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August 1581997

 戦終る児等よ机下より這い出でよ

                           渡辺桐花

戦の日。生き残った人々は、その日をどう捉えたのか。塩田丸男編『十七文字の禁じられた想い』(講談社・1995)という妙なタイトルの本に、敗戦に際しての感慨句が多数収められている。掲句は、当時国民学校の教師だった人のもの。「戦」は「いくさ」と読ませる。敵機襲来の警報が出ると、教師はとりあえず子供たちを机の下にもぐらせた。そんな子供等に、もう空襲の心配はなくなったから、みんな出てきていいのだよと呼びかけている。とはいえ、これは現実の場面での声ではない。敗けた日は夏休みの最中であり、授業はなかった。塩田丸男の註記によれば、作者の教え子のうち成人した者の多くは戦地に赴いていたという。つまり、この声はそういう教え子たちにむかって発せられている。届くはずもない声が、虚しくも悲痛に発せられている。他に、この本より三句。「ラジオ掴んで父が嗚咽す油照り」(片山桃弓)。「吾が遺書を吾が手もて焼く終戦日」(高橋保夫)と、これは特攻隊員の句。なかに「娘サイパン島にて親戚一家と自決。十三歳」という前書のある句があって、図書館で書き写すのがつらかった。「自決せし娘は十三の青林檎」(小野幸子)。合掌。(清水哲男)


August 0581998

 縛されて念力光る兜虫

                           秋元不死男

虫をつかまえてくると、身体に糸を結び付けてマッチ箱などを引っ張らせて遊んだ。昔の子供にとっては夏休みの楽しみのひとつだったが、作者からすれば兜虫は「縛されて」いるのであり、文字通りに五分の魂を発揮して、こんなことでくじけてたまるかという念力の火だるまのように見えている。弱者への強い愛情の目が光っている。これだけでも鋭い句だが、ここに作者の閲歴を重ね合わせて読むと、さらに深みが増してくる。秋元不死男は、戦前に東京三(ひがし・きょうぞう)の名前で新興俳句の若手として活躍中に、治安維持法違反の疑いで投獄された過去を持つ。したがってこの句は、当時の自分自身や仲間たちの姿にも擬せられているというわけだ。戦後は有季定型に回帰して脚光を浴びたのだが、没後(1977没)の評価はなぜかパッとしない。なかには「不孝な転向者」という人もいるほどだ。そうだろうか。この句や「カチカチと義足の歩幅八・一五」などを読むかぎりでは、有季定型のなかでも社会のありようへの批評精神は健在だと読めるのだが……。『万座』所収。(清水哲男)


August 1581999

 敗戦の前後の綺羅の米恋し

                           三橋敏雄

スコミなどでは、呑気に「終戦記念日」などと言う。なぜ、まるで他人事みたいに言うのか。まごうかたなく、この国は戦争に敗れたのである。敗戦の日の作者は二十五歳。横須賀の海軍工機学校第一分隊で、その日をむかえた。句が作られたのは、戦後三十年を経た頃なので、かつての飢餓の記憶も薄れている。飽食の時代への入り口くらいの時期か。それが突然、敗戦前後に食べた「綺羅(きら)の米」が恋しくなった。「綺羅」は、当時の言葉で白米のことを「銀シャリ」と言っていたので、それを踏まえているのだろう。なかなかお目にかかれなかった「銀シャリ」のまぶしさ、そして美味しさ。いまの自分は、毎日白米を食べてはいるが、当時のそれとはどこか違う。輝きが違う。あの感動を、もう一度味わいたい。飢餓に苦しんだ世代ならではの作品だ。若き日の三橋敏雄には、他に戦争を詠んだ無季の佳句がいくつもある。「酒を呑み酔ふに至らざる突撃」「隊伍の兵ふりむきざまの記録映画」「夜目に燃え商館の内撃たれたり」など。『三橋敏雄全句集』(1982)所収。(清水哲男)


August 1582001

 森の黙に星座集いて敗戦忌

                           酒井弘司

た、八月十五日がめぐってきた。もう五十六回目だもの、「また」はふっと吐息のように出てきた実感である。今年は、同世代の酒井弘司(1938-)に登場してもらおう。十代の作品だ。図式を描いてしまえば、「森の黙」とは生き残って地上にある我らの沈黙であり、集う天の「星座」は亡くなられた方々を象徴している。すなわち、生きて残った者に死んだ者が寄り添うかたちで、今日という日が記録されている。普通は逆だ。肩に手を置くのは生き残った者であるべきだが、句では死者のほうから集まってきてくれている。理不尽に殺された人たちが、どうしてそんなに優しくあることができるのか……。この思いから、生き残った者たちにじわりと湧き上がってくるのは、やはり戦争への哀しみと憎しみである。そして作者は、今日という日を「敗戦忌」と呼ぶ。この呼称は、日本の歴史にとっての重要なポイントだ。公的には「終戦記念日」と言うようだが、私は作者とともに「敗戦忌」ないしは「敗戦日」と言いつづけてきた。「終戦」にはちがいなくとも、敗れた事実を曖昧にしてはならない。その意味で、むしろこの句の眼目は、十代の若者が公的なまやかしに抗して「敗戦忌」と言い切っているところにこそあるのだと、私は思いたい。そう思うのが、死者に対するせめてもの礼節である。『蝶の森』(1961)所収。(清水哲男)


August 1582002

 終戦日ノモンハン耳鳴りけふも診る

                           佐竹 泰

戦の日がめぐってきた。今日という日に思うことは、どれをとっても心に重い。その思いを数々の人が語り書きついできており、俳句の数だけでも膨大である。歳時記のページを開くと、一句一句の前で立ち止まることになる。そんなページに掲句を見つけて、はっとした。もしかすると、この句の情景は終戦日当日のそれであったのかもしれないと思ったからだ。むろん当日には「終戦日」という季語はないのだから、実際には何年かを経て詠まれたのだろう。が、詠んだ情景が戦争に敗けた日のことだとするならば、より感動は深まる。あの日は正午から玉音放送があるというので、仕事どころではなかった人が大半だったはずだ。しかし一方で、仕事を休むわけにはいかない人々もいた。作者のような医者も、その一人だ。世の中に何が起きようとも、待っている患者がいるかぎり、診察室を閉じるわけにはいかない。だから、この日もいつものように診察したのである。しかも患者は、ノモンハン参戦で耳鳴りが止まらなくなった人だ。難聴の人にとって、玉音放送などは無縁である。ノモンハン事件は、1939年(昭和十四年)5月から9月にかけて、満州(中国東北)とモンゴルの国境ノモンハンで起こった日ソ両軍の国境紛争だった。日本は関東軍1万5千名を動員したが、8月ソ連空軍・機械化部隊の反撃によって壊滅的打撃を受けた。事件から六年を経て、なおこの人は後遺症に苦しんでいたことになる。さりげない句のようだが、戦争の悲惨を低い声でしっかりと告発している。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


August 1582003

 玉音を理解せし者前に出よ

                           渡辺白泉

書に「函館黒潮部隊分遣隊」とある。いわゆる季語はないが、しかし、この句を無季句に分類するわけにはいかない。「玉音」放送が1945年(昭和二十年)八月十五日正午より放送された歴史的なプログラムであった以上、季節は歴然としている。天皇は「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」云々と文語文を読み上げたのだから、すっと「理解」するには難しかった。加えて当時のラジオはきわめて感度が悪く、多くの人が正直なところよく聞き取れなかったと証言している。なかには、天皇が国民に「もっと頑張れ」と檄を飛ばしたのだと誤解した人さえいたという。句の「理解」が、どんなレベルでのそれを指しているのか不明ではあるけれど、作者の怒りは真っすぐに直属の上官たちに向けられている。すべての下士官がそうではなかったにせよ、彼らの目に余る横暴ぶりはつとに伝えられているところだ。何かにつけて、横列に整列させては「前に出よ」である。軍隊ばかりではなく、子供の学校でも、これを班長とやらがやっていた。前に出た者は殴られる。誰も出ないと、全員同罪でみなが殴られる。特攻志願も「前に出よ」だったと聞くが、殴られはしないが死なねばならぬ。いずれにしても、天皇陛下の名においての「前へ出よ」なのであった。作者はそんな上官に向けて、天皇の威光を散々ふりかざしてきたお前らよ、ならば玉音放送も理解できたはずだろう。だったら、今度は即刻、お前らこそ「前に出よ」「出て説明してみやがれ」と啖呵を切っているのだ。この句を、放送を理解できなかった上官が、いつもの調子で部下を脅している情景と読み、皮肉たっぶりの句ととらえる人もいる。が、私は採らない。そんなに軽い調子のものではない。句は、怒りにぶるぶると震えている。『渡辺白泉句集』(1975)所収。(清水哲男)


August 1582004

 堪ふる事いまは暑のみや終戦日

                           及川 貞

争が終わったから平和が訪れたからといって、その日から「堪ふる事」が消滅したわけではない。生き残った者にとっては、戦後こそが苦しかったと言うべきか。平和を謳歌できるような生活基盤などなかったので、多くの人々が忍耐の日々を重ねていった。この句は、戦後も二十年を経てからの作句で、ようよう作者はここまでの心境にたどり着いている。たどり着いてみれば、しかし若さは既に失われ、往時茫々の感もわいてくる。作者の本音を訪ねれば、この暑中、何をまた語るべきの心境であるのかもしれない。『夕焼』(1967)所収。(清水哲男)


August 1582005

 終戦日父の日記にわが名あり

                           比田誠子

語は「終戦(記念)日」で秋。あの日から,もう六十年が経過した。そのときの作者は四歳で、父親はまだ三十代の壮年であった。当然,作者に八月十五日の具体的な記憶はないだろう。父親の日記を通して,その日の様子を知るのみである。どのように「わが名」が書かれているのか。読者にはわからないが、大日本帝国が敗北するという信じられない現実を前に茫然としつつも,しかし真っ先に小さい我が子や家族のことを思った彼の心情は、ひとり彼のみならず、多くの父親に共通するそれだったに違いない。これで、とにかく生き延びられるのだ。ほっとすると同時に,前途への不安は覆い隠しようも無い。戦時中から食糧難は悪化の一途をたどっていたので、明日はおろか今日の食事をどうやって切り抜けたらよいのかすらも、思案のうちなのであった。戦争が終わっても,気休めになる材料は何一つなかったのである。そんななかで、日記に我が子の名を記すときの父親の思いは,たとえ備忘録程度の記述ではあっても,胸が張り裂けんばかりであったろう。そしてその父の思いを,何十年かの歳月を隔てて,作者である娘が知ることになる。すなわち、敗戦の日のことがこうして再び生々しく蘇ってきたというわけだ。もう一句、「我が子の名わからぬ父へつくしんぼ」。苦労するためにだけ生まれてきたような世代への、作者精一杯の鎮魂の句と読んだ。『朱房』(2004)所収。(清水哲男)


August 1582007

 敗戦の日の夏の皿いまも清し

                           三橋敏雄

日八月十五日は「敗戦の日」。あれは「終戦(戦いの終わり)」などではなかった。昭和二十年のこの日がどういう日であるか、知らない若者が今や少なくない。若者どころか、十年近く前に、この日を知らない七十歳に近い女性に会って仰天したことがある。「八月六日」や「八月九日」を知らないニッポン人は、さらに全国で増えている。敗戦の日の暑さや空の青さについては、あちこちで語られたり書かれたりしてきたが、ここで敏雄の前には一枚の皿が置かれている。おそらくからっぽの白っぽい皿にちがいない。それは自分の心のからっぽでもあったと思われる。皿はせつないほどに空白のまま、しかも割れることなく消えることなく、いつまでも自分のなかに存在しつづけている。皿は時を刻まず、新たにごちそうを盛ることもない。悲しいまでに濁りなく清々しい。「清し」には「潔(いさぎよ)い」という意味もある。万事に潔くないことが堂々とまかり通っている昨今を思う。「清し」という言葉には、八月十五日の敏雄の万感がこめられていただろう。敏雄は句集『まぼろしの鱶』(1966)の後記にこう書いている、「敗戦を境に、世の新たな混乱はまた煩憂を深くさせた」と。「いまも清し」という結句をその言葉に重ねてみたい思いに駆られる。この国/私たちは現在、この「皿」に見掛け倒しの濁った怪しげなものをあからさまに盛りつけようとしてはいないか? 冗談ではなくて、私には「皿」の文字が「血」にも見えたりする。掲出句とならんで、よく知られている句「手をあげて此世の友は来りけり」も収められている。『巡禮』(1979)所収。(八木忠栄)


August 1582009

 人棲まぬ島にもみ霊敗戦忌

                           松本泊舟

日という日もこの句も、言わずもがな、だろう。棲、という文字が語る、太平洋上の名もない島に眠る戦没者への鎮魂の心は、戦争を体感していない者にも伝わってくる。季題として考える時、終戦の日か敗戦の日か、戦争体験世代の意見はさまざまのようだ。だいたい終戦記念日というのはおかしいのでは、いや後世まで忘れない、という意味で記念なのだからいいのだ等も。この句の場合、敗戦忌。終戦忌、敗戦忌は俳人による造語、というが、掲出句は『文学忌俳句歳時記 大野雑草子編』(2007・博友社)に載っていた。文人の忌日をまとめた歳時記なのだが、そこに、個人の忌日に混ざって、原爆忌(広島忌)、長崎忌(浦上忌)、終戦記念日(終戦忌・敗戦忌)が立てられている。数々の個人の忌日同様、忘れることなく詠み継いでいって欲しい、という編者の祈りにも似た願いが感じられる。(今井肖子)


August 1582010

 終戦日妻子入れむと風呂洗ふ

                           秋元不死男

たしが生まれたのは1950年8月。終戦から5年後になります。それでも小さなころから、自分の誕生日の近くになにか特別な記念日があるのだなと意識をしていました。「いつまでもいつも八月十五日」(綾部仁喜)という句にもあるように、いまだに毎年のようにテレビでは、終戦の日に皇居の前にひざまずく人たちの姿が映し出され、昭和天皇の肉声を聞くことになります。終戦の年に生まれた人もすでに65歳、となれば戦争をじかに経験した記憶のある人は、すでに70歳を超えていることになります。しかし、そんな年齢の計算を度外視しても、国としての記憶が、たしかにわたしの中にもしっかりと根付いています。今日の句が詠んでいるのは、終戦日に風呂を洗っている日常のありきたりな図ですが、「妻子をいれむ」の心の向け方が、生きることのかけがえのなさを表現しています。だれかのために何かをしてあげられることの幸福は、だれも奪ってはいけないと、あらためて思うわけです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 1582011

 生きてゐる負目八月十五日

                           志賀重介

戦の日に七歳の子供だった私にも、多少の負目はある。数々の空襲で死んでいった同世代の子供らのことを思うからである。ましてや作者のように既に大人になっていて生き残った人には、具体的で生々しい死者の記憶があるのだから、負目を覚えるのがむしろ当然だろう。人は必ず死ぬ。それは冷厳な真実ではあるけれど、どのような生の中断についても、生き残った人にはただ理不尽としか映らないものだ。たとえ老衰と言われ大往生と言われるような死ですらも理不尽なのであり、ましてや戦争で若い命が中断されるなどは、その最たるものであるだろう。作者が誰に負目を感じるのかは書かれていないが、それは決して太平洋戦争での日本側の死者三百万人(諸説あり)に対してではなく、具体的に友人知己だった誰かれに対してであるはずだ。三百万人の死者といえば物すごい数だけれど、当時の大人たちにしてみれば、それら三百万人よりも、親しかった一人か二人か、あるいは数人の死に激しい痛みと負目を覚えるのである。つまり、数字のみで戦争の悲惨を計ることはできないということだ。そんな日が、また今年も巡ってきた。死者はいつまでも若く、負目を負った人の若さは既に失われ、理不尽の思いだけが増殖してゆく。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


August 0782013

 あくせく生きて八月われら爆死せり

                           高島 茂

和二十年の昨日、広島市に原爆が投下され、三日後の九日に長崎市に原爆が投下されたことは、改めて言うまでもない。つづく十五日は敗戦日である。二つの原爆忌と敗戦忌が日本の八月には集中している。掲句の「八月」とはそれらを意味していて、二つの「爆死」のみならず、さらに広く太平洋戦争での「戦死」もそこにこめられているだろう。二つの「原爆」の深い傷は今もって癒えることはない。三・一一以降セシウムの脅威はふくらむばかりである。それどころか、今まさに「安全よりお金を優先させる」という、愚かしい政治と企業の論理が白昼堂々とまかり通っている。「あくせく生き」た結果がこのザマなのであり、「爆死」の脅威のなかで、フクシマのみならずニッポンじゅうの市民が、闇のなかを右往左往させられている。そのことをあっさり過去形にしてしまう権利は誰にもない。戦中戦後を「あくせく生き」た市民たちにとって、死を逃がれたとはいえ「爆死」状態に近い日々だったということ。茂は新宿西口の焼鳥屋「ぼるが」の主人だった。私も若いころ足繁くかよった。ボリウムのあるうまい焼鳥だった。主人と口をきくほど親しくはなかったが、俳人であることは知っていた。壁に蔦がからんだ馴染みの古い建物そのままに営業していることを近年知って驚き、私は一句「秋風やむかしぼるがといふ酒場」と作った。かつて草田男や波郷もかよったという。文学・芸術関係の客が多く独特の雰囲気があった。茂の句は他に「ギター弾くも聴くも店員終戦日」がある。「太陽」(1980年4月号)所載。(八木忠栄)


August 1482015

 飯盒の蓋に鳥の餌終戦日

                           望月紫晃

盒(はんごう)は、キャンプ・登山など野外における調理に使用する携帯用調理器具・ 食器である。平和な日本の今では趣味のキャンプ等に登場するが、臨戦態勢の戦時中では水筒とともに命を繋ぐ欠かせない容器であった。南方戦線を渡り歩いた私の父はさして威力も無い銃と飯盒一つを携えて投降したと言う。その時、一瞬一瞬に怯える命から開放された。命あることの喜びに包まれて、作者は今飯盒の蓋で鳥に餌をやっている。小鳥よ楽しく囀れよ、もう戦争は懲り懲りだ。明日は八月十五日。他に森功氏の<小さな駅で一人の兵士が泣いていた>、若月恵子氏の<今日よりは帯解く眠り蚊帳青し>、八住利一氏の<なげ出した三八銃に赤とんぼ>など戦争の1,000句が所載されている。『十七文字の禁じられた想い(塩田丸男編)』(1995)所載。(藤嶋 務)


September 1192015

 鳩吹けばふる里歩み来るごとし

                           今村征一

吹くは両手を合わせた間に息を吹き、ハトの鳴き声を出すこと。猟師がシカを呼んだり武士や忍者が仲間の合図に用いたりした。子供たちも成長過程で吹けることを自慢しあったものである。吹けなかった私はずいぶん悔しい思いもした。そう言えば指笛も未だに吹けない。級長だったがその事で餓鬼大将にはなれなかったのである。吹ける連中でも図太く吹けるとか音がか細いとか些細な事が自慢と落胆の原因を作った。今久々に鳩を吹いてみるとあのふる里のあの頃の記憶がどっと甦ってくる。あの頃へ戻りたいけどもう戻れない。押し寄せる想い出は甘くて切ない。他に<定かなる記憶終戦日の正午><野の風を摘んで束ねて秋彼岸><干柿のやうな齢となりにけり>などなど氏の句が多数所載されている。『朝日俳壇2013』(2013)。(藤嶋 務)




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