February 2321998

 菜の花の地平や父の肩車

                           成田千空

村暮鳥の「いちめんのなのはな」はつとに有名だが、作者はそんな風景のなかにある。幼かったころ、やはり「いちめんのなのはな」のなかで、父が肩車をしてくれたことを思いだしている。とんでもなく高いところに上ったような気分で、怖くもあり嬉しくもあった。いま眼前の菜の花の様子は昔とちっとも変わってはいないし、父のたくましい肩幅の広さも昔のままにちゃんと覚えている。こうやってあのころと同じように地平に目をやっていると、不意に父が現われて、また肩車をしてくれそうな感じだ。ここで父をしのぶ作者の心理的構造は、野球映画『フィールド・オブ・ドリームス』にも似て、「自然」に触発されている。母をしのぶというときに、多くは彼女の具体像からであるのに比べて、父親はやはり抽象的な存在なのだろう。肩車という行為自体が、非日常的なそれだ。しかりしこうして、なべて男は対象が誰であれ、なんらかのメディアを通すことによってしか想起されない生き物であるようだ。男は、女のようには「存在」できないらしいのである。「俳句」(1997年6月号)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます