April 2541998

 眼帯の朝一眼の濃山吹

                           桂 信子

く自然に両眼で見ているときよりも、眼帯をして見るときのほうが、物の輪郭などがはっきりと見える。色彩も濃く見える。そんな気がするだけなのかもしれないが、片目の不自由な分だけ、凝視する気持ちが強いからである。作者の見ている山吹も、昨日と同じ色をしているはずなのだけれど、眼帯をした今朝は、とくに色濃く感じられている。そして作者は、色鮮やかに見える山吹の花に託して、一眼にせよ、とにかく見ることのできている自分を、まずは喜んでいるのだろう。月並みな言い方だが、健康のありがたさは、失ってみてはじめてわかるものである。ところで、私は山吹が子供のころから好きだった。田舎にいたので、そこらへんにたくさん自生していた。いまの東京では、なかなか見られないのが寂しい。いまの私が日常的に見られるのは、吉祥寺通りにある井の頭自然文化園の垣根の外に植えられたものだけだ。山吹鉄砲などとても作れないような貧弱さではあるが、毎年、ちゃんと咲いてはくれている。注意していれば、バスの窓からもちらりと見える。『晩春』(1955-1967)所収。(清水哲男)




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