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October 22101997

 わが心やさしくなりぬ赤のまま

                           山口青邨

のまま(「赤まんま」「あかまま」などとも)は俗称で、正式には犬蓼(いぬたで)という。中野重治が「歌」という詩で「お前は歌ふな/お前は赤まゝの花やとんぼの羽根を歌ふな」と、自身に抒情を禁じたことでも有名だ。そうはいっても、なんでもない草であるだけに、作者のように心がふとなごむのは人情というものだろう。共感したってバチはあたるまい。重治の戦闘的態度は評価するが、現代社会の詩にはまた別の闘いが必要である。鈴木志郎康のネット版「曲腰徒歩新聞」の最新号(1997年10月19日付)には、あかままの写真に添えて「あかままはこどもの頃の記憶に結びついている。線路の土手という雑草が生い茂った斜面、その中に身を隠すと、目の前にあかままが揺れていた」とある。現代の詩人も、このときとても優しい気持ちになっている。(清水哲男)


September 0792001

 五右衛門風呂の蓋はたつぷり赤のまま

                           大木あまり

城暮石に「ゴム長を穿きてふるさと赤のまま」の一句あり。犬蓼(いぬたで)の花を赤飯になぞらえて「赤のまま」と言った。どこにでも咲いているから、懐しい幼時の記憶と結びつく。あらためて見やると、なんだかほっとするような風情がある。掲句は丹沢での作。これから一番風呂をご馳走になるのだが、いわゆる内風呂ではなくて、母屋から少し離れた場所にある風呂場だろう。まだ表は明るい。風呂場を取り囲むようにして「赤のまま」が揺れており、風呂槽には湯がまんまんと湛えられている。「五右衛門風呂」だけに「蓋はたつぷり」と、浮蓋(うきぶた)の様子でたっぷりの湯を詠んだところが面白い。入る前から、懐しい幸福感に浸っている。まさしくご馳走である。「五右衛門風呂」命名の由来は、石川五右衛門釜茹(かまゆで)の刑から来ているようだ。『東海道中膝栗毛(ひざくりげ)』で、弥次喜多には入り方がわからなかったという話は有名。この風呂が、関西以西に流行っていたことを示している。私の田舎(山口県)でも、全体が鉄製の浴槽が「五右衛門風呂」の名で普及していたが、厳密に言えばこれは「長州風呂」だと、物の本に書いてあった。桶の底である釜だけが鉄製のものを「五右衛門風呂」と呼んだそうだ。『火のいろに』(1985)所収。(清水哲男)


October 06102001

 人なぜか生国を聞く赤のまま

                           大牧 広

が家に遊びに来たドイツ人が、しきりに首をひねっていた。日本人は、なぜ他人の年齢のことを聞くのか。たいていの初対面の人が聞くのだという。「べつに何歳だっていいじゃないか」。「そりゃね、たぶん話題の糸口をみつけたいからだよ」と、私。そういえば、外国人から年齢を尋ねられた覚えはない。逆に、こちらから何歳くらいに見えるかと聞いたことはある。掲句のように、また私たちは相手の「生国(しょうごく)」をよく「聞く」ようだ。とくに意識して聞くことはあまりなく、なんとなく聞いてしまう。やはり「話の接ぎ穂」を探すためではなかろうか。「生国」がたまたま同じだったりすると故郷談義に花を咲かせることができるし、違ったとしても、旅行などで訪れたことがあれば話はつづく。「年齢」や「生国」の話題は、要するに当たり障りなくその場をやり過ごすための方便なのだ。そのあたりが、とくに理屈っぽい話の好きなドイツ人には解せないのだろう。この句の作者は「『生国』なんて、どうでもいいじゃないか」と言っているのではない。作者自身が聞くことも含めて、「なぜかなあ」と思っているだけだ。目に写っているのは、北海道から九州まで、どこの路傍で咲いても同じ風情の「赤のまま(犬蓼)」。人だって同じようなものなのになあ、と。『午後』所収。(清水哲男)


August 2982005

 石段に初恋はまだ赤のまま

                           つぶやく堂やんま

語は「赤のまま」で秋、粒状の紅色の花を赤飯(赤の「飯」)になぞらえた命名だ。「犬蓼(いぬたで)」に分類。今年も「石段」の周辺に、「赤のまま」が咲く季節になった。神社か寺院かに通じている道だろう。昔ながらに風に揺れている「赤のまま」を見ていると,往時の初恋の思い出が懐かしくも鮮明によみがえってくる。その鮮明さを表現するのに、「赤のまま」の「まま」を「飯」ではなく、「儘」と洒落たわけだ。恋ゆえに、赤い記憶が冴えてくる。初恋の相手が当時の「まま」に、いまにも石段を下りてきそうではないか。むろん相手のこともそうだけれど、純情だったころの自分のことをもまた、作者はいとおしく思い出しているのである。言葉遊びが仕掛けられているが,無理の無い運びが素敵だ。私の「赤のまま」の記憶は,次の歌に込められている。「♪小鳥さえずる森陰過ぎて、丘にのぼれば見える海、晴れた潮路にけむり一筋、今日もゆくゆくアメリカ通いの白い船」。中学一年のときの学芸会で,憧れの最上級生がうたった歌だ。おそらくそのころの流行歌だろうと思われるが、タイトルは知らない。だが、半世紀以上経ったいまでもこのように歌詞を覚えているし,節をつけてちゃんと最後まで歌える。丘にのぼったって海など見えっこない山奥の村には、どこまでも「赤のまま」の道がつづいているばかりなのであった。『つぶやっ句 龍釣りに』(2005・私家版)所収。(清水哲男)


October 16102007

 海底に水の湧きゐる良夜かな

                           上田禎子

秋の名月から月の満ち欠けがひと回りする頃になると、空気はぐっと引き締まり、月もやわらかなカスタード色から、薄荷の味がしそうな光になってくる。美しい月の光に照らされているものの姿を思い描くとき、海のおもてや、波間に思いを寄せることはできても、掲句はさらに奥へ奥へと気持ちを深めて、とうとう海底に水の湧くひとところまで到達した。そこは水の星のみなもと。見上げれば、はるか海面が月の光を得て薄々ときらめき、さらに天上には本物の月が輝いている。ふたつの天を持つ海底に、ふらつく足で立っているような不思議な気持ちになってくる。実際の海底では、真水が湧く場所というのは非常にまれだが、富山湾には立山連峰に降った雨や雪が地下水となって、長い年月をかけて海底から湧いている場所があるそうだ。映像では、山の滋養が海に溶け出す水域はごろごろと岩が重なる様子から一転し、水草の生い茂る草原のようになっていた。海底から湧く水に水草がふさふさとなびき、さながら海の底が歌っているようだった。今夜も歌われているに違いない海底の歌声に、静かに耳を傾ける。〈少年を見舞ふ車座赤のまま〉〈鳥の巣の流れてゆけり冬隣〉『二藍』(2007)所収。(土肥あき子)


August 1882014

 水を出しものしづまりぬ赤のまま

                           矢島渚男

リラ豪雨というそうだが、この夏も各地が激しい雨に見舞われた。山口県の私の故郷にも大量の雨が降り、思いがけぬ故郷の光景をテレビで眺めることになったのだった。ただテレビの弱点は、すさまじい洪水の間の様子を映し出しはするものの、おさまってしまえば何も報じてくれないところだ。句にそくしていえば「しずまりぬ」様子をこそ見たいのに、そういうところはニュース価値がないので、切り捨てられてしまう。「水を出し」の主体は、私たちの生きている自然環境そのものだろう。平素はたいした変化も起こさないが、あるときは災害につながる洪水をもたらし、またあるときは生命を危機に追い込むほどの気温の乱高下を引き起こしたりする。だがそれも一時的な現象であって、ひとたび起きた天変地異もしずまってしまえば、また何事もなかったような環境に落ち着く。その何事もなかった様子の象徴が、句では「赤のまま」として提出されている。どこにでも生えている平凡な植物だけれど、その平凡さが実にありがたい存在として、風に吹かれているのである。それにつけても、故郷の水害跡はどうなっているだろうか。農作物への被害は甚大だったろうが、せめていつもの秋のように、風景だけでも平凡なそれに戻っていてほしい。あの道々やあの低い丘の辺に、いつものようにいつもの「赤のまま」が、いつもの風に吹かれていてほしいと、切に願う。『延年』(2003)所収。(清水哲男)


September 0792015

 水を出しものしづまりぬ赤のまま

                           矢島渚男

の夏の日本列島も激しい雨に襲われた。山口県の私の故郷にも大量の雨が降り、思いがけぬ故郷の光景をテレビで眺めることになったのだった。ただテレビの弱点は、すさまじい洪水の間の様子を映し出しはするものの、おさまってしまえば何も報じてくれないところだ。句にそくしていえば「しずまりぬ」様子をこそ見たいのに、そういうところはニュース価値がないので、切り捨てられてしまう。そんな経験をしたせいで、この秋は掲句がとりわけて身にしみる。「水を出し」の主体は、私たちの生きている自然環境そのものだろう。平素はたいした変化も起こさないが、あるときは災害につながる洪水をもたらし、またあるときは生命を危機に追い込むほどの気温の乱高下を引き起こしたりする。だがそれも一時的な現象であって、ひとたび起きた天変地異もしずまってしまえば、また何事もなかったような環境に落ち着く。その何事もなかった様子の象徴が、句では「赤のまま」として提出されている。どこにでも生えている平凡な植物だけれど、その平凡さが実にありがたい存在として、風に吹かれているのである。『延年』所収。(清水哲男)




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