August 3181997

 平凡に咲ける朝顔の花を愛す

                           日野草城

れこそ「平凡」な句でしかないだろう。「草城」という署名があるのが不思議なくらいだ。しかし、草城晩年のこの句は、だからこそ人間の表現行為の行方というものを深く考えさせる。若き日の才気煥発ぶりはすっかり影をひそめて、ここにはただ凡庸な表現者がよろけるようにして立っているだけだ。長い病臥の生活、そして片眼の光を失うという不運。かつて山本健吉は、晩年の草城句について「無技巧の技巧と言ってもよいが、それは拙いのではなくて、飽くまでも才人草城が到達した至境なのである」と、暖かい言葉で解説したことがある。そのようなときがあるとしたら、私もたぶんそうするだろう。が、これは本当に「才人草城が到達した至境」なのであろうか。ささやかな表現者でしかない私だけれど、しばしこの句の前で立ち止ってしまうほどの衝撃を受けた。『人生の午後』所収。(清水哲男)




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