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October 03101997

 登高ののぼりつめればラーメン屋

                           大野朱香

野朱香さんは1955年生れの女流俳人。「これはもう裸といえる水着かな」という句で知られる。亡き江國滋さんが『微苦笑俳句コレクション』に何句も採っているのもうなずける。江國さん、好きだったんだ。私も好きな俳人です。「登高(とうこう)」は秋の季語。もともとは重陽の節句に、文人が高きに登って詩を詠じた故事をいう。最近は秋の気候の良い頃のハイキング気分の語となっている。その坂道ののぼりつめたところがラーメン屋だったんだ。なんだ、なんだ、といいながら、それでも食べるラーメンは、きっと美味しいだろうなあ。(井川博年)


July 1672000

 あらはなる脳うつくしき水着かな

                           高山れおな

小限の衣服とも呼ぶべき「ビキニ」。それを身につけた状態は「肌もあらはに」という言葉の領域をはるかに越えている。「これはもう裸といえる水着かな」(大野朱香)だとすれば、どんな具合に形容すればよいのだろうか。いささかの皮肉をまじえて、作者は「脳もあらはに」とやってみた。言い当てて妙と私は支持したいが、どうだろう。この水着について「最初の水爆が投下された三平方キロの小島が、ついに到達したぎりぎり最小限の衣服と同じくビキニという名であることは、充分考慮に値する。いささか不気味なウイットである」と書いたのは、ヘルマン・シュライバーというドイツ人だった(『羞恥心の文化史』関楠生訳)。彼によれば、ベルリンの内務省は1932年に次のような警告を発している。「女子が公開の場で水浴することを許されるのは、上半身の前面において胸と体を完全に覆い、両腕の下に密着し、両脚の端の部分を切り落とし、三角形の補布をあてた水着を着用する場合にかぎられる。水着の背のあきは、肩甲骨の下端を越えてはならない……いわゆる家族浴場においては、男子は水着(すなわちパンツと上の部分)を着用することを要する」。この警告からビキニの世界的な普及までには、三十年程度しかかからなかった。ビキニは、二十世紀文化を「脳もあらはに」象徴する記念碑的衣服の一つということになる。俳誌「豈」(32号・2000年5月)所載。(清水哲男)


June 1262004

 鶏小屋の近くに吊す水着かな

                           藺草慶子

し早いが、海辺の民宿の図を。夕暮れ時だ。泳ぎ終えて民宿に引き揚げ、洗った水着を干している。いや、きちんと干すのではなく、ただ「吊す」だけのことだ。そして、そこは「鶏小屋」の近くだった。景としてはこれで全てだが、言外にある心理状態はそんなに単純ではない。図式化すれば、水着が非日常的な生活の側面を表しているのに対して、鶏小屋は反対に生活の日常的な部分を示している。つまり作者は何の気なしに非日常を日常の場所に持ち込んでしまったわけで、こういうときに人の心は微妙に揺れるのである。民宿を営んでいるその家の、夏場以外の日常のありようをふっとかいま見てしまったような、あるいは見てはいけないものを見てしまったような……。この鶏小屋は、客に新鮮な卵を提供するためにあるのではなく、家族の食卓のためにあるのだ。鶏小屋独特のむっとするような臭いの傍で、こういうところに遊びに来ている自分が、ちらりと申し訳ないような気持ちになったかもしれない。そっちは商売なんだし、こっちは客なんだから。リゾートホテルならそうも言えるが、民宿ではこの理屈は通しにくいのである。鶏小屋の存在を知ってしまった以上、宿の人との会話にも影響が出てくる。私も何度も民宿の厄介になったことがあるけれど、鶏小屋に当たったことはないにせよ、その家の思わぬ日常性に出会わなかったことはない。とくに小さな子供がいたりすると、日常性の露出度は高くなるから、苦手であった。掲句は、そんな民宿のありようをシンプルな取り合わせで捉えていて、その巧みさに膝を打ちたい思いで読んだ。『遠き木』(2003)所収。(清水哲男)


July 2872004

 水着の背白日よりも白き娘よ

                           粟津松彩子

ルコム・カウリー(アメリカの詩人、文芸評論家、編集者)著『八十路から眺めれば』(小笠原豊樹訳・草思社)は、老いを考えるうえでなかなかに興味深い本だ。文字通り八十歳を過ぎてから書かれていて、冒頭近くに「老いを告げる肉体からのメッセージ一覧」というリストが載っている。「骨に痛みを感じるとき」「昼下がりに眠気が襲ってきたとき」などに混じって、「美しい女性と街ですれちがっても振り返らなくなったとき」があげられている。つまり、異性への性的な関心が無くなってしまったことを、意識ではなく肉体が告げるときが来るということのようだ。カウリーに言わせれば、私のような六十代などはまだまだ「少年少女」の部類らしいから、こういうことはわからないままに過ごしていられる。「美しい女性」とは認めても、ちらとも肉体が反応しないのはショックなのだろうか、それともそのことにすら驚かなくなるのだろうか。掲句はまさに作者八十路での作句であるが、なんとなくカウリーと同じことを言っているような気がする。「白日よりも白き」背中の娘(こ)に、格別性的な関心を覚えてはいないようだからだ。ただ、水着姿の真っ白い背中がそこに見えた。一瞬目を奪われるが、それだけである。おそらく「白日よりも」という無表情な比喩が、この若い女性から色気を抜き去る方向に作用しているからだろう。『あめつち』(2002)所収。(清水哲男)


July 1372010

 白玉にゑくぼをつけてゐるところ

                           小林苑を

玉とは、米からできた白玉粉で作る団子のこと。真珠をさす白玉という言葉が使われたこの美しい団子は、平安時代には汚れのない白さが尊ばれ、宗教上の供物として使われていた。作り方は単純明快。1)白玉粉を同量の水でこね、2)手のひらの上でくるくると丸め、3)たっぷりのお湯に投入し、4)浮き上がってしばらくしたら引きあげる。掲句は、団子に火を通しやすくするため、十円玉くらいに丸めた白玉に指の腹で窪みをつける2の手順における作業である。これが単なる段取りに映らないのは、前述の供物的な背景が影響しているわけでもなく、ただひたすらその純白な姿かたちの愛らしさに共鳴するものである。熱湯から引きあげられた白玉は、氷水に放たれ目の前でみるみる冷えていく。手のひらの上で生まれ、指の腹でやさしく刻印されたゑくぼを持つこの菓子のおだやかな喉越しは、夏負けの身体を内側から静かな涼気で満たしてくれる。〈蟻穴を出てもう一度穴に入る〉〈爪先を立てて水着を脱ぎにけり〉『点る』(2010)所収。(土肥あき子)


November 23112010

 襟巻のうしろは闇の中なりし

                           高倉和子

ード付きのコートを脱いで、なんの気なしにハンガーに掛けようとしたとき、うしろに垂らしたフードからふわっと冷たい空気が流れてきて驚いたことがあった。襟元をかき合わせたり、火があれば手をかざしたり、なにかにつけいたわっている身体の前面と違い、冷気にさらされ放題の背面の存在を意識させたできごとだった。わが身の背後に放り出され、しんしんと冷えていたもの。襟巻きでも同様だろう。首という身体のどこよりも華奢なところに巻き付けるものであるだけに、その先が無防備に闇の中に放り出されている図は、なんともあやうくあぶなっかしい。掲句の「うしろ」とは、単なる場所を意味するだけでなく、背後に広がる空間という不安の象徴としても存在する。暗がりのなかでずっと揺れ続けていたと思うと、その冷えきった襟巻きの尻尾の部分がやけにさみしく、また愛おしく思えるのだった。〈ふるさとに居れば娘や福寿草〉〈汀長し胸より乾く海水着〉『夜のプール』(2010)所収。(土肥あき子)


May 1552012

 縦書きの詩を愛すなり五月の木

                           小池康生

がものを伝うのを見て、あるいは花や葉が風に舞い落ちるのを眺め、人は文字を縦書きに書くことを思いついたのではないか。視線を上から下へおろすことは、人間の両目の配置からして不自然なことだそうで、横書きの文章の方が早く理解できるといわれる。しかし、ものを縦になぞることには、引力のならいでもある安心感がある。パソコンに向かっていると横書きに見慣れ、常に目は左から右ばかりに移動する。紙面の美しい縦書きを追うことは、目のごちそうとも思える。立夏から梅雨に入るまでのひととき、木々は瑞々しく茂り、雲は美しく流れる。青葉に縁取られた五月の木の健やかさのもとでは、やはり縦書きの文字を追いたいと、目が欲するのではないか。一年のなかでも特別美しい月である五月に、目にもたっぷりとごちそうをふるまってあげたい。〈ペン先を湯に浸しおく青嵐〉〈家族とは濡れし水着の一緒くた〉『旧の渚』(2012)所収。(土肥あき子)


May 1052013

 蜘蛛の子の散りたる後の蜘蛛と月

                           加藤楸邨

じ号の楸邨発表句に「すれちがふ水着少女に樹の匂ひ」がありそちらの方に眼を取られてこの句を見過ごしていたのだった。この句、子に去られたあとの親蜘蛛に思いを致している。蜘蛛に感情などあろうはずもない。子を産み育てるのは本能だ。しかし、子がたくさん去ったあとの親蜘蛛の孤独がこの句のテーマ。蜘蛛をおぞましい対象として捉える「通念」への抵抗も感じられる。「もののあはれ」とはこういうことなんだろうなとあらためて思った。「寒雷・350号記念号」(1962)所載。(今井 聖)


June 1062014

 サイダーや泡のあはひに泡生まれ

                           柳生正名

国清涼飲料工業会が提供する「清涼飲料水の歴史」によると、日本に炭酸飲料が伝えられたのは1853年、ペリー提督が艦に積んでいた炭酸レモネードを幕府の役人にふるまったことから始まる。その際、栓を抜いたときの音と吹き出す泡で新式銃と間違えた役人が思わず腰の刀に手をかけたという記述が残る。その後、喉ごしや清涼感が好まれたことで一般に広く普及した。掲句ではかつての役人が肝を冷やした気泡に注目する。それは表面に弾ける泡ではなく、コップのなかで生まれる泡の状態を見つめる。泡はヴィーナス誕生の美しさとともにうたかたであることのあわれをまとい、途切れなく、そして徐々に静まっていく。〈切腹に作法空蝉すぐ固く〉〈少年も脱いだ水着も裏返る〉『風媒』(2014)所収。(土肥あき子)


July 3172014

 家族とは濡れし水着の一緒くた

                           小池康生

かに。もう行くことはなくなったけど家族で海水浴やプールに出かけてぐしょぐしょになった水着を一緒くたにビニール袋に入れて持ち帰った。からんだ水着をほぐして洗濯機に入れて洗うのが主婦である私の仕事だった。びしょぬれになった水着の絡まり具合は「家族」と定義するのにふさわしい。家族の間で交錯する感情の絡みとごたごたを象徴していると言ってもいい。物々しい出だしに対して「一緒くた」とくだけた物言いで収めたことで句の親近感がぐっと増す。一緒くたになった水着を一枚ずつほぐして洗い、洗い上がった水着を形を整えながら干してゆくこと。遠い夏の日には何とも思わなかった作業が、水の匂いと共に懐かしく思い出される。『旧の渚』(2012)所収。(三宅やよい)


June 2262015

 同じ女がいろんな水着を着るチラシ

                           北大路翼

ざめである。チラシを見るのが男である場合には、べつに水着のあれこれを比較するわけじゃない。したがって、「なあんだい」ということになる。けれども、かつて広告などの小さなプロダクションで働いた身には、なんとも切ない読後感が残る。要するにモデルを何人も雇う資金的余裕がないので、同じ女性を使いまわすことになってしまう。これが一流のモデルであったら話は別なのだけれど、哀しいかな、声をかけられるモデルの質には限界がある。つまりは貧すれば鈍するとなる理屈で、チラシの製作段階から仕上がりのみじめさが読めてしまうのだから、どうしようもない。この句を読んで、そんな若き日の苦い感情を思い出した。この句の作者には、いわば全焦点レンズで押さえたスナップ写真のような作品が多い。それがしばしば奇妙な味つけとなる。『天使の涎』(2015)所収。(清水哲男)




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