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April 2041998

 すかんぽのひる学校に行かぬ子は

                           長谷川素逝

原白秋に「すかんぽの咲く頃」という童謡があり、歌い出しは「土手のすかんぽジャワ更紗……」である。すかんぽ(酸葉)は、歌の通りに、昔は川の土手や野原などに密集して生えていた。歌は小学生たちの学校への行き帰りの情景を生き生きと描いたもので、句はこの童謡を踏まえていると思われる。詠まれている子は、今で言う登校拒否児とは違って、目覚めてからふとサボりたくなったのだろう。家にいると叱られるので、一応登校するふりをして近所の河原で所在なく時が過ぎるのを待っているのだ。こんなことなら、学校に行ったほうがよかったかな。そんな後悔の念もわいてくる。しかし、春の時間は遅々として進んでくれない……。そして作者にも、同様な思い出があるのかもしれなく、むしろ微笑してそんな子供を眺めている。なんだか、大人でも仕事をサボりたくなるような、春の真昼時だ。最近では「すかんぽ」と言っても、知らない人が増えてきたのには寂しい気がする。(清水哲男)


April 1842002

 吹き降りのすかんぽの赤備前なる

                           宮岡計次

火だすき
語は「すかんぽ」で春。酸葉(すいば)とも。私の故郷山口県では、酸葉と呼んでいた。茎や葉に酸味があり、口さみしくなると摘んで吸ったものだ。全国どこにでも自生していたはずが、最近ではさっぱり見かけない土地もある。私の住む三鷹近辺でも見たことがない。句では、すかんぽが強い風雨にさらされている。眺めていると、その「赤」色がいよいよ鮮やかに写り、やはり「備前(びぜん)」ならではの「赤」よと感に入っている。備前は、現在の岡山県の南東部の古名。なぜ備前ならではなのかと言えば、作者には備前名物の焼物が意識されているからだ。備前焼。釉薬(ゆうやく)をかけずに素地(きじ)の渋い味わいを生かすのが特色で、肌は火や窯の状態で変化し、なかでも火だすき(写真参照)に一特色がある。すなわち、作者の眼前で激しく揺れているすかんぽの色と形状は、さながら備前焼の火だすきのようであり、さすがは備前よというわけだ。また、この「備前なる」の「なる」はすかんぽにかけられていると同時に、作者にも「備前なる(私)」とかかっている。作者が備前の人なのか旅行者なのかはわからないが、いずれにしても、今このようにして備前にあることの誇らしさを詠んだものだ。藤村の「小諸なる古城……」と同様の「なる」で、単にそこにあるのではなく、そこならではのと、作者のプライドを含ませた「なる」である。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


March 2532013

 ホームランあのすかんぽを越ゆるべし

                           上久保忠彦

んだ途端に、子どものころの田んぼ野球を思い出した。グラウンドなどという洒落た土地ではなく、稲の切り株が残ったままの田んぼで野球をやっていた。だから、どこまで飛んだらホームランかなどと、お互いに取り決めてからゲームに入る。作者が田んぼ野球をやっているかどうかはわからないが、いずれにしても立派なグラウンドじゃない。ホームベースからかなり離れたところに、スカンポが群生しているので、そこまで飛んだらホームランと決めていたのだろう。打席に立って、「あのすかんぽを越ゆるべし」と勇み立つ気持ちはよくわかる。すかんぽは「酸葉(すいば)」とも言い、紅紫色の茎を剥いてしゃぶると酸っぱい味がする。このどこにでもある植物を知らない人が増えてきたが、もはや酸葉をしゃぶるような時代ではないから止むを得ないか……。味の切れ目が縁の切れ目ということだ。さて甲子園の選抜がはじまり、プロ野球の開幕ももうすぐだ。球春到来のこの時期に、しかし私たちの田んぼ野球のシーズンは閉幕するのが常だった。田植えの時期が迫った田んぼは、野球遊びどころではなくなるからである。『彩 円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


March 1232015

 すかんぽと半鐘の村であった

                           酒井弘司

かんぽは野原、土手などに生え「酸葉」「すいすい」等とも呼ばれる。と歳時記にある。写真をじっと見てもどんな植物かわからず、もちろんすかんぽを噛み噛み学校へ行ったこともない。都会暮らしで漫然と日々を過ごしてしまったので植物にまつわる思い出がないのが殺風景でさみしい。さて、掲載句は空を背景に火の見櫓に吊るされた半鐘とすかんぽが主役であるが、それ以外目立ったものが何もない村とも読める。自分のふるさとの村ではあるが、大きな川も自慢できる特産物もない。段々畑にできる作物を細々と収穫して生計をたてているのだろうか。あるものと言えば春先になればいたるところに生い茂るすかんぽと村のどこからでも見える半鐘が記憶に残っているのだろう。日本の山間にある村のほとんどは貧しい。今や過疎化を通り越して無人になる村も多くなり、すかんぽと半鐘だけが取り残されているのかもしれない。『谷戸抄』(2014)所収。(三宅やよい)




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