March 0731998

 日のたゆたひ湯の如き家や木々芽ぐむ

                           富田木歩

正十二(1923)年、木歩二十六歳の句。前書に「新居」とある。場所は東京府本所区向島須崎町十六番地。隅田川に面した町だ。「湯のごとき家」とは珍しい表現だが、暖房もままならなかった時代に、春を迎えた喜びがストレートに伝わってくる。ましてや、新居である。作者は、とてもはりきっている。生涯歩くことのなかった木歩には、このようにのびやかで明るい句も多い。若くして数々の苦難にあい、それに濾過された晴朗な心の産物なのであろう。しかし、この句を詠んだ半年後に関東大震災が起き、木歩は隅田川の辺で非業の死を遂げることになる。人の運命はわからない。この句は『すみだ川の俳人・木歩大全集』(1989)という本に収められている。実は、本書はこの世にたった二冊しかないという希覯本だ。畏友・松本哉があたうかぎりの資料を調べワープロを打ち、布装の立派な本にして恵投してくれたものである。彼とはじめて木歩について語り合ってから、三十年の月日が流れた。(清水哲男)




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