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February 2021998

 初心にも高慢のあり初雲雀

                           原子公平

雀の別名は「告天子」。空高く勢いよく上がっていく様子は、まさに天のありかを告げているようだ。今年も、そんな雲雀の姿を目にする季節がめぐってきた。進学や就職の間近い時期でもあり、作者は雲雀の上昇する様に「初心」を重ね合わせているのだが、他方で世に言われる「初心忘るべからず」の純心を疑っている。斜めに見ている。言われてみれば、なるほど「初心」に「高慢」は含まれているのだと思う。おのれの身の丈など高慢にも省みない「野望」がないとは言えないからだ。だからこその「初心」とも言えるのだが、作者は若き日の自分を振り返って、後悔に近い念を覚えているようだ。過去の自己のありようへの嫌悪の心……。年齢を重ねてなお、このように鬱屈せねばならない人間とは、まことに悲しくも淋しい生き物ではないか。酒でも飲まないとやりきれない。そんな気分になってしまう。『酔歌』(1993)所収。(清水哲男)


March 1131999

 雲雀とほし木の墓の泰司はひとり

                           阿部完市

解派の雄といわれる阿部完市の、これは比較的わかりやすい句だ。空高く朗らかに囀る雲雀(ひばり)の声を聞きながら、作者は粗末な木の墓で眠っている泰司のことを思っている。死者を尊ぶ常識からすると、泰司は雲雀とともに天にあらねばならないのだが、作者にはどうしてもそのようには思えず、泰司はやはり生きていた時と同じに地上の人でありつづけている。「泰司よ」と語りかけるような作者の優しさが胸にしみる。「泰司」が誰であるかは、作者以外には知りえない。まぎれもない固有名詞ではあるのだが、読者にはわからないのだ。しかしながら、この「泰司」は、三好達治の有名な雪の詩に出てくる「太郎」や「次郎」とは違う。同じ固有名詞でも、詩人の「太郎」や「次郎」は役所などの書類のサンプルに出てくるようなそれであり、たとえば「泰司」との入れ替えが可能な名前として使われている。ところが、俳人の「泰司」はそうではない。入れ替えは不可能なのだ。作者しか知らない人物ではあるが、この入れ替えの不可能性において、作者の限りない優しさを読者が感じられるという設計になっている。天には「雲雀」、地に「泰司」。春はいよいよ甘美でもあり、物悲しくもある。『無帽』(1956)所収。(清水哲男)


March 1932003

 揚雲雀二本松少年隊ありき

                           川崎展宏

語は「揚雲雀(あげひばり)」で春。鳴きながら、雲雀がどこまでも真っすぐに上がっていく。のどかな雰囲気のなかで、作者はかつてこの地(現在の福島県二本松市)に戦争(戊辰戦争)があり、子どもたちまでもが戦って死んだ史実を思っている。この種の明暗の対比は、俳句ではよく見られる手法だ。掲句の場合は「明」を天に舞い上がる雲雀とすることで、死んだ子どもらの魂が共に昇華していくようにとの祈りに重ね合わせている。戊辰戦争での「少年隊」といえば、会津の「白虎隊」がよく知られているが、彼らの死は自刃によるものであった。対して「二本松少年隊」は、戦って死んだ。戦死である。いずれにしても悲劇には違いないけれど、二本松の場合には、十二、三歳の子どもまでが何人も加わっていたので、より以上のやりきれなさが残る。鳥羽伏見で勝利を収めた薩長の新政府軍は、東北へ進撃。奥羽越列藩同盟に名前を連ねた二本松藩も、当然迎え撃つことになるわけだが、もはや城を守ろうにも兵力がなかった。それまでに東北各地の戦線の応援のために、主力を出すことを余儀なくされていたからだ。そこで藩は、城下に残っていた十二歳から十七歳の志願した少年六十余名を集めて、対抗させたのである。まさに、大人と子どもの戦いだった。戦闘は、わずか二時間ほどで決着がついたと言われている。『観音』(1982)所収。(清水哲男)


February 2522009

 幇間の道化窶れやみづっぱな

                           太宰 治

の場合、幇間は「ほうかん」と読む。通常はやはり「たいこもち」のほうがふさわしいように思われる。現役の幇間は、今やもう四人ほどしかいない。(故悠玄亭玉介師からは、いろいろおもしろい話を伺った。)言うまでもなく、宴席をにぎやかに盛りあげる芸人“男芸者”である。いくら仕事だとはいえ、座持ちにくたびれて窶(やつ)れ、風邪気味なのか水洟さえすすりあげている様子は、いかにも哀れを催す。幇間は落語ではお馴染みのキャラクターである。「鰻の幇間(たいこ)」「愛宕山」「富久」「幇間腹(たいこばら)」等々。どうも調子がいいだけで旦那にはからかわれ、もちろん立派な幇間など登場しない。こういう句を太宰治が詠んだところに、いかにも道化じみた哀れさとおかしさがいっそう感じられてならない。考えてみれば、太宰の作品にも生き方にも、道化た幇間みたいな影がちらつく。お座敷で「みづっぱな」の幇間を目にして詠んだというよりも、自画像ではないかとも思われる。「みづっぱな」と言えば、芥川龍之介の「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」がよく知られているし、俳句としてもこちらのほうがずっと秀逸である。二つの「水洟」は両者を反映して、だいぶ違うものとして読める。太宰治の俳句は数少ないし、お世辞にもうまいとは言えないけれど、珍しいのでここに敢えてとりあげてみた。ほかに「春服の色 教えてよ 揚雲雀」という句がある。今年は生誕百年。彼の小説が近年かなり読まれているという。何十年ぶり、読みなおしてみようか。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


March 1232009

 青空の暗きところが雲雀の血

                           高野ムツオ

野公彦の短歌に「ふかぶかとあげひばり容れ淡青(たんじやう)の空は暗きまで光の器」という一首がある。「雲雀」「青空」「暗い」というキーワードとまばゆいばかりの明るさと暗さが交錯する構成は共通しているが、表現されている世界は違う。高野公彦の短歌は一羽の雲雀から空全体へ視界が広がってゆくのに対しムツオの俳句は空から雲雀の血へと焦点が絞り込まれてゆく。公彦の世界では暗いのは光の器になるまで輝いている青空全体であり、淡青の空の裏側に暗黒の宇宙を透視している。それに対して掲句の場合暗いのは「雲雀の血」であり、空に舞う雲雀が一点の染みとして捉えられている。地上の巣を見守るため空に揚がり続ける雲雀の習性に宿命を感じているのだろうか。青空の雲雀は俳句ではのどかな情景として描かれることが多いが、この句ではそうした雲雀を見る眼差しが自分を見つめる内省的な目と重なってゆくようである。『現代俳句一〇〇人二〇句』(2001)所載。(三宅やよい)


March 1632010

 にんげんを洗って干して春一番

                           川島由紀子

うやく春を確信できる陽気になった……のだろうか、今年の春はまだ安心できない。ともあれ、春一番は既に済み、春分の日も間近である。花粉情報は「強」と知りつつ、あたたかな風のなかにいると、きれいな水で身体中、内側から外側まですっきり洗って、ベランダに干しておきたくなるのものだ。ワンピースを着替えるように、冬の間縮こまっていた身体をつるりと脱いですみずみを丹念に洗って伸ばして、春を迎える身体をふんわり乾かしておきたい。そう、ひらひらと乾く洗濯物にまじって白いオバケ服がならんでいた大原家の庭みたいに。オバケのQ太郎は、確かに着替えや洗濯をしていたはずだ。Q太郎といえば、真っ白で頭に毛が三本と思っていたのが、中身が別にあることに気づかされた子供心に衝撃的な洗濯物だった。よく見るとオバケ服の下からちらっと見える足は黒くて、すると中身は真っ黒なオバケ、というか、足があるんならオバケでもないんじゃないの、と想像はとめどなくふくらんでいく。うららかな春の日差しのなかで、洗濯物が乾くのを待っているオバQの姿を思いながら、掲句を口ずさむのがなんと楽しいこと。〈菜の花や湖底に青く魚たち〉〈さよならは言わないつもり揚雲雀〉『スモークツリー』(2010)所収。(土肥あき子)


March 1832011

 ひばり鳴け母は欺きやすきゆゑ

                           寺田京子

というものは欺きやすいものであろうか。女は弱しされど母は強しという。男からみると恋人や妻は強く恐い存在であり、母は無条件で許してくれる存在である。金子兜太の句に「夏の山国母いてわれを与太と言う」。与太と言われようと子は母の愛情を疑うことはない。この句は娘という立場から母をみている。同性から見た母は息子から見た母とはかなり違うのだろう。ひばり鳴けという命令調にその微妙な感じがうかがわれる。『冬の匙』(1956)所収。(今井 聖)


March 1132012

 雲雀より空にやすらふ峠哉

                           松尾芭蕉

人芭蕉が、雲雀(ひばり)より上の空にやすらいだ実感の句です。元禄元年(1688)の春、『笈の小文』の旅のなか、「臍(ほぞ)峠」、奈良県桜井市と吉野町の境にある峠の句です。標高約700mの峠の頂上から一面の麦畑を見渡していると、雲雀がはるか下の方で鳴いている、しぜん、笑みがこぼれます。ところが、翌元禄二年(1689)刊の『曠野』では、「空に」を「上にやすらふ」と改めています。なぜでしょう。いくつか考えてみました。一、私は当初、「上に」よりも「空に」のほうが好みでした。表現が洒落ているからです。しかし、芭蕉は、そこにあざとさを見て、「上に」と通俗的な表現に改めたのではないでしょうか。二、「空に」という表現には広がりがあり、解放的な気分にさせる一 方で、「上に」とすると雲雀との関係が結びつきやすくなります。空間的な広がりよりも高低差を示したかったからではないでしょうか。三、「雲雀より空に」とすると句の起点が「雲雀」になります。つまり、峠に着いたときの視点からこの句が始まります。一方、「上に」の場合は、句の起点が雲雀より下の里にあるのではないでしょうか。里を歩いているとき、雲雀を上に見あげて聞いていたのが、いまや雲雀の高さをはるかに越えて、この峠まで辿りついた登高のプロセスを含意しているように思われます。芭蕉の推敲を推測しました。『芭蕉全句集』(角川ソフィア文庫)所収。(小笠原高志)


May 2252012

 雲雀には穴のやうなる潦

                           岩淵喜代子

日の金環食の騒ぎに疲れたように太陽は雲に隠れ、東京は雨の一日になりそうだ。毎夜月を見慣れた目には、鑑賞グラスに映る太陽が思いのほか小さいことに驚いた。金環食を見守りながら、ふと貸していた金を返してもらうため「日一分、利取る」と太陽に向かって鳴き続ける雲雀(ひばり)の話を思い出していた。ほんの頭上に輝いていると思っていた太陽が、実ははるか彼方の存在であることが身にしみ、雲雀の徒労に思わず同情する。雲雀は「日晴」からの転訛という説があるように、空へ向かってまっしぐらに羽ばたく様子も、ほがらかな鳴き声も青空がことのほかよく似合う。掲句は雨上がりに残った潦(にわたずみ)に真っ青な空が映っているのを見て、雲雀にはきっと地上に開いた空の穴に映るのではないかという。なんと奇抜で楽しい発想だろう。水たまりをくぐり抜けると、また空へとつながるように思え、まるで表をたどると裏へとつながるメビウスの帯のような不思議な感触が生まれる。明日あたり地面のあちこちに空の穴ができていることだろう。度胸試しに飛び込む雲雀が出てこないことを祈るばかりである。『白雁』(2012)所収。(土肥あき子)


May 2052014

 ひばり揚がり世は面白きこともなし

                           筑紫磐井

白いとは不思議な言葉だ。語源は面は目の前、白は明るさを意味し、目の前がぱっと開けるような鮮やかな景色をさした。のちに美しいものを見たことで晴れ晴れとする心地や、さまざまな心の状態も追加され、滑稽まで含む多様性を持つ言葉となった。面白いかどうかとは、すなわちそれを探求あるいは期待する心が言わせる言葉なのだろう。掲句がともすると吐き捨てるような言い回しになってしまうところを救っているのが、軽快なひばりの姿である。空へとぐんぐん上昇する雲雀を目を追っていることで、鬱屈した乱暴さから解放された。時代を経て付け加えられ、ふくらみ続ける「面白い」に、またなにか新しい側面を見ようとする作者の姿がそこに見えてくる。『我が時代』(2014)所収。(土肥あき子)


March 0632015

 尖塔になほ空のあり揚雲雀

                           長嶺千晶

の尖塔にはポルトガル行六句の前書きがある。牧歌的な農村に広がっているのは麦畑だろうか。そんな畑中にひとかたまりの村落があり、各村落ごとに教区を割り当てられた教会がある。その古びた教会の尖塔の上にはなお高く空が広がっている。その尖塔により強調された空の高みへ雲雀が囀り上ってゆく。そんな高みの中に命の讃歌をさんざんに唄いあげて、やがて雲雀は急転直下落ちて行く。受け止める大地と麦畑がそれを待っている。他に<木犀の香りや不意に話したき><騎馬少女黄葉かつ散る時の中><白鳥といふ凍りつく白さかな>などあり。『つめた貝』(2008)所収。(藤嶋 務)


February 2622016

 大渦へ巻き込む小渦春かもめ

                           山内美代子

もめ(鷗)が少し春めいてきた海に遊んでいる。人の肌にはまだまだ寒い海風だが野生の鳥たちは羽毛に包まれて平然と群れ遊んでいる。人の眼には遊んでいると見えるけれど本当は生きるための厳しい生業の中にあるのかも知れない。小さな渦に狙った餌が巻き込まれその渦も大きな渦に吸い込まれてゆく。鷗の餌の追走は果たせるだろうか。人の目にひねもすのたりのたりに見える春の海だが、野生のものにとっては厳しい現実がある春先の海ではある。作者は事の成り行きを見守って佇んでいる。趣あるこの墨彩画と俳句集には他に<定年や少しあみだに冬帽子><雲雀笛園児揃ひの黄の帽子><折り合ひをつけて暮して合歓の花>など生活に詩情が溢れた作品が並ぶ。「藤が丘から」(2015年)所載。(藤嶋 務)


March 0832016

 大笑ひし合ふ西山東山

                           柏原眠雨

都を始めとして、日本にはさまざまな西山と東山がある。それは人間が右手の山と左手の山を折々眺めながら生活をしてきた証しでもある。「山笑う」は漢詩の「春山澹冶而如笑」に由来し、春の山は明るく生気がみなぎり、いかにも心地よさげに、あたかも笑うように思われることをいう。しかし掲句は、「笑い合う」としたところで、「いかにも」「あたかも」が取り外され、山そのものが命を持った存在へと変貌した。向かい合う山がお互いに大笑いする様子は、大きな腹をゆらして笑う布袋さまと大黒さまのようにも思え、まるで七福神の船に乗り合う心地も味わえる。作者は宮城県仙台市在住。本書のタイトルは五年前の東日本大震災を詠んだ〈避難所に回る爪切り夕雲雀〉から。『夕雲雀』(2015)所収。(土肥あき子)




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