、帰宅の道すがら、田植えの模様を目に入れているという情景だ。上天気で、日がまぶしい。その日を照り返している田の水は、もっとまぶしい。徹夜明けのくたびれた目には、なかなかに辛いものがある。この駅員の実家は、おそらく農家なのだろう。疲れた身体を休めるために、これから戻って一眠りしなければならないのだが、みなが田圃で働いているときに寝ることには、忸怩たる気持ちもある。いかに自分が徹夜で働いていたとはいえ、田園地帯に暮らしている以上は、徹夜仕事すら言い訳めいてくるのだからだ。もしかすると、田植えが行われているのは、我が家の田圃なのかもしれない。ならば後ろめたい気持ちはなおさらである。戦後の農家は、現金収入を得るために、町場に働きに出る男たちを輩出した。余儀なく、いわゆる「三ちゃん農業」に追い込まれていったのだった。「とうちゃん」や「にいちゃん」はサラリーマンになり、残った「かあちゃん、じいちゃん、ばあちゃん」が野良仕事をするわけだ。そんな背景を思って掲句を読むと、一見さらりとした情景のなかに、複雑な人間心理が錯綜していて、読後に重いものが残る。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


May 0952006

 山河また一年経たり田を植うる

                           相馬遷子

語は「田植」で夏。今日あたりも、掲句の感慨をもって、田植えに忙しい農家も多いだろう。子供心にも、この季節になるたびに「また一年経たり」の思いはあった。学校は農繁期休暇となり、小さい子はともかく、小学校も四年生くらいになると、みな田圃に出て植えたものだ。田植えは人手を要するので、集落の人々が協力してその地の田を順番に植えることになっており、自分の家の田だから、呑気にマイペースで植えるというわけにはいかない。どこの家の田圃であろうとも、植える時間などは一定の決まりのもとで行われていた。したがってまだ暗いうちに起き、日の出とともに田圃に入るのだったが、夏というのに早朝の田水の冷たかったの何のって、しびれて感覚がなくなるほどだった。畦から苗束がひとわたり投げ入れられると、いよいよはじまる。はじまったら、ただ黙々と植えてゆく。おしゃべりは、余計なエネルギーの浪費だからだ。はじめのうちは、田に苗を挿し込み,それをぐいと泥のなかでねじるのが難しい。しっかりねじこまないと、根付く前に浮いてきてしまう。そのうちにコツがのみこめ、なんとかいっちょまえに植えられるようにはなるのだが、なんといっても辛いのは前屈みの姿勢をつづけることからくる腰の痛みだ。ときどき腰をのばしてとんとんと叩く図は、まるで老人だった。だから、十時と三時の休憩とお昼の時間の待ち遠しかったこと。そんなだったから、大人であろうが子どもであろうが、田植えの夜は泥のように眠ったものだった。そして休暇後に学校に提出する日記には、「今日は田植えをしました。明日はもっと働きたいと思います」と書いたのである。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 1842007

 ゆく春や水に雨降る信濃川

                           会津八一

く春、春の終わり、とはいつのこと? もちろん人によって微妙なちがいはあろうけれど、気持ちのいい春がまちがいなく去ってゆく、それを惜しむ心は誰もがもっている。「ゆく春を惜しむ」などという心情は、日本人独特のものであろう。旺洋として越後平野をつらぬいて流れる信濃川に、特に春の水は満々とあふれかえっている。日々ぬくもりつつある大河の水に、なおも雨が降りこむ。もともと雨の多い土地である。穀倉地帯を潤しながら、嵩を増した水は日本海にそそぐ。雨の量と豊かな川の水量がふくらんで、悠々と流れ行く勢いまでもが一緒になって、遠く近く目に見えてくるようだ。信濃川にただ春雨が降っているのではない。八一は敢えて「水に雨降る」と詠って、大河をなす“水”そのものを即物的に意識的にとらえてみせた。温暖だった春も水と一緒に日本海へ押し流されて、越後特有の湿気の多い蒸し暑い夏がやってくる。そうした気候が穀倉地帯を肥沃にしてきた。秋艸道人・八一は信濃川河口の新潟市に生まれた。中学時代から良寛の歌に親しんだが、歌に先がけて俳句を実作し、「ホトトギス」にも投句していた。のちに地域の俳句結社を指導したり、地方紙の俳壇選者もつとめた。俳号は八朔郎。手もとの資料には、18歳(明治32年)の折に詠んだ「児を寺へ頼みて乳母の田植哉」という素朴な句を冒頭にして、七十六句が収められている。「ゆく春」といえば、蕪村の「ゆく春や重たき琵琶の抱心(だきごころ)」も忘れがたい。『新潟県文学全集6』(1996)所収。(八木忠栄)


May 2152012

 田を植ゑしはげしき足の跡のこる

                           飴山 實

植えの終わった情景を詠んだ句は無数にあるけれど、大半は植え渡された早苗の美しさなどに目が行っている。無理もない。田植えの句を詠む人のほとんどが、他人の労働の結果としての田圃を見ているからだ。よく見れば、誰にでもこの句のような足跡は見えるのだが、見えてはいても、それを詠む心境にはなれないのである。ところが作者のような田植えの実践者になると、どちらかといえば、田圃の美しさよりも、辛い労働が終わったという安堵感のほうに意識の比重がかかるから、田植えをいわば観光的には詠めないということになる。手で植えていたころの田植えは実に「はげしい」労働だった。植え終えた田圃にも、まずその辛さの跡を見てしまう目のやりきれなさを、作者はどうしても伝えておきたかったのである。『辛酉小雪』(1981)所収。(清水哲男)


May 1252014

 田を植ゑてゐるうれしさの信濃空

                           矢島渚男

濃川流域に広がる田園風景をはじめて見たときには、心底衝撃を受けた。旅の途中の列車の窓からだったが、どこまでもつづく広大な田圃に、故郷山口のそれとは比較にならないスケールに圧倒されたのだった。私が子どもの頃に慣れ親しんだ田圃は、信州のそれに比べれば、ほんの水たまりみたいなものだった。千枚田とまではいかないが、山の斜面に張りついた小さな田圃になじんだ目からすると、その広がりに眩暈を覚えるほどであった。と同時にすぐに湧いてきた思いは、農家の子の悲しき性で、この広い田圃の田植や収穫の労働は大変だろうなということでもあった。そんなわけで、この句を前にした私の気分は少し複雑だ。「植ゑてゐる」のは自分ではあるまい。作者は、広大な田圃ではじまった田植を遠望している。反対に、私の田舎の田植は遠望できない。植えている人に声をかければ、届く距離だ。したがって、田植を見る目には、空が意識されることはない。目の前は、いつも山の壁なのである。私には句の「うれしさ」を満々と反映している信濃の空のありようは想像できるけれど、想像すると少し寂しくなる。腰を折り曲げての辛い労働に、すかっと抜ける空があるのとないのとでは大違いだなあ。そんなことを思ってしまうからである。『采薇』(1973)所収。(清水哲男)




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