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July 1171997

 寝冷えして電話して来し男かな

                           皆吉 司

代的滑稽の世界。「そんなことで電話してくるなよ」と言いながらも、作者は微笑している。私は電話が苦手だから、とてもこんな電話はかけられないが(そのつもりにもならないが)、若い人にとっては格別どうということはないのだろう。そのうちに携帯電話の句も登場してくるにちがいない。いつも誰かと話していたい欲望はわからないでもないけれど、裏返せばそれは寂しさの簡便なごまかしに通じているのであって、あぶなっかしい処世の術に思える。あと五十年もすると、老齢人口が三分の一を占める時代になるそうだ。寝冷えした孤独な老人の電話を聞いてくれる商売が必要となる。『夏の窓』所収。(清水哲男)


July 2672002

 寝冷人まなこで凝と我を見る

                           八田木枯

語は「寝冷人(寝冷え)」で夏。「寝冷子」という季語もあるほどで、子供はしばしば寝冷えするが、句の「人」は大人だろうか。いずれにしても家人であり、あまり体調がよくないようだ。といって大病を患っているわけでもないから、気遣うともなく気遣うという感じで当人を見やると、「凝(じっ)と」見返してきた。「まなこで」が効いている。疲れてだるいその人の「まなこ」は、何かを訴えたり、表現しようとしているのではない。ただ、じいっと見返してきただけなのだ。瞬時かもしれないが、お互いの「まなこ」が吸い付き吸い付かれたような関係となり、一種の真空状態が生まれたような感じになる。そこには、何のコミュニケーションもない不思議な関係ができあがり、自然にすっと目を外すことができなくなる。相手の「まなこ」だけがぐっとクローズアップされてきた様子を、「まなこ」で見ると押さえたわけだ。こういうことは、日常的にときどき起きる。相手が病人ではなくとも、意味なく目が合い吸い付き吸い付けられてしまう。あれはいったい、いかなる心理的要因によるものなのか。要因はともかく、こういうことをきちんと書きこめる文芸は、俳句以外にはないだろう。「俳句」(2002年8月号)所載。(清水哲男)




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