G黷ェフ秋句

August 2681997

 俎板を立てゝ水切る夜の秋

                           池上不二子

の夜ではない。昼の間はまだ暑くても、夜になるとどことなく秋の気配が感じられる。それが「夜の秋」。作者は、洗い物の最後に俎板(まないた)をていねいに洗って水を切る。立てて水を切るのは時々することだが、今夜はそれを意識的にやったという句意だろう。秋の気配に対応して、しゃきっとした気分になりたかったからだ。窓を開ければ草叢で、たぶん秋の虫が鳴き始めている……。(清水哲男)


August 1982001

 それぞれの窓に子がみえ夜は秋

                           小倉涌史

者は「夜は秋」と詠んでいるが、季語の分類としては「夜の秋」。秋の夜ではない。晩夏などに、どことなく秋めいた感じのする夜のことである。したがって、夏の季語。暦的にではなく、気分としてはちょうど今頃の季節だろう。団地かマンションか、たくさんの「窓」のある集合住宅を何気なく仰ぐと、風を入れるために開け放たれている「それぞれの窓」に、子供の姿が見える。全部の窓に見えるわけではないが、思いがけないほどに、あの窓にもこの窓にも見えたのである。子供が起きているのだから、まだ宵のうちだ。理屈を述べれば、なべて子供は活力の象徴だから、衰えていく夏の活力に抗するように「それぞれの窓」に元気がみなぎっていることを、作者は素朴に喜んでいる。理屈をはずせば「ああ、子供って素敵だなあ」であり、「家族っていいなあ」である。あえて「夜の秋」と取り澄ました歳時記的な措辞を避け、思わずもという感じで「夜は秋」とつぶやいたところに、作者の静かな染み入るような喜びの情感が浮かび上がった。やがて、本格的な秋がやってくる。そうなると、「それぞれの窓」は固く閉められ、しかもカーテンで覆われて、子供らの姿も消えてしまう。その予感を孕んでいるからこそ、なおのこと句が生きてくるのだ。『受洗せり』(1999)所収。(清水哲男)


August 0782007

 水銀の玉散らばりし夜の秋

                           佐藤郁良

の夜にどことなく秋めいた感じを受けることを「夜の秋」と称する。もともとが個人の受ける「感じ」が主体であるので、しからばそれをどのように表現するかが勝負である。歳時記の例句を見ると長谷川かな女の〈西鶴の女みな死ぬ夜の秋〉、岡本眸の〈卓に組む十指もの言ふ夜の秋〉などが目を引く。どちらも無常を遠くに匂わせ、移ろう季節に重ねるような背景である。一方、掲句は目の前の様子だけを言ってのけている。しかも、体温計をうっかり割って、水銀が一面に散らばってしまうというのだから、その様子はたいへん危険なものだ。水銀が有毒であることは充分理解しつつも、その玉の美しさ、おそるおそる爪先で寄せればひとつひとつがふつりとくっつき合う様子は不思議な魅力に満ちている。多くの経験者には、この液体である金属の持つあやしい状景がはっと頭に浮かぶのではないだろうか。そして、それがまことにひやっとした夜の感触をうまく呼び寄せている。『海図』(2007)所収。(土肥あき子)


August 0782008

 膝に乗る黒猫の愚図夜の秋

                           坪内稔典

になると昼の暑さが遠のき一足先に秋が到着したように涼やかな夜風が吹き抜けてゆく。今日から暦のうえでは「秋」に移行するわけだけど、とりわけこの頃の季感にこの季語が似つかわしく思われる。日中は毛だらけの猫がそばに寄ってくるだけでも疎ましいが、そよそよと吹く風に汗もひき、ふと膝に寂しさを覚えるとき、座り込んでくる猫の重みもうれしい。俊敏な動きの猫の名が「愚図」というのも面白いが、「黒」と「愚」の字の並びにたっぷりとした夜の闇が猫に化身したごとき不思議が感じられる。出だしの「膝」と結語「秋」のイ音がくぐもった音を連続させた全体の調子を引き締めている。「ほかのあらゆる類似の言葉を拒んでその特別に選ばれた言葉どおりくりかえし口誦されることを望んでいる」とは高柳重信の言葉だが、リズミカルな口誦性とイメージの豊かさはこの作者のどの句にも共通する特色だろう。『京の季語・夏』(1998・光村推古書院)所載。(三宅やよい)


July 2272011

 灯すや文字の驚く夜の秋

                           坊城俊樹

想新鮮。灯を点けたら文字が驚いた。この「や」は切れ字だが、何々するや否やの「や」でもある。作者は虚子の曾孫。作風もまた虚子正系を以って任じ「花鳥諷詠」の真骨頂を目指す。僕は俊樹作品から諧謔、洒脱、諷詠、風狂といった「俳句趣味」を感じたことがない。守旧的趣きの季語やら情緒やらを掘り起こしそれを現代の眼で洗い直してリサイクルさせようとする姿勢を感じるものである。たとえばこの一句のように。『零』(1998)所収。(今井 聖)


July 1372013

 まみゆるは易し涼風ある限り

                           上迫和海

松遊子に〈涼しさは淋しさに似て夜の秋〉があるが、涼し、と、淋し、はどこか通じるものがある気がする。涼風の中にいるとき人は、なんとなく遠い目をしてそこに身をゆだねる。心地よい中に、どこか遠くへ誘われるような心地がするからだろうか。掲出句、作者にどんな思い出があるのかはわからないが、深い哀悼の心と愛情、穏やかな中に静かな決意のようなものも感じられる。二度と会うことはできないけれど、ここに来てこうして涼風の中にいると、その人の声が聞こえるような気がしてくるのだ。涼風の一つの姿がそこにある。『句集 四十九』(2012)所収。(今井肖子)




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