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July 1871997

 髪洗ふいま宙返りする途中

                           恩田侑布子

か楽しくなるような句はないかと、探すうちに発見した作品。なるほど、髪を洗う姿勢はこのようである。となると、床屋での仰向けの洗髪は、さしずめバック転の途中というべきか。人間の普通の仕種を違うシチュエーションに読み替えてみれば、他にもいろいろとできそうだ。作者はなかなか機智に富んだ人で、「鯉幟ストッキングはすぐ乾く」「いづこへも足を絡めず山眠る」なども面白い。『21世紀俳句ガイダンス』(現代俳句協会)所収。(清水哲男)


January 2012000

 缶コーヒー膝にはさんで山眠る

                           津田このみ

語「山眠る」は、静かに眠っているような雰囲気の山の擬人化。そう聞かされて「なるほどねえ」と思い、思っただけで納得して、もしかすると一生を過ごしてしまうのが、私のような凡人である。でも、世の中にはそんな説明だけでは納得せずに、「だったら、どんなふうに眠っているのだろう」と好奇心を発揮する変人(失礼っ)もいる。古くは京都の東山のことを蒲団を着て寝ているようだと言った人からはじまって、現代の津田このみにいたるまで、自分の感覚で実証的にとらえないと気が済まない人たちだ。もちろん、こういう人たちがいてくれるおかけで、我ら凡人(これまた、読者には失礼か)の感受性は広く深くなってきたのである。感謝しなければ罰があたる。缶コーヒーを膝に挟むのは、ずっと手に持っているととても熱いからだ。最近の若者は地べたに座りこんで飲んだりするから、熱いととりあえず膝に挟むしかない。そんな「ヂベタリアン」の恰好で、山が眠っているというのだ。すなわち、安眠をしていてるとは言えない山を詠んだのが、この句の面白さ。何かの拍子にこの山の膝から缶が転げ落ちたら、この世は谷岡ヤスジ流に「全国的にハルーッ」となるのである。はやく転げ落ちろ。『月ひとしずく』(1999)所収。(清水哲男)


February 2022001

 眠る山薄目して蛾を生みつげり

                           堀口星眠

語は「眠る山(山眠る)」で冬季だが、冬の間は眠っていた山が目覚めかけて「薄目して」いるのだから早春の句だ。山のたくましい生産力を描いて妙。早春の山というと、私などはすぐに木々の芽吹きに気持ちがいってしまうけれど、それでは凡に落ちる。当たり前に過ぎる。というよりも、山を深くみつめていないことになる。山は、我々の想像以上に多産なのだ。植物も生むが、動物も生む。もちろん「蛾」も生むわけだが、ここで「蛾」を登場させたところが素晴らしい。「蝶」ではなくて「蛾」。「蝶」でも悪くはないし、現実的には生んでいるのだが、やはり「薄目して」いる山には、地味な「蛾」のほうがよほど釣り合う。「蝶」であれば、「薄目」どころかはっきりと両眼を見開いていないと似合わない。「薄目」しながら、半分眠っている山が、ふわあっふわあっと、幼い「蛾」を里に向けてひそやかにかつ大量に吹きつづけているイメージは手堅くも鮮やかである。「蛾」の苦手な人には辛抱たまらない句だとは思うが、それはまた別次元での話だ。大岡信さんが新著『百人百句』(講談社)で、書いている。「星眠は、自然界の描写という点では師匠の水原秋桜子直伝のよさがあり、秋桜子が『葛飾』で水辺の世界をよく描いているのに対して、山の生物を描いているところに特色がある」。私のような山の子は、どうしても秋桜子より星眠に親近感を覚えてしまう。『祇園祭』(1992)所収。(清水哲男)


January 2512003

 ひとかどの女の如し山眠る

                           守屋明俊

語は「山眠る」で冬。こういう句を読むと、俳句って愉快だなあと思う。俳句雑誌の句をぱらぱら拾い読みしていて、たいていは失礼ながらすうっと通りすぎてしまうのだが、ときどき急ブレーキをかけることがある。掲句も、そうだった。むろん、引っ掛かるものがあったからだ。つまり「ひとかどの女」という表現に、立ち止まらされてしまったのである。たいてい「ひとかどの」とくれば「男」に決まっているだろうが。えっ、なぜ「女」なんだと、眼をこすった。こうなれば、もう作者の勝ちである。負けた私(笑)は、しょうことなく、何度か繰り返し読むことになった。で、いろいろと眠る山と女を関係づける普遍性必然性は那辺にありや、などと思いをめぐらせてみることになった。普遍性必然性については、すぐに納得できたような気がする。「ひとかどの男」であれば、どんなことがあろうとも、眠ったりはしないだろう。ところが「女」は、そこらへんで「男」とは違いがありそうだ。図太いというのとはだいぶニュアンスに差があるのだけれど、神経のありどころが「男」とは違っているところがあるのは確かだ。だから、句に「男」とあったなら、面白くも何ともない。ただ、眠る山がだらしなく写るばかりだからある。そこへいくと、女の寝姿に見立てた作者の感性はなかなかのもの。それもなまじな女ではなく「ひとかどの女」なのだから、素晴らしい。と言いつつも、はて「ひとかどの女」って、どんな女なのかは、私にはまったくわからない。そこで邪推に近い言い方になるが、実は作者にもよくわかっていないのだと思った。でも、それでいいのだ。この句に滲んでいるのは、作者の女性観の一端だろう。それが、冬の山を句にしようとしているうちに、ぽろりと口をついて出てきちゃったということだろう。俳句なればこそ、こういうことが起きるのである。「俳句」(2003年2月号)所載。(清水哲男)


June 0362009

 蛇の衣草の雫に染まりけり

                           巌谷小波

年ほど前に房総の山間を歩いていたとき、偶然に蛇の衣をまるごと見つけた。垣根にまだ脱ぎたてといった感じで、生なましく濡れて光っている衣に思わず息を呑んだ。まだ濡れている衣の生なましさと妖しい美しさ。おそるおそるそれを破れないように垣根からはずし、そっと持ち帰った。頭のてっぺんから尾の先まで60cm余りあった。乾いてから額縁に入れて今も部屋に飾ってある。掲出句の「雫に染まりけり」の息づいているような美しさに、思わず目がとまった。朝まだきだろうか、雨があがって間もない頃の実景だろうか。そのものは蛇の「かわ」ではなく、まさに「きぬ」としか呼びようのない繊細さである。「蛇の殻」とも呼ぶし、意味はその通りではあるけれど、「衣」のほうがあの実物にはふさわしい。「蛇皮」とは意味が違う。「蛇の衣」がもつ繊細さと「草の雫」の素朴な美しさ、その取り合わせが生きている。富安風生の句に「袈裟がけに花魁草に蛇の衣」があるが、私が発見したそれも「袈裟がけ」という状態だった。蛇の脱皮は年に五、六回くり返されるという。マムシもアオダイショウもヤマカガシも、蛇は夏の季語。小波は白人会を主催して、軽妙洒脱な俳句をたくさん残した。「月細く山の眠を守りけり」。句集『さゝら波』がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


January 2612010

 雪だるま手足出さうな日和なり

                           大沼遊魚

を明けてからの天気予報の日本地図にはずらりと雪だるまのマークが並んでいるが、日は確実に伸びてきた。日常に雪の降る生活をほとんど経験していないことから、雪だるまを作ることは憧れのひとつでもある。「雪だるまの作り方」なるマニュアルによれば「まず手のひらで雪玉を作り、やわらかい雪の上で転がす。まんべんなく雪が付くように転がしていくと、雪玉はどんどん大きくなるので、ほどよい大きさを二つ作り、ひとつにもうひとつを重ねる。」のだそうだ。手のひらほどの雪玉が、みるみる大きくなっていくことが醍醐味のこの遊び、日本でどれほど昔から親しまれていたのかと調べてみると、源氏物語と江戸期の浮世絵に見つけることができた。源氏物語では「朝顔」の段に「童女を庭へおろして雪まろげをさせた」とあり、「雪まろげ」とは雪玉を転がし大きくする遊びとあるから、雪だるまの原形と考えてもよさそうだ。浮世絵は鈴木春信の「雪転がし」で、こちらは三人の男の子が着物の裾をからげて(一人はなんと素足である)、寒さをものともせず大きな雪玉を転がしている。掲句にも、また遊びの本質を見届ける視線がある。雪だるまが次第に溶け、形がなくなってしまうことへの悲しみや切なさという従来の詠みぶりを捨て、最後まで明るくとらえていることに注目した。ところで歌川広重『江戸名所道戯尽』の「廿二御蔵前の雪」では、正真正銘の達磨さんを模したものが描かれており、これにぬっと手足が出たらちょっと怖い。〈雪原の吾を一片の芥とも〉〈山眠る熱きマグマを懐に〉『倭彩』(2009)所収。(土肥あき子)


November 24112010

 たくさんの犬埋めて山眠るなり

                           川上弘美

季折々の山を表現する季語として、春=山笑ふ、夏=山滴る、秋=山粧ふ、そして冬は「山眠る」がある。「季語はおみごと!」と言うしかない。冬になって雪が降ると♪犬はよろこび庭かけまわる……と歌われてきたけれど、犬だって寒さは苦手である。(冬には近年、暖かそうなコートを着て散歩している犬が目立つ。)ところで、「たくさんの犬埋めて」ってどういうことなのか? 犬の集団冬ごもり? 犬の集団自決? 犬の墓地? 悪辣非情な野犬狩り? 犬好きな人が熱にうなされて見た夢? で、埋めたのは何者? ーーまあまあ、ケチな妄想はやめよう。句集を読みながら、私はこの句の前でしばし足を止め、ほくそ笑んでしまった。だから俳句/文学はおもしろい。たくさんの犬を埋めるなんて、蛇を踏む以上に愉快でゾクゾクするではないか。しかも、山は笑っているわけでも、粧っているわけでもなく、何も知らぬげに静かに眠って春を待っているのだ。あれほど元気に走りまわり、うるさく吠えていた犬たちもたわいなく眠りこんでいるらしい。だからと言って、殺伐として陰惨という句ではなく、むしろ明るくユーモラスでさえある。句集全体が明るく屈託ない。そして犬たちは機嫌よく眠っているようだ。弘美さんは犬好きなのだろう。この待望の第一句集十五章のうち、三つの章を除いた各章の扉絵(福島金一郎)に犬が描かれているくらいだもの。犬を詠んだ句も目立つけれど、「はるうれひ乳房はすこしお湯に浮く」なんて、ふわりとしていて好きな句だなあ。よく知られた傑作「はつきりしない人ね茄子投げるわよ」も引いておこう。句集『機嫌のいい犬』(2010)所収。(八木忠栄)


December 04122013

 ふるさと富士から順に眠りだす

                           丸谷才一

いていの日本人は富士山が好き。全国各地にあって地元の人たちに親しまれている山で、かたちが富士山に似て恰好いい山を「〇〇富士」と呼んでいる。たとえば北海道の羊蹄山を「蝦夷富士」と呼び、筑波山を「筑波富士」と呼ぶ。そんな「ふるさと富士」が全国に350以上もあるという。富士を模した人工の「富士塚」も各地に多い。富士山は広く愛されているだけでなく、信仰を集めている山でもある。冬の山のことを意味する季語「山眠る」があるけれど、掲句は冬の「ふるさと富士」を詠んでいる。冬の到来とともに北から順に「ふるさと富士」は、次々と冬化粧をして眠りに就く。じつは「〇〇富士」は日本国内ばかりに限っていなくて、台湾、インド、ロシアをはじめ世界各地にあるというから驚きである。掲句を含む才一句は、彼の全集の付録『八十八句』(2013/非売品)に収められた。他に「白魚にあはせて燗をぬるうせよ」もある。「今の作家が詠まないのはじつに淋しい。小説家諸氏よ、俳句を詠まれたし」と長谷川櫂は挑発している。売れっ子諸氏は、そんな暇がないのだろうか。いや、才能がないのだろうか?(八木忠栄)


January 3012016

 縁側におはじき一つ山眠る

                           日原正彦

の句にあるのは遠い記憶の中の穏やかな日差しだ。おはじきは深い海の色に小さく光っている。少しささくれ立った木の温もりを手のひらに感じながらの日向ぼっこは心地よく、見るともなく見ているのは遥かな山の静けさ。読み手の中にもそんな冬日和の景が浮かんでくる。なんとなく捨てないで持っていたおはじきを今、手のひらにひんやりとのせてみた。はじいて遊んだ記憶はさらに遠いが、縁側と共に懐かしい。同じ集中に〈水仙の彼方に光る副都心〉とある。どちらの句も近景と遠景を一句の中に組み合わせて巧みであり、冬日の持つやさしさと鋭さがそれぞれ描き分けられている。(2015)『てんてまり』所収。(今井肖子)


February 2822016

 山吹にしぶきたかぶる雪解滝

                           前田普羅

月末に、正津勉著『山水の飄客 前田普羅』(アーツアンドクラフツ)が上梓されました。大正初期に頭角を現してきた虚子門四天王に、村上鬼城、飯田蛇笏、原石鼎、そして、前田普羅がいます。しかし、他の三人が著名なのに比べて普羅の名は知られておらず、また、秀句が多いのにもかかわらず手に入りやすい句集がなく、その句業や生涯についても謎めいたところのある人です。この本は、俳壇において日陰者の境涯に追いやられてきた普羅の生涯に光を当て、また、年代順に取りあげられた句には普羅自身の自解も多くほどこされており、しばしば膝を打ちながら読みました。たとえば、句作に日が浅い29歳(大正1)の作に「面体をつつめど二月役者かな」があって、これなどは自解があってようやく腑に落ちます。「町を宗十郎頭巾をかぶつた男が通る。幾ら頭巾で面体を隠しても、隠せないのは体から滲み出る艶つぽさだ。役者が通る、役者が通る。見つけた人から人に町の人はささやく。暖かさ、艶やかさを押しかくした二月と、人に見られるのを嫌つて面体をつつんだ役者の中に、一脈の通ずるものを見た」と説明されて、ここの舞台は横浜ですが、江戸と文明開化がさほど遠くないご時世をも伝えてくれています。この小粋な中に屈折した句作は、渓谷をめぐり始めることによって「静かに静かに、心ゆくままに、降りかかる大自然に身を打ちつけて得た句があると云ふのみである」(『普羅句集』序・昭和5)と宣言して、山水に全身で入り込む飄客となっていきます。掲句はその中の一つ。「山吹/しぶき/たかぶる」の三つのbu音が、「雪解滝」のgeとdaに連なって、早春の滝のしぶきの冷たい飛沫を轟音の濁音で過剰に描出しつつも、山吹を定点に据えることによって画角がぶれていません。動には静がなければ落ちが着かないということでしょう。掲句を、肌と耳の嘱目ととりました。この本から、普羅は山吹に思い入れのある俳人であることも知り、その佳句は多く、「鷹と鳶闘ひ落ちぬ濃山吹」「山吹の黄葉ひらひら山眠る」「青々と山吹冬を越さんとす」がつづきます。(小笠原高志)




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