April 2241998

 春の蔵でからすのはんこ押してゐる

                           飯島晴子

からないといえば、わからない。だが、ぱっと読んで、ぱっと何かが心に浮かぶ。そして、それが忘れられなくなる。飯島晴子の俳句には、そういうところがある。一瞬にして読者の想像力をかきたてる起爆剤のようだ。たとえば、ある読者はおどろおどろしい探偵小説の一齣と思うかもしれないし、また別の読者は昔の子の無邪気に遊ぶ姿を想像するかもしれない。前者は「春の蔵」の白壁の明るさに対して「からす」に暗さや不吉を読むからであり、後者は「からすのはんこ」に子供らしい好奇心のありかを感じるからである。もちろん、作者自身の描いたイメージは知るよしもないけれど、知る必要もないだろう。よく読むと、この句では主体も客体も不明である。いったい誰が「からすのはんこ」を押しているのだろうか。はっきり見えるのは「春の蔵」だけなのであって、結果的に作者は「春の蔵」の存在感だけを感じてくれればよいと作ったのかもしれない。何度も読んでいるうちに、そう結論づけたくもなってきた。しかし、彼女の句はそんな結論なんかいらないと言うだろう。『春の蔵』(1980)所収。(清水哲男)




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