December 29121997

 高瀬川木屋町の煤流れけり

                           高浜虚子

ごと賑わう京都の木屋町の煤払いで出た煤が、高瀬川に流れ込んで濁っているという光景。しかし、汚くて見てはいられないというのではなく、作者はそこに歳末ならではの情緒を感じ取っている。いまではこんな光景も見られなくなったが、昔は大掃除の煤やらゴミやらを平気で川に流していた。それが当たり前だった。川は町の浄化に役立つ、いわば「装置」でもあったわけだ。それがいつの間にやら「装置」を酷使し過ぎてしまった結果、お互いの共存的バランス関係は大きく崩れ、川は人間により守られるべき聖域として位置づけられ、ためにすっかり精気を失ってしまった。もはや、昔のような川の位置づけでの句作は不可能となった以上、逆にいま書きとめておく価値のある作品だろう。(清水哲男)




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