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October 24101997

 天高し不愉快な奴向うを行く

                           村山古郷

高し。気分がすこぶるよろしい。ストレスなんぞゼロ状態で歩いていると、不意にイヤな奴が向こうのほうを歩いていくのが目に入った。とたんに、不愉快になってしまった。奴もきっとストレスゼロ状態なのだろうなと思えるので、ますますイヤな感じになる。それで、足取りも自然に重くなる。……というわけなのだが、なに、先方だって同じことかもしれない。こちらに気がついたら、きっと気分はおだやかじゃなくなるのだろう。ま、いいじゃないですか。せっかくの上天気なのです。人間万歳なのです。この句をはじめて読んだときには、吹き出してしまった。誰もが上機嫌になることを前提にしたような季語「天高し」を、かくのごとく自在に操ることのできる技術を指して、常識では「芸」というのである。(清水哲男)


October 22102000

 天高く梯子は空をせがむなり

                           仁藤さくら

子は短い。地面に倒されて置いてある梯子は長く見えるが、いざ立て掛けてみると、こんなに短かったのかと思う。ましてや、天高しの候。立て掛けて見上げる梯子の先の空は、抜けるように青い空間だから、頼りないほどに短く見える。そこで、こうした思いに出くわす。せがまれてもどうにもならないけれど、なんだか梯子に申しわけないような、立て掛けた自分の責任のような……。梯子にかぎらず、およそ道具には、こういうところがある。使い道にしたがって、たとえば包丁であれば何でも切ることをせがみ、自動車であれば無限のスピードをせがむ。道具のように機能を特化されていない人間の、これは機能を特化された道具に対する幻想ではあるけれど、道具がいちばん道具らしい表情を見せるのは、せがむ瞬間なのだ。ああ、梯子は高いところに上るための道具なのだと、せがまれてみて再認識をすることになる。その意味からして、掲句はひとつの道具論としても光っている。梯子とはこういうものだと、一発で言い当てている。実は私は高所恐怖症なので、この句のここまではわかるのだが、ここから先に作者が上っていく姿などは想像したくない。立て掛けて、地面の上から梯子の先を見上げ、その先に広がる秋空が目に入ったところで止めている句なので、書く気になった。と言いつつ、ちょっと上りかけた作者の気配を感じてしまい、目まいがしそうなので、本日はこれにておしまい。『Amusiaの島』(2000)所収。(清水哲男)


September 2492004

 天高く事情聴取はつづきをり

                           櫂未知子

ういう想像力は好きですね。そこはかとない可笑しみが漂ってくる。天高しの秋晴れの下、散歩に出かけたりスポーツに興じたりと、そんな戸外の活動をイメージするのは当たり前のこと。当たり前が悪いのではないけれど、しかし、一方では掲句のように天気とは関係のない現実も厳然とあるのである。「事情聴取」とまではいかなくとも、ウィークデーだとむしろ天気の如何に関わらぬ仕事で室内に閉じこもっている人のほうが多いはずだ。私なども、ときたま快晴の窓の外を眺めては、思わずもふうっとため息を漏らしたものだった。会社にいわば拘束されていたわけだが、警察に拘束されていろいろと事情を聞かれるとなると、ため息どころではないだろう。「天高し」どころではない人が圧倒的多数だとは思うけれど、推察すれば、早く拘束をといてほしい気持ちは上天気のほうが強くなりそうだ。取り調べる側だって、早く決着をつけたい気持ちに駆られるだろう。その意味で、まったく無関係だとまでは言い切れまい。しかしなお、掲句では延々と事情聴取はつづいているのであって、せっかく晴れてくれた秋の空が機嫌をそこねかねない案配にまでなってきた。諧謔句と言ってよろしいかと思うが、作者が句の裏側で言っているのは、たぶん季語の常道に拘束されすぎるなということだ。それではどんどん俳句と俳人の世間が狭くなり、多面的多層的な現実を見失うことになりかねないよ。と、一言発言する代わりに、茶目っ気を見せてやんわりとひねってみたのだと思う。『セレクション俳人06・櫂未知子集』(2003)所収。(清水哲男)


October 11102005

 天高しやがて電柱目に入り来

                           波多野爽波

語は「天高し」で秋。澄み渡った秋の大空。作者は大いに気を良くして、天を仰いでいる。だが、だんだん視線を下ろしていくにつれ何本かの「電柱」が目に入ってきた。せっかくの青空になんという無粋で邪魔っけな電柱なんだ、興ざめな。……という解釈も成り立たないことはないけれど、作者の本意とは相当に隔たりがあるように思う。そうではなくて、実ははじめから作者の視野には電柱が入っていたと解釈したい。人間の目は、カメラのレンズのようには機能しない。視野に入っているものでも、見たいものが別にあればそちらにピントを合わせて見ることができる。言い換えれば、余計な他のものには意識がいかないので、視野の内にあっても見ないでいられる。それが証拠に、何か気に入ったものを写真に撮ってみると、思わぬ夾雑物がいっしょに写っていたりして慌てることがある。えっ、こんなものがあそこにあったっけなどと、後で首を傾げることは多い。作者の最初の関心は高い天であったから、はじめは電柱に気がつかなかっただけなのだ。それがしばらく仰ぎ見ているうちに、だんだんと気持ちが落ち着いてきて、視野の内にある他のものも見えてきはじめた。そんな人間の目の特性を発見して、作者は面白がっているのだろう。如何でしょうか。『舗道の花』(1956)所収。(清水哲男)


October 08102006

 秋高しなみだ湧くまで叱りおり

                           津根元 潮

情とは不思議なものです。自分のものでありながら、時として自己の制御の及ばないところへ行ってしまいます。この句を読んで誰しもが思うのが、何があったのだろう、何をいったい叱っているのだろうということです。「秋高し」と、いきなり空の方へ読者の視線を向けさせて、一転、その視線が地上へ降りてきて、人が人を叱っている場面に転換します。高い空をいただいた外での出来事であったのか、あるいは大きく窓を開けた室内のことであったのか。どちらにしても叱責の声はそのまま空へ響いています。「まで」という語が示すとおり、いきなり怒鳴りつけたのではなく、切々と説いていた感情が、徐々に自己の中でせりあがり、ある地点を越えたところで、涙とともに堰を切ってしまったようです。ひらがなで書かれた「なみだ」が、怒りでなく、叱るものの悲しみをよく表現しています。相手のことを思う気持が深いからこそ、叱るほうの感情も、逃げ場のないところへいってしまったのでしょう。その叱責は、どこまでも高い空の奥へ、生きることの困難さを訴えかけている声にも聞こえてきます。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


April 0942008

 恋猫のもどりてまろき尾の眠り

                           大崎紀夫

の交尾期は年に四回だと言われる。けれども、春の頃の発情が最も激しい。ゆえに「恋猫」も「仔猫」も春の季語。あの求愛、威嚇、闘争の“雄叫び”はすさまじいものがある。ケダモノの本性があらわになる。だから「おそろしや石垣崩す猫の恋」という子規の凄い句も、あながち大仰な表現とは言いきれない。掲出句は言うまでもなく、恋の闘いのために何日か家をあけていた猫が、何らかの決着がついて久しぶりにわが家へ帰ってきて、何事もなかったかのごとくくつろいでいる。恋の闘いに凱旋して悠々と眠っている、とも解釈できるし、傷つき汚れ、落ちぶれて帰ってきて「やれやれ」と眠っている、とも解釈できるかもしれない。「まろき尾」という、どことなく安穏な様子からして、この場合は前者の解釈のほうがふさわしいと考えられる。いずれにせよ、恋猫の「眠り」を「まろき尾」に集約させたところに、この句・この猫の可愛さを読みとりたい。飼主のホッとした視線もそこに向けられている。猫の尾は猫の気持ちをそのまま表現する。このごろの都会の高層住宅の日常から、猫の恋は遠のいてしまった。彼らはどこで恋のバトルをくりひろげているのだろうか? 紀夫には「恋猫の恋ならずして寝つきたり」という句もあり、この飼主の同情的な視線もおもしろい。今思い出した土肥あき子の句「天高く尻尾従へ猫のゆく」、こちらは、これからおもむろに恋のバトルにおもむく猫の勇姿だと想定すれば、また愉快。『草いきれ』(2004)所収。(八木忠栄)


September 1192008

 天高しみんなが呼んで人違ひ

                           内田美紗

方になると雷鳴とともに大雨が降りだす油断のならない空模様が続いていた東京もようやくからりと乾いた青空が広がり始めた。そんなふうに空気が澄みわたって見晴らしのいいある日、駅の集合場所でなかなかやってこない一人を待ちわびている。「あっちからくるはずよ。」みなで同じ方向を眺めていると、遠くからやって来る人影が。背格好といい身なりといい、あの人に違いない。おのおのが手を振り、名前を連呼する。手を挙げて合図しているのに、近付いてくる人はつれなくも知らん顔。「こっちに気づいていないのよ。」確信を持った意見になおもみな声を張りあげ、大きく手を振る。やって来る人の顔がはっきり見える距離になって、人違いだったとわかる。ああ、恥ずかしい。それでもみんなと一緒だから、バツの悪さも救われる。(間違えられた人のほうがどんな顔ですれ違っていいんだか当惑気味かもしれないが)これが一人だったらどれだけカッコ悪いことか。でも大きな声を出して人違いしたのも行楽に浮き立つ気持ちと仲間がいたからこそ。これがどんより曇った天気で、一人だったら顔を合わすまでおとなしくしていたでしょうね。『魚眼石』(2004)所収。(三宅やよい)


October 25102008

 天高く高層ビルの檻にゐる

                           伊藤実那

い粒子の、ひとつぶひとつぶが見えるような秋晴れの空。そこに突き出している高層ビルの中に作者はいるのだろうか。天高し、ならそんな気がするが、天高く、といわれると、ビルの外から、ビルを見ているようにも思える。檻は、その存在に気づいた時に檻になる。ビルの中で、浮遊しつつ立ち歩いている人々のほとんどは、檻の中に居るとは思っていないだろう。檻の中に居ることは、不自由といえば不自由、安全といえば安全。閉じ込められていると感じるか、守られていると感じるか、ともかくその外へ出たいか、そこを檻の中と気づくこともないまま過ごしてゆくか。作者自身は、空と自分を隔てる一枚のガラスを突き破って飛びたい、と願っているのかもしれない。この句は、「花いばら」と題された三十句の連作のうちの一句。〈花いばら産んでもらつても困る〉で始まる数々の句からは、自分らしさを自分で打破しながら、高きに登ろうとする志が感じられる。俳誌「河」(2008年七月号)所載。(今井肖子)


October 31102010

 天高し洗濯機の海荒れてゐる

                           日原正彦

者は詩人。透明感のある美しい詩を、これまでに何編も生み出しています。初めてこの詩人の詩に出会ったときには、言葉の尋常でないきらめきに、強い衝撃を受けた記憶があります。ああ、日本の詩でもこれほどに胸をうつものが作品として成立するのだなと思い、それ以来わたしにとっては、詩を作るときの目標にもなっています。たとえば、「訪ねる人」という作品。「君は脱いだ帽子をあおむけにテーブルにおく/するとその紺青の深さに きらきらと/白い雲が浮かんでいたりして…/すると突然それは金魚鉢であったりして/ぼんやりした赤い色彩が/しだいに金魚の命を塑造し始める」(「訪ねる人」より)。ここに全編引用するわけにもいきませんから、このへんでやめておきます。この作者の名を、朝日俳壇で時折に見るようになったのは、いつごろのことだったでしょうか。詩人が句を詠むときにありがちな、鮮やかさに偏ることなく、句を作るときには句のよさを追求してゆくのだという姿勢が見られます。洗濯機は室内ではなく、秋空の見えるベランダにでも置いてあるようです。洗濯機の中を覗く詩人の目が、何を見つめ、この後、句をどのように育て上げようとして行くのか、楽しみではあります。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2010年10月25日付)所載。(松下育男)


October 12102011

 天高し天使の悲鳴呑みこんで

                           小長谷清実

格的な秋は空気も澄みきって、空が一段と高く感じられる。季語では「秋高し」「空高し」とも。晴ればれとして感じられる気候だというのに、ここではいきなり「天使の悲鳴」である。それはいかなる「悲鳴」なのか詳らかにしないが、天が高く感じられる時節であるだけに、空に大きく反響せんばかりの「悲鳴」には、何やら尋常ならざるものがひそんでいることは言うまでもない。天使が悲鳴をあげるなんて、よほど悲劇的状況なのであろう。しかも高く感じられる秋の天が「天使の悲鳴」を「呑みこんで」いるゆえに、空がいっそう高く感じられるというのである。穏やかではない。この句はずっと以前に作られたものだけれど、私は今年三月の東日本大震災を想起せずにいられなかった。人間や自然のみならず、天使さえもが凍るような悲鳴をあげ、それを本来晴ればれとしているはずの秋天が、丸ごと呑みこむしかなかった。いや、「なかった」と過去形で語って済ますことは、今もってできない。晴ればれとした秋も「天高し」であるだけに、呑みこまれた「悲鳴」は天空や地上から容易に消えることなく、より重たく感じられてくる。それゆえに天も、いつになく高く高く感じられる。清実には、他に「田楽やことに当地の味噌談義」という彼らしい句もある。「OLD STATION」14号(2008)所載。(八木忠栄)


October 13102011

 天高しほがらほがらの伊勢うどん

                           奥坂まや

らっとした秋晴れが何日か続いている。暑くもなく、寒くもなく公園に寝転んで透き通った空を見上げるのにいい頃合だ。そんな気持ちのいい秋の天気と取り合わされている「伊勢うどん」とはこれ如何に。ウィキペディアの説明によると、「黒く濃厚なつゆを柔らかく煮た極太の麺にからめて食べる。麺をゆでる時間が非常に長く、通常のうどんが15分程度であるのに対して1時間弱ほど茹でる」そうで、伊勢参りの人のために提供されたのが始まりとか。きっとおおらかで素朴なうどんなのだろう。参道の店で伊勢うどんを食べると長旅の疲れも癒えて「ほがらほがら」と機嫌がよくなるのだろう。広々と澄みわたった空にほがらかに唄ううどんが「伊勢へおいでよ」と呼んでいる気がする。『妣の国』(2011)所収。(三宅やよい)


September 2492013

 星の座の整つてくる虫しぐれ

                           前田攝子

月末、天文愛好家が「天体観測の宝庫」と賞賛するあぶくま高原に星を見に行った。昼の暑さはまだ夏のものだったが、山から闇がしみだしてくるような午後7時を回る頃には気温もすっかり下がり、長袖でなくては寒いほどだった。細やかな星のきらめきのなかで天の川に翼をかけたはくちょう座が天体から離れると、秋のくじら座が姿をあらわす。爽やかな空気のなかで、星たちは冴え冴えと輝きを増し、大きな部屋に描かれた天井絵を掛け替えるように、天体の図柄が変わる。秋の役者が揃ったところで、虫しぐれが地上でやんやの喝采をあげる。星座に虫の名を探してみるとひとつきり、それもハエ。なんとも残念なことだ。名前のない小さな星たちを集めて、秋の空にすずむし座やこおろぎ座を据えて、地上と天上の大合唱の間に身を置く空想を今夜は描いてみよう。〈舵取も荷積みも一人秋高し〉〈水に置きたき深秋の石ひとつ〉『晴好』(2013)所収。(土肥あき子)


September 2692013

 ショーウィンドウのマネキン家族秋高し

                           山田露結

ョーウィンドウの中に母、父、男の子、女の子の家族が最新ファッションに身を包み、楽しそうに微笑みあっている。この頃はピクニックにも遊園地にも無縁な生活をしているので、昨今の家族がどのように休日を過ごしているのか、とんと疎くなってしまった。時々電車で見かける家族はショーウィンドウの中にいる家族のように上機嫌でもなく、おしゃべりも弾んでいないように見える。それが現実の家族で、気持ちのよい秋晴れに行楽地へ繰り出しても子供は駄々をこね、父と母はささいなことで怒りだすこともしばしば。せっかくの休日が出かけたことで台無しになることだったあるのだ。ウインドウの中の家族は葛藤がない、身ぎれいなマネキンの家族と澄み切った秋空は空々しい明るさで通い合っているように思える。『ホームスウィートホーム』(2012)所収。(三宅やよい)




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