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December 21121997

 爆音や霜の崖より猫ひらめく

                           加藤楸邨

の句は数あれど、戦争と猫の取り合わせは珍しいと思う。前書に「昭和十九年十二月二十一日戦局苛烈の報あり/午後九時、一機侵入、照空燈しきりなり」とある。「照空燈」はサーチライトのことだが、若い人は知らないかもしれない。手元にあるいちばん新しい国語辞典(三省堂『新明解国語辞典』第五版・97年11月刊)によれば、「夜、遠くの方まで照らせるようにした大型で強力な投光器。特殊な反射鏡を用いたりする。探照灯。(上空の敵機を探索するものは照空灯、海上の敵を探索するものは探海灯とも言う)」と解説してある。句は、照空燈が一瞬照らしだした霜の崖に、驚いた猫がひらりと舞ったところを描いている。寒さよりも緊張のために身震いする瞬間が、霜の猫に象徴されている。当時、ほんのちっぽけな子供でしかなかった私にも、この身震いはよくわかる。頭上の敵機は、たぶん爆撃機のB29だろう。高度一万メートルで飛来し、我が国の高射砲では届かなかった。『火の記憶』(1943-1945)所収。(清水哲男)


December 15121998

 夜の霜いくとせ蕎麦をすすらざる

                           下村槐太

戦の年、師走の作。食料難時代。寒い夜に、蕎麦すらも簡単には「すすれなかった」のだ。晦日蕎麦なぞ、夢のまた夢であった。半世紀前の国民的な飢えを、いまに伝える一句である。ところで、この句が生まれた現場に立ちあっていた人がいる。後に『定本下村槐太句集』(1977)を編纂することになる金子明彦だ。「昭和二十年十二月、大阪玉造の夜の句会の席であった。私は十八歳で、いくらか年長の友人とともに、戦後急速に再開されはじめていたあちらこちらの句会を荒らしまわっていた。老人ばかりの句会に丸坊主の少年の私らが乗り込んで、高点をさらうのであった。そういう友人が案内してくれた句会で、私たちが行くともうすでに五、六人が集まっていた。(中略)やがて警防団の制服を着た長身の男がおくれて入ってくると、正面にどっかとすわった。(略)不遜で生意気だった少年の私にも、傲然として見えた。やがて被講がはじまって、選句のさい私が瞠目して選んだ句が読み上げられると、その男は低い声で「クワイタ」と名乗った。永かった戦争がすんだばかりである。(略)大阪玉造駅周辺は、そのころいちめんの焦土であった。街燈はなく夜は暗く、寒さが身にしみた。『いくとせ蕎麦をすすらざる』というなにか哀しみか、歎きにも似た切実な思いが、私のこころをとらえて離れなかったのである」。(清水哲男)


November 24112000

 霜の夜のミシンを溢れ落下傘

                           永井龍男

争末期の句。「大船某工場にて」とあり、この「某」は軍事機密ゆえの「某」である。作者は文藝春秋社の編集者だったから、取材のために訪れたのだろう。霜の降りた寒い夜、火の気のない工場では、「女工」たちが黙々と落下傘の縫製に追われている。ミシンの上に溢れた純白の布が目に染みるようであり、それだけに一層、霜夜の寒さが身をちぢこまらせる。「ミシンを溢れ」は、実に鮮やかにして的確な描写だ。一世を風靡した軍歌『空の神兵』で「藍より青き大空に大空に、たちまち開く百千の、真白き薔薇の花模様」と歌われた「落下傘」も、こんなふうに町の片隅の工場で、一つ一つ手縫いで作られていたわけである。ところで、往時の作者の身辺事情。「収入皆無の状態のまま、応召社員の給与、遺家族に対する手当支給などに追われた。空襲は頻度を増し、私の東京出勤もままならなかった」。そして、同じ時期に次の一句がある。「雑炊によみがへりたる指図あり」。文字通りの粗末な「雑炊」だが、やっと人心地のついた思いで食べていると、ふと会社からの「指図(さしず)」がよみがえってきた。すっかり、失念していたのだ。食べている場合じゃないな。そこで作者は、「指図」にしたがうべく、食べかけた雑炊の椀を置いて立ち上がるのである。この句は、戦中を離れて、現代にも十分に通じるだろう。なにしろ「企業戦士」というくらいだから……。『東門居句手帖・文壇句会今昔』(1972)所収。(清水哲男)


November 25112003

 ジャズ現つ紙屑を燃す霜の上

                           古沢太穂

戦直後の句。寒いので、表で「紙屑」を燃やして手を焙っている。小さな焚火をしているわけだが、当時の都会では、そう簡単に燃やせるものはそこらにはなかった。なにしろ日頃の煮炊きのための薪にも事欠いて、板塀などはもとより天井板や卓袱台まで燃やしていた時代のことである。わずかな紙屑くらいしか、手近に燃やせるものがなかったのだ。そんな侘しい焚火に縮こまって手をかざしていると、どこからか「ジャズ」が聞こえてきた。戦争中、ジャズは敵性音楽として演奏することはもとより聴くことも禁じられていたので、作者には一瞬空耳かという疑念も湧いただろう。が、耳を澄ましてみると、たしかに正真正銘のジャズが「現(うつ)つ」に流れてくる。ラジオからか、それとも誰かがレコードを聴いているのか。もう二度と聞くことはないだろうと思っていた音楽が、こうして町を当たり前のように流れてくるなどは、なんだか夢を見ているような気がする。あえて「現つ」といかめしい文語を使ったのは、そのあたりのニュアンスを強調しておきたかったからだろう。それにしても、ジャズを聴く自由は保障されたけれども、それを十全に享受できる生活は保障されていない。句は、この明暗の対比というよりも、この明暗が入り交じっている混沌のゆえに、なおさら希望が見えてこない時代の「現つ」の相を静かに詠んでいる。このときに「霜」は、単なる自然現象を越えて、庶民の暮らしそのものを象徴しているかのようだ。『古沢太穂句集』(1955)所収。(清水哲男)


January 1212004

 隠し持つ狂気三分や霜の朝

                           西尾憲司

とえば雪が人の心を包み込み埋め込むのだとすれば、「霜」は逆だろう。神経を逆撫でするするようなところがあり、人を身構えさせる。作者が「狂気三分」を覚えたのも、心でキッと身構えたからにちがいない。出勤の朝だろうか。いや休日であろうとも、おのれの狂気を「隠し持つ」一日がまたはじまったわけである。このときに「狂気」とは、世の中の仕組みとはとうてい折り合わないけれど、しかし自分にとってはしごく自然な心のありようのことだろう。人はひとりでは生きられないから、誰もが折り合いをつけるために、折り合いのつかない部分を抑えながら生きていく。ワッと叫びたいけど、叫べない。いっそ一思いに叫んだら、どうなるのか。その答えを知っている心がなお自分を押さえつけ、その自己抑圧はおそらく生涯つづいてゆくような気がする。昨日から、谷崎潤一郎が七十七歳のときに書いた『瘋癲老人日記』を読みはじめた。日記という形式だから、ことさらに狂気を隠す必要はないわけで、そこが面白い。テーマを単純化してしまうと、かつての名作『春琴抄』の佐助の狂気を、現実の老人の日常に置き換える試みのようだ。主人公は老人という弱者の立場を逆に利用して、ずる賢くも狂気の現実化を少しずつ計ろうとするのだが、たとえ家族同士の狭いつきあいでも、やはり世の中であることには変わりない。簡単には、事は進まない。掲句の作者の心情は多くに共通するそれだろうから、そんな読者像を熟知していた老いたる谷崎は、ついに人の心は解放されっこないぜと、この世の中に捨て台詞を残したかったかのようである。『磊々』(2002)所収。(清水哲男)


December 08122004

 鰤にみとれて十二月八日朝了る

                           加藤楸邨

語は「鰤(ぶり)」で冬。「十二月八日」は、先の大戦の開戦日(1941)だ。朝市だろうか。見事な鰤に「みとれて」いるうちに、例年のこの日であれば忸怩たる思いがわいてくるものを、そのようなこともなく過ぎてしまったと言うのである。平和のありがたさ。以下は、無着成恭(現・泉福寺住職)のネット発言から。「私はその時、旧制中学の2年生でした。校庭は霜で真白でしたが、その校庭に私たち千名の生徒が裸足で整列させられ、校長から宣戦布告の訓辞を聞いたのでした。六十二年も前、自分がまだ十五才の時の話ですが、十二月八日と言えば、私が鮮明に思い出すのはそのことです。お釈迦様が悟りをひらかれた成道会のことではありません。今、七十五才ぐらいから、上のお年の人はみんなそうなのではないでしょうか。加藤楸邨という俳人の句に『十二月八日の霜の屋根幾万』というのがありますが、霜の屋根幾万の下に、日本人私たちが、軍艦マーチにつづいて『帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れリ』という放送を聞いた時、一瞬シーンとなり、そのあとわけもなく興奮した異常な緊張感が、この句には実によくでていると思います。あのとき味わった悲愴な感慨を、六十二年後、十二月八日から一日遅れた、十二月九日に味わうことになってしまいました。それは小泉純一郎首相による自衛隊の『イラク派遣基本計画閣議決定』の発表です。私はこれを六十二年前の宣戦布告と同じ重さで受取り、体がふるえました。こういうことを言う総理大臣を選んだ日本人はどこまでバカなんだ」(後略)。『加藤楸邨句集』(2004・芸林21世紀文庫)所収。(清水哲男)


December 02122005

 トースターの熱線茫と霜の朝

                           今井 聖

語は「霜」で冬。霜の降りた寒い朝、台所でパンを焼いている。「トースター」はポップアップ式のものではなく、オーブン・トースターだろう。焼き上がるまでのほんのわずかの間、たいていの人はトースターの中を見るともなく見ているものだ。作者の場合は、寒さのせいもあって、自然にパンよりも「熱線」に目が行っている。「茫(ぼう)」とした感じの明るさでしかないけれど、それが頼もしくも嬉しい明るさに見えるのである。「熱線」と「霜の朝」とは、逆の意味でつき過ぎとも言えようが、この句の場合には、むしろそれで生きている。「熱線」の赤と「霜」の白とが、一瞬読者の頭の中で明滅する効果を生むからだ。ところで、このトースターはかなり古いものなのかな。いまのそれでは、直接「熱線」は見えないように作られていて、見えるのは「熱管」とでも言うべき部品だ。熱線で思い出すのは、なんといっても昔の電熱器だ。スイッチを入れると,裸のニクロム線の灼熱してゆく様子をつぶさに見ることができた。危険と言えば大変に危険な代物ではあったが、製品の原理がわかりやすくて、その意味では子供にも親しめる存在であった。同じ家電製品でも、現在の物の大半はブラックボックス化していて、原理なんてものは開発関連者以外の誰にもわからなくなってしまっている。私たちはいまや、人智の及ばぬ道具を平気な顔をして使っているのだ。あな、おそろし。俳誌「街」(第56号・2005年12月)所載。(清水哲男)


November 02112011

 かまきりや霜石仏遠木立

                           長谷川伸

一月は霜月。霜は本格的な冬の前兆だが、言葉の響きはどこやらきれいな印象を与える。「露結びて霜とはなるなり。別物にあらず」(『八雲御抄』)と書かれたように、古くは、霜は露の凍ったものと考えられ、「霜が降る」と表現された。現在は通常、霜は「おりる」「置く」と表現される。掲句は霜のおりた野の石仏に、もう弱り切ったかまきりがしがみつくように、動かずにじっととまっている姿が見えてくる。あるいはもうそのまま死んでしまっているのかもしれない。背景遠くに、木立が寒々しく眺められる。十七文字のなかに並べられたかまきり、霜、石仏、木立、いずれも寒々とした冬景色の道具立てである。これからやってくる本格的な冬、それをむかえる厳しい光景が見えてくるようだ。一見ぶっきらぼうなようでいて、遠近の構成は計算されている。季語「霜」の傍題の数は「雪」に及ばないけれど、霜晴、深霜、朝霜、夕霜、強霜、霜の声、……その他たくさんある。「夕霜や湖畔の焚火金色に」(泉鏡花)「霜の墓抱き起されしとき見たり」(石田波郷)などの霜の句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 12122012

 貰ひ湯の礼に提げゆく葱一把

                           伊藤桂一

はすっかり見られなくなったようだけれど、以前は「貰い湯」という風習があった。やかんやポットのお湯をいただきに行くのではなく、「もらい風呂」である。私も子どもの頃、親に連れられて近所の親戚へ「もらい」に行った経験が何回かあるし、逆に親戚の者が「もらい」にやってきたこともある。そんなとき親たちはお茶を飲みながら世間話をしているが、子供はそこのうちの子と、公然としばし夜遊びができるのがうれしかった。掲句は農家であろうか、手ぶらで行くのは気がひけるから、台所にあった葱を提げて行くというのである。とりあえず油揚げを三枚ほど持ってとか、果物を少し持って、ということもあった。葱を提げて行くという姿が目に見えるようだ。そこには文字通り温まるコミュニケーションが成立していた。桂一は九十五歳。作家や詩人たちの会の集まりに今もマメに出席されていて、高齢を微塵も感じさせない人である。京都の落柿舎の庵主をつとめるなど、長いこと俳句ともかかわってきた人であり、長年にわたって書かれた俳句が一冊にまとめられた。他に「日照り雨(そばえ)降る毎にこの世はよみがへる」「霜晴れて葱みな露を誕みゐたり」などがある。『日照り雨』(2012)所収。(八木忠栄)


October 28102013

 霜柱土の中まで日が射して

                           矢島渚男

を読んで、すぐに田舎の小学校に通ったころのことを思い出した。渚男句を読む楽しみの一つは、多くの句が山村の自然に結びついているために、このようにふっと懐かしい光景の中に連れていってくれるところだ。カーンと晴れ上がった冬の早朝、霜柱で盛り上がった土を踏む、あの感触。ザリザリともザクザクとも形容できるが、靴などは手に入らなかった時代だったから、そんな音を立てながら下駄ばきで通った、あの冷たい記憶がよみがえってくる。ただ、子供は観照の態度とはほとんど無縁だから、よく晴れてはいても、句のように日射しの行く手まで見ることはしない。見たとしても、それをこのように感性的に定着することはできない。ここに子供と大人の目の働きの違いがある。だからこの句に接して、私などははじめて、そう言われればまぶしい朝日の光が、鋭く土の中にまで届いている感じがしたっけなあと、気がつくのである。『延年』(2002)所収。(清水哲男)


January 1812015

 霜百里舟中に我月を領す

                           与謝蕪村

筆句帳にある安永四年(1775)、六十歳の作。前書に、「淀の夜船 几董と浪花より帰さ(ママ)」とあり、淀川の夜舟に乗って大阪から京へ帰ってくる途中の句です。実景に身を置きながら、舟中の流れは、そのまま漢詩の世界に辿りつくようなつくりになっています。淀川の両岸は霜が降りて白く、舟は月光が反射する川の流れをゆっくりと遡上しています。見上げれば岸辺の樹木の葉は落ち、枯れ枝ゆえ空は広く、我(われ)と月とを遮る物は何もありません。今、我は月を独り占めしている。いい酒に酔って、詩想を得たのかもしれません。李白の『静夜思』に、「床前月光をみる。疑うらくはこれ地上の霜かと」があり、また、『つとに白帝城を発す』に、「軽舟すでに 過ぐ万重の山」があります。蕪村は、これらに類する漢詩文を踏まえて、掛軸のような一句を創作したのかもしれません。『蕪村全句集』(おうふう・2000)所収。(小笠原高志)




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