March 0131998

 沖に降る小雨に入るや春の雁

                           黒柳召波

本農一・尾形仂編『近世四季の秀句』(角川書店)の「春雨」の項で、国文学者の日野龍夫がいきなり「春雨は、すっかり情趣が固定してしまって、陳腐とはいうもおろかな季語である」と書いている。「月様、雨が。春雨じゃ、濡れてゆこう。駕篭でゆくのはお吉じゃないか、下田みなとの春の雨」では、なるほど現代的情趣の入り込む余地はない。そこへいくと近世の俳人たちは「いとも素直に春雨の風情を享受した」ので、情緒纏綿(てんめん)たる名句を数多く残したと日野は書き、この句が召波の先生であった蕪村の「春雨や小磯の小貝ぬるるほど」などとともに、例証としてあげられている。蕪村の句も見事なものだが、召波句も絵のように美しい。同時代の人ならばうっとりと、この情景に心をゆだねることができただろう。しかし、こののびやかさはやはり日野の言うように、残念ながら現代のものではない。だから、この句を私たちが味わうためには、どこかで無理に自分の感性を殺してかからねばならぬ、とも言える。これはいつの時代にも付帯する後世の人間の悪条件ではあるが、その「悪」の比重が極端に加重されてきたのが「現代」である。(清水哲男)




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