March 1831998

 毎年よ彼岸の入に寒いのは

                           正岡子規

の句ができた明治二十六年(1893)の子規は二十五歳で、抹消句を含めると、なんと四千八百十二句も詠んでいる。日本新聞社に入社したころで、創作欲極めて旺盛だった。ところで、この句の前書には「母上の詞自ら句になりて」とある。つまり、母親との日常的な会話をそのまま五七五にしたというわけだ。当時の子規は芭蕉の神格化に強く異議をとなえていたこともあり、あえてこのような「床の間には飾れない」句を提出してみせたのだろう。母の名は八重。子規の妹律によれば、彼女は「何事にも驚かない、泰然自若とした人」だったという。子規臨終のときの八重について、碧桐洞はこう語っている。粟津則雄『正岡子規』(講談社文芸文庫)より、孫引きしておく。「静かに枕元へにじりよられたをばさんは、さも思ひきつてといふやうな表情で、左り向きにぐつたり傾いてゐる肩を起しにかゝつて『サァ、もう一遍痛いというてお見』可なり強い調子で言はれた。何だかギョッと水を浴びたやうな気がした。をばさんの眼からは、ポタポタ雫が落ちてゐた」(『子規の回想』)。(清水哲男)




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