February 1221998

 去勢の猫と去勢せぬ僧春の日に

                           金子兜太

の境内で、猫と僧侶が暖かい春の日差しを浴びている。一見、微笑を誘われるような長閑(のど)かな光景だ。この長閑かさをそのまま詠んでも句になるが、作者はもう一歩踏み込んでいる。長閑かさのレベルで満足せず、生臭さを嗅ぎ出している。これが兜太の詩人の目だ。一つの光景をどのように見るかは、もちろん人さまざまである。自由である。ただし、一般に長閑かさを見る目は、ほとんど何も見ようとはしていない。見ることを拒否することで、心の安定を保とうとする。一種の精神健康法だ。それはそれで、作者も否定はしないだろう。けれども、人には見えてしまうということが起きる。この場合は、自然の摂理という一点において、両者は全く異形の関係にある。理不尽にも生殖を禁じられた猫と、信仰の理から色欲をみずからに禁じた僧侶と……。そして、この取り合わせがこのように表現されたとき、私を含めて多くの読者は思わずも笑ってしまうのだ。だが、この黒い笑いは、いったいどこから来るのであろうか。『詩經國風』(1985)所収。(清水哲男)




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