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December 02121997

 短日の燃やすものもうないかしら

                           池田澄子

要の物を庭で燃やしている。すべてが灰になりかかった頃に、ふと頭をかすめた言葉。この際だから、日のあるうちに燃やすものは燃やしてしまわなければ……。ゴミの収集日と同じで、主婦ならば誰しもが日常的に思うことだ。客観的にはそんなに切実な思いであるはずもないが、この一瞬の作者にとっては切実なのである。その真剣さがこのように書きとめられたとき、句は微苦笑の対象となった。作者の句は肩肘はらない発想が魅力であり、それらの多くは口語文体を取り入れる技法によっているものだ。いまの若い俳人にも口語で書く人は多いが、作者のそれには到底及ばない。何故なら、池田澄子は自分を飾るために俳句を書いているのではないからである。『池田澄子句集』(1995)所収。(清水哲男)


December 08121998

 短日や塀乗り越ゆる生徒また

                           森田 峠

者は高校教師だったから「教室の寒く生徒ら笑はざり」など、生徒との交流を書いた作品が多い。この句は、下校時間が過ぎて校門が閉められた後の情景だろう。職員室から見ていると、何人かの生徒がバラバラッと塀を乗り越えていく様子が目に入った。短日ゆえに、彼らはほとんど影でしかない。が、教師には「また、アイツらだな」と、すぐにわかってしまうのである。規則破りの常連である彼らに、しかし作者は親愛の情すら抱いているようだ。いたずらっ子ほど記憶に残るとは、どんな教師も述懐するところだが、その現場においても「たまらない奴らだ」と思いながらも、句のように既に半分は許してしまっている。昭和28年(1953)の句。思い返せば、この年の私はまさに高校一年生で、しばしば塀を乗り越えるほうの生徒だった。が、句とは事情が大きく異なっていて、まだ明るい時間に学校から脱出していた。というのも、生徒会が開かれる日は、成立定数を確保するために、あろうことか生徒会の役員が自治会活動に不熱心な生徒を帰さないようにと、校門を閉じるのが常だったからである。校門を閉めたメンバーのほとんどは「立川高校共産党細胞」に所属していたと思われる。「反米愛国」が、我が生徒会の基調であった。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


November 26111999

 ロボットと話している児日短か

                           八木三日女

後「前衛俳句」運動のトップランナーであった三日女(「満開の森の陰部の鰓呼吸」「赤い地図なお鮮血の絹を裂く」など)の近作だ(1995)。一読、ほほえましいような光景ではあるが、具体的に場面を想像してみる(たとえば「鉄腕アトム」と話している子供)と、不気味な句に思えてくる。アトムとまではいかないが、最近では人語に反応するロボット玩具が開発されており、句の場景も絵空事ではなくなってきた。不気味というのは、感情を持たない話し相手に感情移入できているという錯覚のそれである。ロボットと話すことで癒される心のありようは、不気味だとしか言いようがない。原理的に考えれば、ロボットに言語を埋め込むのは所有者であるから、ロボットとの対話は自身の一部との会話に他ならず、それもいちいち音声化する必要のない部分との対話である。対話型のロボットは、所有者に都合のよい「甘えの構造」の外在化でしかないだろう。そしてこのとき「日短か(「ひぃみじか」と関西弁で発音してください)」というのは、人類の冬の季節における「短日」の意味に受け取れる。世紀末にふさわしい一句と言うべきだ。(清水哲男)


November 29112000

 短日や書体父より祖父に似る

                           廣瀬直人

ッとした。こういうことは、思ってもみなかった。たしかに「書体」だって、遺伝するだろう。身体の仕組みが似ているのだから、ちょっとした仕草や動作にも似ているところがあるのと同じことで、「書体」も似てくるはずである。そういうことを、掲句に触れた人はみな、ひるがえって我が身に引きつけて考える。その意味では、この句はすべての読者への挨拶のように機能している。私の場合、二十代くらいまでは父の書体に似ていた。良く言えば几帳面な文字だが、どこか神経質な感じのする「書体」だった。さっき大学時代のノートの小さな文字列を見てみて、まぎれもない父似だと感じた。ところが、三十代に入って文筆を業とするようになってからは、「書体」が激変することになる。貧乏ゆえ原稿用紙を買うのが惜しかったので、最初に関わった「徳間書店」で大量にもらった升目の大きい用紙を使いつづけたせいだと思う。大きな升目に小さな文字ではいかにも貧相なので、升目に合わせて大きく書くようになった。以来の私の文字は、母方の祖父の「書体」に似ているような気がする。彼の文字は、葉書だと五行ほどで一杯になるくらい大きかった。祖父の体格は「書体」にふさわしく堂々としていたが、私は華奢だ。しばしば、編集の人から「身体に似合わない字を書きますね」と言われた。「短日(たんじつ)」は「秋思」の延長のようにして、人にいろいろなことを思わせる。『日の鳥』(1975)所収。(清水哲男)


January 0612001

 女手の如き税吏の賀状来ぬ

                           ねじめ正也

者は商店主だったから、税吏(ぜいり)とは不倶戴天の間柄(笑)だ。いつも泣かされているその男から、どういう風の吹き回しか、年賀状が舞い込んだ。そのことだけでもドキリとするが、どう見ても「女手(女性の筆跡)」なのが、彼の日ごろのイメージとは異なるので解せない。カミさんに書かせたのか、それとも自分で書いたのか。見つめながら、寸時首をかしげた。結論は「女手の如き」となって、彼の自筆だというところに落ち着いた。彼本来の性格も、これで何となく読めた気がする。今後は、応接の仕方を変えなければ……。正月は、税金の申告に間近な時季なので、リアリティ十分に読める句だ。だれだって、税金は安いほうがよい。大手企業とは違い、商店の商い高など知れているから、多く税吏との確執は必要経費をめぐってのそれとなるだろう。商売ごとに必要経費の実質は異なるので、税吏との共通の理解はなかなか成立しないものなのだ。税吏は申告の時期を控えて、話をスムーズにすべく賀状を出したのだろうが、さて、この後に起きたはずの二人のやり取りは、いかなることにあいなったのか。いずれにしても成り行きは「自転車の税の督促日短か」と追い込まれ、春先には「蝿生る納税の紙幣揃へをり」となっていく。商人は、一日たりともゼニカネのことを思案しないではいられない身空なのだ。『蝿取リボン』(1991)所収。(清水哲男)


November 22112001

 短日や盗化粧のタイピスト

                           日野草城

語は「短日」で冬。もう七十年も前の昭和初期の職場風景だ。このころの草城は、大阪海上火災保険に勤めていた。当時のタイピストは専門職として貴重であり、いわばキャリアウーマンの先駆け的存在だった。しかし、なにしろ昔は男社会だ。オフィスで働く女性も少なく、しかも男どもに互して働いたのだから、しっかりした気丈な女性像が浮かんでくる。あまり化粧っ気もなく、服装も地味だったろう。そんな女性が、仕事の合間に素早く「盗化粧(ぬすみげしょう)」をするのを、作者は偶然に見てしまった。つまり、タイピストに「女」を見てしまった。日暮れも近く、退社時間ももうすぐだ。会社が退けたら、誰かに会いに行くのだろうか。一瞬そんな詮索心もわきかけたが、ちょっと首をふって、作者も自分の仕事に戻った……。文字通りの事務的な雰囲気のなかで、瞬間「人間の生々しさ」が明滅したシーンを定着させたところに、作者の手柄がある。余計なことながら、国内の保険会社という仕事柄、女性が操作していたのは和文タイプではなかったろうか。となると、当時の最先端を行く事務機器だ。和文タイプの発明は大正期のことであり、それまでは銀行などでも、帳簿への記入はすべて筆書きだった。小林一三が、回想録に書いていたのを読んだことがある。室生幸太郎編『日野草城句集』(2001)所収。(清水哲男)


December 30122001

 左右より話一度に日短

                           五十嵐播水

語は「日短(短日)」で冬。一日が二十四時間であることに変わりはないけれど、日照時間が短いと、追い立てられるような気分になる。とくに多忙な歳末ともなれば、いっそう強く感じられる。掲句は歳末とは無関係ながら、この時期に読むと、より句意が実感として鮮明になるようだ。忙しいから、話かけるのにも、とかく一方的になる。折り入っての話なら別だが、ちょっとした用事を頼んだりする際には、相手の状態には無頓着に話しかけがちだ。うっかりすると、電話中の人に話しかけたりしてしまう。したがって「左右より話(が)一度に」衝突し、ちょっと待ってくれよと、それこそ左右に手を広げることになる。よくあることではあるが、この状態を「日短」に結びつけた腕前はさすがだ。言われてみれば、なるほどである。しかも「日短し」とは詠まずに、あえて「日短(ひみじか)」と四音に短く止めたところが、「短日」の雰囲気とよく通いあっている。ただ、作者はたしか関西の人だから、あるいは「ひぃみじか」と関西弁で五音に読ませるつもりだったのかもしれない。そうだとしても、字面的には収まりはよろしくない。中途半端だ。やはり作者のねらいは、発音はともかくとして、この収まりの悪さを百も承知でねらったのだと思われる。『新歳時記・冬』(1989)所載。(清水哲男)


December 03122004

 廚の灯おのづから点き暮早し

                           富安風生

語は「暮早し」で冬。年の暮れのことを言うのではなく、冬時の日暮れの早さを言う。「短日」の傍題。句のミソはむろん「おのづから点(つ)き」にある。いかにも言い得て妙。「廚(くりや)の灯」が「おのづから」点くことなどないわけだが、まだこんな時間なのにもう灯が点いているという小さな驚きが、それこそ「おのづから」口をついて出てきた恰好だ。昔の食事の仕度にはかなりの時間を要したので、どの家でもたいがいは台所から点灯されたものである。それに、台所自体が昼でも薄暗い構造の家が多かった。めったに使わない客間などを明るく作ったのは、いったいどんな考えからなのだろうかと、いまどきの若い人なら訝しく思うに違いない。が、現代的なダイニング・キッチンの意識が定着してから、かれこれ三十年くらいだろうか。こうした俳句の味が実感的にわかる人は、まだたくさんおられるけれど、いずれは難解句になってしまいそうだ。あたりがある程度の暗さになると、本当に電気が「おのづから」点く装置(我が西洋長屋の廊下には、何年も前から取り付けられている)も、そのうちに普及してくるだろうし、そんなことを考えると掲句の寿命も目の前である。古い日本の抒情の池も、急速に干上がってきつつあるということだろう。(清水哲男)


December 23122007

 短日や電車の中を人歩く

                           河合すすむ

つか新聞で読んだのですが、「冬の鬱」という病気があるそうです。眠気がひどく、食欲が増すということで、普通の鬱とは違うのだと書いてありました。日が短くなるのが原因なのだそうです。個人的な事情や悩みからではなく、季節がもたらすこのような病に、しらずしらず私たちは抵抗していたのかと、思ったものです。クリスマス、大晦日、正月と、この時期に賑わしく人々が集おうとするのも、心を明るい方向へ向かわせたいというけなげな願いからきているのかもしれません。さて、本日の句です。季語はまさに「短日」。たしかにこのごろは、私の働くオフィスの大きなガラス窓も、午後も4時半を過ぎれば早々と暗くなり始めます。これほどの日の長さかと、仕事に疲れた顔を窓に向けては、時の過ぎるのを惜しく思います。句の中の人は、電車に乗っていてさえ、かぎりある「時」を大切に使おうとしているようです。電車の中を歩いているのは、到着駅で降りる場所を、少しでも改札の近くへ持って行きたかったからなのでしょうか。あるいは、なにか気にかかることでもあって、移動する車両の中でさえ、いてもたってもいられなかったのでしょうか。どのような理由であれその歩みは、過ぎ去る「時」を追いかけているように、思われます。『観賞歳時記 冬』(1995・角川書店)所載。(松下育男)


November 16112008

 短日や一駅で窓暗くなり

                           波多野惇子

語は短日で、冬です。つり革につかまりながら、窓の外を見るともなく見ていたのでしょうか。前の駅で停車していたときには、夕暮れの駅舎の形や、遠くの山並みがはっきりと見えていたのに、つぎの駅についたときにはもう、とっぷりと暮れており、駅の灯りもまぶしげに点灯しています。むろん、駅と駅の間にはそれほどの距離があったわけではなく、だからこそ、日の暮れの早さに驚きもしているわけです。そういえば、わたしの働くオフィスには、前面に空を映した大きなガラス窓があり、最近は窓の外が、午後もすこし深まると、にわかに暗くなります。まさに「いきなり」という感じがするのです。冬の「時」は徐々に流れるのではなく、性急に奪い去られるものなのかもしれません。「一駅」という語は、その後ろに、駅と駅の間に流れ去って行く風景をそのまま想像させてくれる、うつくしい語です。句が横の向きへ走りさっていってしまうような、名残惜しさを感じます。うしなうことのさみしさを、読むことのできる季節になりました。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


December 17122011

 短日のどの折鶴もよく燃える

                           西原天気

れにしてもよく燃えるな、という感じだろうか。千羽鶴を火にくべる背景はいずれにしても哀しいものと思われるが、目の前の火の勢いという現実に、一瞬気をとられたような印象を持った。燃えさかる炎をじっと見ていると、心が昂ぶることも、逆に心が鎮まってくることもあるように思う。そんな作者に、短日の夕日があかあかとさしている。あと一週間足らずで冬至、日の短さをいよいよ実感する頃合となり、なにかと気ぜわしくもある。冬の日差しは遠くて弱いが、日の短さも冬至が底、と思えば少し励まされるような気もする。『けむり』(2011)所収。(今井肖子)


October 30102012

 野分来る櫓を漕ぐ音で竹撓る

                           嘴 朋子

六竹八塀十郎という言葉がある。樹は六月に、竹は八月を過ぎてから伐り、塀は十月に塗るのが望ましいという意味だ。それぞれに適した時期を先人はこうした語呂合わせで覚えていた。陰暦でいうので、竹はこれからが冬にかけてが伐りどきなのだ。郷里では茶畑も多いが、竹林も多かった。もっさりと葉を茂らせた竹が強風に煽られる姿は、婆娑羅髪を振り立てたようで恐ろしばかりだったが、葉擦れや空洞の幹が立てる音色はたしかに川の流れにも似て、竹の撓る音はぎいぎいと櫓を漕ぐがごとしであった。掲句のおかげで今まで乏しい想像力のなかで荒くれお化けだった景色が一変した。翡翠色の竹林の上を大きな舟がゆったりと渡っていくのだ。環境省が選んだ「残したい日本の音風景」には「奥入瀬の渓流」や「広瀬川の河鹿蛙」などとならび、「京の竹林」もエントリーしている。久しぶりに竹の音を聞いてみたくなった。〈弧を描く少女の側転涼新た〉〈短日のナース小さく風切つて〉『象の耳』(2012)所収。(土肥あき子)


December 16122015

 前のめりなる下駄穿いてわが師走

                           平木二六

走と言っても、それらしい風情は世間から少なくなった。忘年会の風習は残っているけれど、街にはいたるところ過剰なイルミネーションが、夜を徹してパチクリしているといった昨近である。かなり以前から、「商戦の師走」といった趣きになってしまっている。師も足繁く走りまわることなく、電子機器上で走りまわっているのであろう。諸説あるけれど、昔は御師(でさえ)忙しく走っていた。「前のめり」になるほど歯が減ってしまった下駄を穿いて走りまわる、それが暮れの十二月ということだった。下駄は年末まで穿きつぶして新調するのは正月、という庶民の生活がまだ維持されていた時代が掲出句からは想像される。靴ではなくまだ下駄が盛んに愛用されていた、私などが子どもの時代には、平べったくなるまで穿きつぶして、正月とかお祭りといった特別のときに、新しい下駄を親が買って与えてくれた。前のめりになって、慌ただしく走りまわっている姿が哀れでありながら、どこか微笑ましくも感じられる。二六の句には他に「短日や人間もまた燃える薪」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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