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October 29101997

 よい物の果てもさくらの紅葉かな

                           塵 生

生(じんせい)は江戸中期、加賀小松の商人。蕉門。商人らしく世事万端にわたっての増長を戒めている。春に美しい花を咲かせた桜も、秋にいちはやく紅葉するとすぐに散ってしまう。『新古今集』には「いつのまにもみじしぬらむ山ざくら昨日か花の散るを惜しみし」(具平親王)とあり、清少納言も『枕草子』に「桜の葉、椋の葉こそ、いとはやく落つれ」と書いている。人事的に言えば「おごる平家も久しからず」ということであり「盛者必滅」というわけだ。句としては間違っても上出来とは言えないけれど、古典を読むときのために桜紅葉の生態を覚えておくには絶好のフレーズだろう。(清水哲男)


October 23102005

 芸亭の桜紅葉のはじまりぬ

                           岩淵喜代子

語は「桜紅葉」で秋。「芸亭(うんてい)」は、日本最古の図書館と考えればよいだろう。奈良時代後期の有力貴族であった石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)によって、平城京(現在の奈良市)に設置された施設だ。仏道修行のための経典などが収められていたと、創設経緯などが『続日本紀』(797年完成)に出てくる。しかし、宅嗣の死後間もなくに長岡遷都が行われ、荒廃した平城京とともに「芸亭」も消滅してしまったと思われる。したがって、掲句の「芸亭」は幻である。絵も残されていないので、どんなたたずまいだったのかは誰にもわからない。掲句は、そんな幻の建築物の庭には「桜」の樹があって、こちらは誰もが見知っている「紅葉」がはじまったと言うのである。つまり作者は、幻の芸亭に現実の桜紅葉を配してみせたわけだ。「桜紅葉」は、他の紅葉に先駆けて早い。すなわち、もはや幻と化している芸亭にもかかわらず、そこにまた重ねて早くも衰微の影がしのびよってきた図だと解釈できる。幻とても、いつまでも同じ様相にあるのではなく、幻すらもがなお次第に衰えていくという暗喩が込められた句ではなかろうか。想像してみると美しくも幻想的な情景が浮かんでくるが、その美しさの奥に秘められているのは,冷たい世の無常というようなものであるだろう。「俳句研究」(2005年11月号)所載。(清水哲男)


September 0492006

 桜紅葉これが最後のパスポート

                           山口紹子

い最近、緊急に必要なことができて、急遽パスポートの申請に行ってきた。本籍地のある中野の区役所で戸籍抄本をとり、立川の旅券申請受付窓口で手続きが終わるまで、その間に写真撮影やなんやらかんやらで、ほぼ一日仕事になってしまった。この流れのなかで、一瞬迷ったのが旅券の有効期限の違いで色の違う申請用紙を選んだときだ。赤が十年で、青が五年である。このときにすっと頭に浮かんだのは、揚句の作者と同じく「これが最後のパスポート」という思いであった。最後なんだから赤にしようかとも思ったけれど、十年後の年齢を考えると現実的ではなさそうだと思い直して、結局は青にした。そんなことがあった直後に読んだ句なので、とても印象深い。作者の年齢は知らないが、ほぼ同年代くらいだろうか。作者が取得したのは「桜紅葉」の季節だったわけだが、この偶然による取り合わせで、句が鮮やかに生きることになった。桜紅葉の季節は早い。他の木々の紅葉にさきがけて、東京辺りでも九月の下旬には色づきはじめる。山桜なら、もっと早い。すなわち作者は、「最後」と思い決めた人生に対する季節感が、いささか他の人よりも早すぎるかもしれないという気持ちがどこかにあることを言っている。だから、この感情を苦笑のうちに収めたいとも思ったろうが、一方で苦笑からはどうしてもはみ出てしまう感情がないとは言えないことも確かなのだ。この句を読んだ途端に、私は未練がましくも赤にしておくべきだったかなと思い、いややはり青でよかったのだと、あらためて自己説得することになったのだった。『LaLaLa』(2006)所収。(清水哲男)




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