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December 20121997

 葉牡丹や過密に耐ふる外なけれ

                           川門清明

牡丹は、正月用に供される。花は四月頃に咲くが、もっぱら葉を観賞する植物だ。正直に言って、なんとなくくすんだ感じの色合いで、そんなに美しいと感じたことはない。ただ、食べられそうな葉だなと思っていたら、元祖は江戸期に渡来したキャベツなのだそうである。キャベツだから、葉っぱがギュウ詰めになっていて、つまり過密になっていて、仔細に見ると息苦しくなるような植物だ。この息苦しさに、ひたすら葉牡丹が耐えているように見えるのは、作者自身が現実の過密なスケジュールに耐えているからなのだろう。おそらく、歳末の感慨だ。昔から、葉牡丹を詠んだ句にさしたる佳句は見当たらないが、そのなかで、この句はなかなかに見事な出来栄えだと思う。葉牡丹を見直したくなってくる。(清水哲男)


January 1912015

 葉牡丹の飽きたる渦となりにけり

                           有原正子

ところまでは、てっきり西洋からの伝来種だと思っていたが、純粋に日本で開発された「花」だった。結球しない古い品種のキャベツが主に観賞用として栽培されるうち、品種改良されたと見られている。冬で花の少ない時期に、葉っぱを「花」に見立てるとは、さすがにやりくり上手な日本人の智慧だと感心はする。が、やはり「花」ではない哀しさ。色合いもくすんでいて地味だから、私などははじめから飽きていると言ってもよいほどだ。作者は何日かは楽しんだようだが、あまりの変化のなさに、だんだん食傷気味になってしまったのだろう。品種によっては違うのかもしれないが、句は似是非「牡丹」の基本的様相をうまく捉えている。『現代俳句歳時記・冬、新年』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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