November 10111997

 絵所を栗焼く人に尋ねけり

                           夏目漱石

歳時記では「秋」に分類しておくが、ヨーロッパでの焼栗は冬の風物詩だ。街頭のあちこちで、おいしそうな匂いをさせながら売っている。ロンドン留学中の漱石がこの句を詠んだのも明治34年2月1日、真冬のことだった。絵所は美術館のこと。日記によれば、Dulwich Picture Gallery である。さりげない詠み方だが、実は漱石必死の場面なのだ。道を聞くならそこらのインテリ風の通行人に尋ねればよいものを、それができない。「もう英国は厭になり候」と虚子に宛てて葉書を書いたのもこの時期で、いわば英会話恐怖症におちいっていた。だから、食べる気もない焼栗を(それも沢山)買い、焼栗屋のおっさんの機嫌をとっておいてから、おずおずと絵所の場所を聞き出したという次第だろう。情報はタダじゃない。身をもって、漱石はそのことを実感したとも言えるが、振り返ってみれば昔から、横丁の煙草屋で道を尋ねるときも、日本人は喫いたくもない煙草を余計に買ったりしてきた。このときの漱石は、そんな日本的な流儀に思わずも縋りついたのだろう。可哀相な漱石。『漱石俳句集』所収。(清水哲男)




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