G黷ェ句

July 1771997

 佃煮の暗きを含み日のさかり

                           岡本 眸

盛りのなかの佃煮屋の店先。あるいはまた、日盛りの庭を見ながらの主婦の昼餉。シチュエーションはいろいろに考えられる。猛烈な日差しのなかの物の色は、乾き上がって白茶けたように感じられるが、しっとりと濡れている佃煮の色だけは、なお暗さを保ったままでむしろ鮮やかである。明るさのなかの暗さ。その暗いみずみずしさを的確にとらえたところは、主婦ならではのものだろう。急に佃煮が食べたくなった。『手が花に』所収。(清水哲男)


July 1172001

 父ひとりゆく日盛りの商店街

                           廣瀬直人

独の肖像。偶然に、後ろ姿を見かけたのだろう。アーケードがなかった頃の「日盛りの商店街」は、さすがに人通りも少ない。そんなカンカン照りのなかを、老いた父親がひとりで歩いている。それでなくとも男に昼間の商店街は似合わないのに、何か緊急の買い物でもあるのだろうか。それとも、この通りを抜けて行かざるを得ない急ぎの用事でもできたのか。呼び止めるのもためらわれて、作者はそこで目を伏せたにちがいない。それこそ用事もないのに、次の角を曲がったか。えてして、男同士の親子とはそんなものである。だから、この「父」の姿は多くの男性読者の父親像とも合致するだろう。その意味で、作者の単なる個人的なとまどいを越えて、掲句は説得力を持ちえている。この父親像は、今日も確実に各地の「商店街」に存在している。ただし、句集を読めばわかることだから書いておくが、作者がなぜこの句を詠んだのかには抜き差しならぬ事情があったのだ。作者の妹である「父」の娘が、少し前に産児とともに急逝したという事情である。「青嵐葬場に満ち母と子焼く」など作者痛恨の十句あり。そうした事情があってのこの句なのだが、しかし、作者が目撃した「父」の事情は、あるいはこの事態とはかけはなれていたかもしれない。が、妙な忖度などせずに、すっと「父」の後ろ姿に目を伏せるのが、私の愛する表現を使えば「人情」というものである。『帰路』(1972)所収。(清水哲男)


July 3172005

 力無きあくび連発日の盛り

                           高浜虚子

語は「日の盛り(日盛)」で、もちろん夏。さて、本日で虚子三連発。句のあまりのくだらなさに、当方も「あくび連発」。作者もまた、良い句などとは露思っていなかったろう。思っていないのに、何故こういう句を作って人前に出す気持ちになったのだろうか。駄句として一蹴してしまうのは容易いし、私もそうしかけたのだが、しかし名句よりも駄句のほうに、その人の本質がよく見えるということはあるだろう。掲句に限らず、初心者でも作らないような駄目な句を、虚子はあちこちで平気で詠んでいる。これは、はじめから意図的なのですね。確信犯です。子規亡き後、碧梧桐の「新傾向」でなければ夜も日も明けなかった俳壇のなかにあって、虚子が碧梧桐を批判した有名な文章がある。その一節に、曰く。「尚碧梧桐の句にも乏しいやうに思はれて渇望に堪へない句は、単純なる事棒の如き句、重々しき事石の如き句、無味なる事水の如き句、ボーツとした句、ヌーツとした句、ふぬけた句、まぬけた句等」。このときに、虚子はまだ二十代。碧梧桐の才気を認めないわけではなかったが、それだけでは駄目だと言い放っている。人間、才気だけで生きているわけじゃない。誰にだって、ヌーボーとした側面はあるのだから、そのあたりを捉えることなしにすますようなことでは、何のための表現なのかわからない。掲句は晩年の作だが、若き日の初心を貫いているという意味では、珍重に値する一句と言ってもよいのではなかろうか。『虚子五句集・下』(1996・岩波文庫)所載。(清水哲男)


August 0382005

 サラリー数ふ恋ざかりなる日盛に

                           高山れおな

語は「日盛(ひざかり)」で夏。前書に「みずほ銀行西葛西支店」とあり、私はこの支店を知らないけれど、句と合わせると奇妙なリアリティが感じられる。これがたとえば六本木支店だとか麹町支店だと、同じ句との組み合わせでも相当にニュアンスが異なってくる。西葛西のほうに、だんぜん庶民的な生活の匂いがあるからだ。猛暑の昼日中、今宵のデートのために「サラリー」を引き出して数えている図だろう。なにしろ「恋ざかり」なのだからして、残額がちょっと心配になるくらいの多めの額を下ろしたのに違いない。わかりますねえ。これだけ用意すれば足りるだろうと,汗を拭いつつていねいに数えている様子は,微笑ましくもつつましやかで好感が持てる。私がサラリーマンだったころは現金支給だったので、「恋ざかり」の、すなわち独身の男らはたいてい、袋のままに全月給を持ち歩いていたものだ。現在のカップルはかかった費用を割り勘にするのが普通のようだが、昔は食事代やら映画代やらたいていのものは男が払うものと、なんとなく決まっていた。だから、恋愛中の男は目一杯持ち歩かざるを得ないという事情があったし、恋少なき私などは、いちいち銀行の窓口に行くのが面倒臭くて無精を決め込んでいただけの話だが……。それはともかく、割り勘であろうがなかろうが、恋愛には金もかかる。恋愛の情熱や精神についての書物は古来ゴマンとあるけれど、誰か「恋愛の経済学」といったようなテーマで一冊書いてくれないかしらん。『荒東雑詩』(2005)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます