February 1821998

 木々のみな気高き春の林かな

                           塩谷康子

語にもいろいろある。句の「気高き」などもその一つだろう。気高い山といえば、昔は富士山が定番だったけれど、いまでは富士山を形容して「気高い」とはほとんど言わなくなった。この山の場合は権力がいいように「気高く」扱ってきた歴史があるから(富士山のせいじゃない)、べつに気高いと思わなくても構わないのだが、しかし、この言葉が象徴する「品格」一般がないがしろにされている事態には承服しかねる。「上品」「下品」も、いまや死語に近くなっているのではないか。言葉の生き死にには、当然歴史的社会的背景があり、経済優先の世の中では「品位」などなくたって構わないし、日本版ビッグバン(変な言葉だ)が進行していけば、ますます「下品」が下品と承知しないではびこるのだろう。一方では、しかし作者のように、木々の「気高さ」を素直に実感として感じている人が存在していることも確かなわけで、経済の暴走族どもにいいように言葉を引き倒されるのはたまらない。そのような無惨を許さないためにも、たとえば俳句は「気高さ」をもっと詠んで欲しいと思った。『素足』(1997)所収。(清水哲男)




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