G黷ェg~句

February 1021998

 紅梅や見ぬ恋作る玉すだれ

                           松尾芭蕉

意としては、こうだ。とある家の簾の下りた部屋の前庭に、紅い梅の花が咲き匂っている。その美しさはすだれの奥の女性の姿を彷彿とさせ、いまだ見ぬその人への恋心がつのってくる……。と、さながら恋に恋する少年のような心持ちを詠んでいるのだが、このときの芭蕉は既に四十六歳。もっとも「反古の中から出てきた句」だとわざわざ添え書きしてあるから、本当にずっと若いときの句かもしれないし、あるいは照れ隠しなのかもしれない。キーワードは「玉すだれ」で、簾の美称である。実用的にはいまどきの上等なカーテンであるが、心理的には恋の遮蔽物だったことを知らないと、この句はわからない。古くから、和歌では恋しい人を隔てるものとして詠みつがれてきている。間違っても、芸人の使う「ナンキン玉すだれ」ではありませんよ(笑)。なお、紅梅を詠んだ芭蕉の句はこの一句だけ。芭蕉にしてはあまり出来のよくない作だとは思うけれど、その意味で珍重されてきているようだ。なお、季語は「紅梅」。対して「白梅」という季語はない。「白梅」が「梅」一般という季語に吸収され「紅梅」が独立したのは、その艶やかさもさることながら、「紅梅」のいささかの遅咲きに着目した古人の繊細な時間感覚からなのだろう。(清水哲男)


July 2672000

 今生の汗が消えゆくお母さん

                           古賀まり子

の死にゆく様子を「今生の汗が消えゆく」ととらえた感覚には、鬼気迫るものがある。鍛練を重ねた俳人ならではの「業(ごう)」のようなものすらを感じさせられた。生理的物理的には当たり前の現象ではあるが、血を分けた母親の臨終に際して、誰もがこのように詠めるものではないだろう。この毅然とした客観性があるからこそ、下五の「お母さん」という肉声に万感の思いが籠もる。表面的な句のかたちに乱れはないけれど、内実的には大いなる破調を抱え込んだ句だ。作者には「紅梅や病臥に果つる二十代」に見られる若き日の長い闘病体験があり、また「日焼まだ残りて若き人夫死す」がある。みずからの死と隣り合わせ、また他人の死に近かった生活のなかでの俳句修業(秋桜子門)。掲句は、その積み上げの頂点に立っている。この場合に「鋭く」と言うのが失礼だとしたら、「哀しくも」立っている……。「お母さん」の呼びかけが、これほどまでに悲痛に響く俳句を、少なくとも私は他に知らない。「汗」という平凡な季語を、このように人の死と結びつけた例も。『竪琴』(1981)所収。(清水哲男)


February 1222002

 紅梅や一人娘にして凛と

                           上野 泰

語は「梅」ではなく「紅梅(こうばい)」。白梅に比べて花期が少し遅いことから、古人が梅一般と区別して独立した位置を与えたことによる。句意は、それこそ紅梅のごとくに明晰だ。早春の庭の「一人娘」の「凛(りん)」とした姿がくっきりと浮かび上がってくる。可憐にして健気。他家の娘でもよいのだが、作者にも一人娘があった(下に息子二人)から、おそらく自分の娘のことだと思う。このときに、彼女は十六歳。小さいころには「弟に捧げもたせて雛飾る」のような面があって、気は強いほうなのだろう。というよりも、日常的に弟二人に対していくには、気が強くならざるを得なかったと言うべきか。むろん例外はあるけれど、総じて兄弟のある「一人娘」のほうが姉妹のいる「一人息子」よりも気丈な人が多いようだ。一人息子には、どこか鷹揚でのほほんとした印象を受けることが多い。この違いは、どこから来るのだろうか。兄弟への対応とは別に、女の子が早くから料理など母親の役割を分担するのに対して、男の子は父親の代わりに何かするというようなことがないので、いつまでも子供のままでいてしまう。そこらへんかなあ、と思ったりする。「この娘なら、もう大丈夫」。作者の目を細めてのつぶやきが、聞こえてくるような一句だ。『一輪』(1965)所収。(清水哲男)


February 2622005

 紅梅や海人が眼すゝぐ二十年

                           谷川 雁

語は「紅梅」で春。前書きに「贈吾父」とあるから、父親に贈った句だ。この句については、作者の兄である谷川健一の説明がある。「わたしたちの父は眼科医だったのですが、病院の敷地に紅梅がありまして、父親はどこにも出かけないで、その紅梅を見ながら海人(あま)の眼ばかりをすすいでいたというわけです。海岸べりの土地でしたから、漁民が多かったのですが、水がよくなく眼を悪くする人が多かったのだと思います」。日々多忙を極めてはいるが、裕福ではない医者の姿が浮かんでくる。紅梅の季節がめぐってくるたびに、作者はそんな父親像を思い出し、優しい気持ちになったのだろう。私が谷川雁に会ったのは学生時代、三池炭坑闘争の最中であった。学園祭や何かで、何度か講演してもらった。第一印象は詩人というよりも策士という雰囲気で、しきりに学生運動などはヘボだと言われるのには閉口した。あるとき思い切って「でも、谷川さん。そんなに物事をひねくってばかり取らないで、素直に受け取ることも必要じゃないでしょうか」と聞いたことがある。と、雁さんは即座に「素直で革命なんかできるものか」と吐き捨てるように言った。思い返せば至言だとは思うけれど、しかしどうだろう、掲句の素直さは……。こういう一面は、決して私たち学生には見せようとしない人だったが、酔うと下手な冗談を連発したようなところは、どこかでこうした優しい心情につながっていたような気もする。「現代詩手帖」(2002年4月号)所載。(清水哲男)


March 1332006

 紅梅やひらきおほせて薄からず

                           睡 闇

うやら熱がありそうだ。昨日は朝から夕方まで、パソコンで確定申告書を作った。根をつめたせいでせいで腰が痛くなったのはやむを得ないが、一段落したので近所のコンビにに買い出しにでかけたら、二度も転倒しそうになった。こんなときには、絶対に熱がある。とは思っても、こんなときに私は絶対に熱を測らない。それはそれとして、とにかく増俳だけは書かねばならないわけで、苦しいときの宵曲、おなじみの『古句を観る』(岩波文庫)をぱらぱらやていたら、なんと昨日の続きみたいな句に出会った。昨日の白梅は「性善説」にどっぶり浸かっていたのだけれど、この紅梅は花が開ききっても、なお花びらは分厚いままだと、紅梅の特長を述べている。そらご覧、古来白梅は褒められ過ぎなんだよと膝を打ちかけたら、宵曲は次のようにも書いていて、いささかがっくりときた。かの子規は晩年、鉢植の紅梅を枕辺に置いて、こう詠んだとうのである。「紅のこそめと見えし梅の花さきの盛りは色薄かりけり」。これは紅梅の花が開いたら、色が薄くなったというわけだが、品種の違いもあるのだろうか。そして、次のように締めくくっており、さすがは宵曲だと熱の頭にも響いてきたのだった。「薄からず」にしろ(中略)こういう観察は漫然紅梅に対する者からは生れない。比較的長い間、紅梅をじっと見入った結果の産物である。紅梅は紅いものだというだけで、それ以上の観察に及ばぬ人から見たら、この句も歌もけだし興味索然たるものであろう」。(清水哲男)


February 1722011

 白板をツモると紅梅がひらく

                           金原まさ子

句白板には「パイパン」とふり仮名がふってある。山から牌を引っ張ってくるとつるりとした感触にそれと知れる。性的な隠語として使われることも多く、ちょっと怪しい響きである。大三元をあがるに欠かせない牌ではあるが、二枚揃ったからと抱え込んでいると「出世の妨げ」と捨てるよう指南されたこともある。大学そばの雀荘もめっきり減ったが、仕事後の麻雀はどうなのだろう。4人揃えるのも難しいと聞いたことがあるが、牌の揃えかたから点数の数え方まで知っている人が少なくなったこともあるかもしれない。それにしてもこの句、白と赤との色彩の対比は白板の白と赤のドラ牌や花牌からの連想かもしれないが、何ともユニークでエロチック。これから白板をツモるたび、紅梅がほころぶ図を思い浮かべそう。作者の金原さんはめでたく百歳を迎えられたそうだが、みずみずしい感受性で彩られた句の弾み具合は過激で面白い。『遊戯の家』(2010)所収。(三宅やよい)


February 2522011

 紅梅に干しておくなり洗ひ猫

                           小林一茶

うやって干したんだろう。枝に縛ったりしたとは思えない。木の上に上らせて置いたということの比喩だとしたら、猫が意味もなく木の上に長く留まるとは考えにくい。だいいち昔も猫を洗ったということが僕には新鮮。僕の子供の頃は人間様でも毎日は銭湯に行かなかったし、髪なんか週一くらいしか洗わなかった。一茶の時代ならもっと間隔が空いていただろうに、そんな時代に猫を洗うとは。野壺にでも落ちたか。今の俳句ならヨミの許容範囲が広がっているので、「紅梅に」で軽い切れを入れて読む読み方もあるかもしれぬ。猫は別の場所に干してあるという鑑賞だ。それから、馬や牛を洗うのが夏の季題だから、猫を洗うのもやっぱり夏がふさわしくて、紅梅とは季節感がずれる、なんて言いそうだな、現代は。僕は、猫は絶対に紅梅の木の上にいると思う。この句の魅力はこのユーモアが現代にも通じること。河豚を食べたがなんともなかったとか、落花が枝に帰るかと思ったら蝶だったとか、古句の中のユーモアはあまり面白くないことが多いが、この句、今でも十分面白い。『一茶秀句』(1964)所収。(今井 聖)


February 0722015

 紅梅のゆるく始まる和音かな

                           宮本佳世乃

の季節は春を待ちながら静かに始まり、その花は香りを放ちつつ早春を咲きついでいつのまにか終わってゆく。丸く小さい蕾はいかにもかわいらしく、その濡れ色を一輪ずつほどく濃紅梅もあれば、夕空の色にほころぶ薄紅梅もある。一言で濃い、薄い、と言っても数え切れないほどの色があり、纏う光や風によっても趣が変わる。そんな紅梅のさまざまな視覚的表情が、和音、という聴覚的表現で見えてくる。と、こんな風に理屈で、和音、という言葉に意味付けすることは作者の意図するところではないのかもしれない。ともあれ、独特の感覚で対象を捉えて自然に生まれた言葉にすっと頬をなでられたような、不思議な気がした。『鳥飛ぶ仕組み』(2012)所収。(今井肖子)




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