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July 0171997

 兇状旅で薮蚊は縞の股引よ

                           島 将五

人に追われての兇状旅。勝新太郎のはまり役だった「座頭市」や芝居でお馴染みの「国定忠治」などが、兇状持ちの庶民的ヒーローだ。そんな兇状持ちのいでたちとの類似性を、薮蚊に発見したところが極めてユニーク。薮蚊に刺されると、実に痛い。なにせ兇状持ちなのだからして、手加減などは無しの世界だ……。と、そこまで作者は言っていないけれど、この見立ての面白さは抜群だ。将五の句にはどこか並外れた発想があって、とても万太郎系の「春燈」で長い間書いていた人とは思えない。神戸で罹災され四国に移られたと聞いたが、お元気だろうか。『萍水』所収。(清水哲男)


August 1181999

 叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉

                           夏目漱石

要。僧侶が木魚をポンポンと叩いたら、中で昼寝を決め込んでいた蚊が、飛んで出てきた。それがまた、あたかも木魚が自分で吐いたかのように出てきたというのだから、少なくとも数匹はいたのだろう。「いやあ、驚いたのなんの」と、飛んで出た蚊が言ったかどうかは知らないが、落語好きな漱石ならではの軽妙な句だ。実はこの句ができる四年前に、もう一句「木魚」を詠んだ句「こうろげの飛ぶや木魚の声の下」がある。「こうろげ」は虫の蟋蟀(こおろぎ)。先の蚊の句は、おそらくこの句が下敷きになっていると思われるが、「こうろげ」句よりは洒脱でずっと良い。ところで「こうろげ」句は、二十五歳で早逝した兄の妻・登世の通夜での思いを詠んでいる。登世は漱石が唯一「美人」と言い切った女性であり、死なれた悲しみは深かったようだ。つまり、洒脱に俳句を作る心境になどなくて、こういう句になったということだが、そんな事情を知ると、かなり読む意識が変わってくる。予備知識なしに読んだときとは、句の味も違ってくる。でも、これが俳句というものだろう。予備知識の有無による観賞の差異の問題は、長く俳句の読者を悩ませつづけてきた。『漱石俳句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)


June 2462002

 鳴きもせでぐさと刺す蚊や田原坂

                           夏目漱石

語は「蚊」で夏。「田原坂(たばるざか)」の解説は、電子百科事典にゆずる。「熊本県北部、鹿本(かもと)郡植木町田原地区にある三池往還の坂道。玉名平野に連なる木葉(このは)川流域の低地から、いわゆる肥後台地の西端に上る途中にある一の坂、二の坂、三の坂の総称。侵食谷であるため、標高のわりには曲折した急崖(きゅうがい)が随所にみられ、西南戦争(1877)では、この地形的特徴から官軍・薩(さつ)軍入り乱れての白兵戦の舞台となった。[(C)小学館]」。この歴史的事実を踏まえて読むと、漱石を刺した「蚊」の様子がよくうかがえる。蚊の種類や生態については何も知らないけれど、いわゆるヤブカに刺されたのだろう。あいつに刺されると、ひどく痛い。そこらへんの蚊と違って、痛さの上にずしんと重みが加わる。問答無用、物も言わずに「鳴きもせで」必殺の剣ならぬ必殺の針が「ぐさと」肉を刺し、ぐいと鋭くえぐる感じとでも言えばよいのか。この身を捨ててこその獰猛性が、漱石に田原坂での白兵戦を想起させたのだ。しかも、詠んだのが西南戦争から二十年しか経っていない頃だから、想起の中身はとても生々しかったはずだ。たまたま田原坂で、たかが蚊に刺されたくらいで大袈裟なと、笑い捨てるわけにはいかない凄みのある句だと思った。『漱石俳句集』(1990・岩波文庫)所収。(清水哲男)


August 0282003

 豹つかひ夜は蚊を打ちて夫に寄る

                           橋詰沙尋

性が猛獣を手なづけるという芸は、古くから見られる。屈強な男よりも、かえってかよわい女性の芸としたほうが神秘的に写り、より魅力が増すからだろう。旅から旅へのサーカス暮らし。夫婦で一緒に働いてはいても、二人だけで過ごせる時間は短い。そんな一刻に、「蚊」を打つ仕草をきっかけとして「夫(つま)」に寄り添ったというのだ。ショーの仕事では「豹(ひょう)」を相手に鞭をしならせる手が、なにほどのものでもない蚊を打つという対照の妙。しかも、豹よりも蚊を打つほうにこそ、こまやかな神経を使っていると読ませる技術の冴え。想像句ではあろうが、嫌みのないリアリティが滲み出ていて楽しめる句だ。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)

{ 読者情報 ] 作者は実際に曲馬団の団長だった方だそうです。山口誓子がどこかで書いていたと、お知らせ頂きました。
[ 夏休みのおまけ話 ] ◆ドイツのサーカス団◆ドイツのサーカス団から、40歳代後半の女性の猛獣使いが、ライオン8頭、トラ2頭を乗せたトラックごと団長の息子(20)と駆け落ちした。警察によると、この女性は、団長の息子にライオンの調教法を教えているうちに親密な関係になったとみられる。「ライオンやトラを操れるのなら、20歳の男性とも問題はないだろう…」と警察の広報担当者。団長は”窃盗”の損害は10万ユーロ(1300万円)になるとして警察に届けた(スポニチ大阪版・April 2003)。


May 1852004

 顔面の蚊を婦人公論で叩く

                           佐山哲郎

が出はじめた。油断して網戸を開けておくと、どこからともなく、部屋の中にプーンと入ってくる。この音を聞くと「もう夏なんだなあ」とは思うが、べつに特段の風情を感じるわけじゃない。作者は顔面にとまった蚊を、たまたま読んでいた「婦人公論」で叩いたのだ。雑誌を傍らに置いてから叩いたのでは逃げられてしまうので、緊急やむを得ず雑誌で打ったということだろう。寝転んで読んでいたのかもしれない。ただそれだけのことだが、なんとなく可笑しい。可笑しさを生んでいるのは、むろん「婦人公論」という固有の雑誌名をあげているからだ。単に雑誌で叩いたと言うのとは違って、変な生々しさがある。妙な抵抗感もある。事もあろうに、何もよりによって(ではないのだけれど)「婦人公論」で叩くことはないじゃないか。と、読者はふっと思ってしまう。というのも、この雑誌が持っている(どちらかというと)硬派のイメージが、蚊を叩くというような日常性べったりの行為にはそぐわないからなのだ。しかも、叩いたのは「顔面」だ。インテリ女性がいきなり男の顔を平手打ちにしたようなイメージも、ちらりと浮かぶ。だから、よけいに可笑しい。これが例えば「女性自身」や「週刊女性」だったら、どうだろうか。やはり可笑しいには違いないとしても、その可笑しさのレベルには微妙な差があるだろう。俳句は、名所旧跡神社仏閣あるいは地方名物などの固有名詞を詠み込むのがお得意である。掲句は商標としての固有名詞を使っているわけだが、その意味からすると俳句の王道を行っていることになる。そのことを思うと、またさざ波のように可笑しさが増してくるのは何故なのだろう。『東京ぱれおろがす』(2003)所収。(清水哲男)


August 0482005

 蚊柱や昔はみんな生きてゐた

                           吉田汀史

語は「蚊柱(かばしら)」で夏、「蚊」に分類。蒸し暑い夏の夕方などに、蚊が群れをなして飛んでいるのを見かけることがある。最初は少数だが,たちまち数百匹の大集団になる。これは蚊の生殖行動だそうで、蚊柱を形成するのはすべて雄であり、その大集団に飛び込んでいくのが雌なのだそうな。人間には見るだけで鬱陶しい蚊柱ではあるが、蚊にしてみれば,生涯のうちで最も生命力の溢れている時空間なのだ。そのことに思いが至り,作者はふっと既に鬼籍に入っている誰かれのことを思い出したのではなかろうか。父や母のこと、親しかった友人知己の元気なころのことなどを……。すなわち、「昔はみんな生きてゐた」のだった。生きていたみんなのことを目障りな蚊柱から思い出しているところに、掲句のやるせなく切ないとでも言うべきペーソスを感じる。しかも蚊柱は,短時間のうちに消えてしまう。その儚さがまた、句にいっそう苦い味を付加している。作者には失礼かもしれぬが、句を読んだ途端に,私は「♪ぼくらはみんな生きている」ではじまる「てのひらを太陽に」という子供の歌を思い出し,なんとなく「♪昔はみんな生きてゐた」と歌ってみた。そうすると,本歌の毒々しくも能天気な向日性が消えてしまい,なかなか味わい深い歌に転化したのには我ながら驚いた。いま、首をひねった方,どうか一度お試しください。俳誌「航標」(2005年8月号)所載。(清水哲男)


August 1682006

 叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉

                           夏目漱石

石には名句、好きな句がたくさんある。全部でおよそ2,600句あるという。大正六年に『漱石俳句集』が編まれ、その後『漱石全集』にもちろん収められている。初めて掲出句を読んだとき、私はギャッと叫んだ。小説家の繊細な観察眼、好奇心、ユーモア・・・・この視線や取り合わせはタダモノではない。文豪の面目躍如。読経でポクポク叩かれる木魚の口から、あわててフラーリ、プイーととび出す間抜けな昼の蚊に妙な愛着を感じて、叫んだあとで思わずほくそえんでしまった。先日、親戚の法要で木魚ポクポクを前に、この句を想起して思わず表情がゆるみかけた。あわてて神妙に衿を正したものだ。さて、ところがである。この句は明治二十八年の作だが、坪内稔典著『俳人漱石』(岩波新書)によれば、すでに江戸時代の東柳という人の句に「たゝかれて蚊を吐(はく)昼の木魚哉」があるという! 稔典氏は「とてもよく似た句」であり、「漱石さんの句として認められるのかどうか」と惑い、漱石の独創が原句をしのいでいる必要があると結論している。その場で、漱石には「東柳の句を覚えていたのだろうなあ」と微妙な発言をさせている。私は「昼の蚊」を主体にした漱石句のユーモラスな姿のほうが「原句をしのいでいる」と思うのだが。『漱石俳句集』(1917)所収。(八木忠栄)


June 0162007

 蚊柱や吹きおろされてまたあがる

                           村上鬼城

の「や」の用法がめっきりみられなくなったのは現代の特徴的傾向。一句一章の主格の「や」。「は」や「が」と同じ意味だが、現代俳人のほとんどは、ここに「の」を置くだろう。「蚊柱の吹きおろされてまたあがる」。どちらがいいか。切れ字をおくと俳句の格調が出るが、この古格のような渋さを俳句情趣臭として敬遠するのだろう。後者はすんなり読めるが説明的な感じが否めない。説明的即散文的と言ってもいい。困るのは「や」に過剰な切れを想定する読み方で、蚊柱を背景として、ふきおろされてまたあがるものは蚊柱ではないとする鑑賞もありそうである。省略されているのは「我れ」だとしたりする。切れ字や「切れ」に大きな断絶を負わせる傾向の氾濫は、二物衝撃(二句一章)の技法が俳句の典型的な用法として定着したことと、「写生」の意味が次第に拡大解釈を許す方向に向っていることが影響している。結果、緩慢な切れの用法などは怖くて使えず、「の」に頼ることとなる。句の意味は明瞭。不定形の塊としての蚊柱の動きがよく出ている。一句一章主格の「や」もお忘れなくというところ。僕も是非使ってみたい。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


July 0572007

 湧く風よ山羊のメケメケ蚊のドドンパ

                           渡辺白泉

山明宏が銀座のシャンソン喫茶『銀巴里』にデビューしたのは17歳のときだった。そして1957年、日本語版『メケメケ』で人気を博した。『メケメケ』はそれがどうしたっていうのだ。と、いうフランス語の最初の2音を連続させたものらしい。『ヨイトマケの唄』を雄々しく歌った青年は『黒蜥蜴』で妖艶な女性に変貌した後、現在の姿と相成ったが、そんな未来を40年前は知る由もなかった。「山羊のメケメケ」は白面の美少年を相手に山羊がメケメケを歌っているとでもいうのか。「ドドンパ」は最近では氷川きよしが歌っていたが、1961年に流行った『東京ドドンパ娘』が元祖だとか。都都逸とルンバを組み合わせたところからこういう呼び名が生まれたようだ。そう言われてみれば膝を軽く折り曲げ腰を落とす踊りの格好が血を吸う蚊とちょっと似ている。そんな憶測や意味づけをはねのけるように、口語口調の言葉のリズムは明るく楽しい。だがこの句には店先や家のラジオから風に乗ってやってくる流行歌、やがては消えてしまう歌に猫も杓子も浮かれかえるバカバカしさへの風刺が感じられる一方、そんな流行のはかなさを哀れに思う気持ちが上五の「湧く風よ」の呼びかけに滲んでいる。60年代といえば「もはや戦後ではない」と、日本の高度成長が開始する時期。戦後、俳壇から遠く距離を置いた白泉ではあったが、見かけの上昇に欺かれることなく現実を見つめ、時代の言葉で切って返す力は衰えてはいない。『渡邊白泉全句集』(1984)所収。(三宅やよい)


June 0262010

 花筒に水させば蚊の鳴き出づる

                           佐々木邦

筒は花を活ける陶製か竹製の筒であろう。ウソではなく本当に、今まさにこの鑑賞を書こうとしたタイミングで、私の左の耳元へワ〜〜ンと蚊が飛んできた。ホントです。(鳴くのは雌だけらしい)あわてて左掌で叩いたらワ〜〜ンとどこやらへ逃げた……閑話休題。花筒に花を活けようとして水を差そうとしたら、思いがけず中から蚊が鳴いて出たというのだ。ワ〜〜ンという、あのいやな「蚊の鳴くような」声に対する一瞬の驚きがある。漱石の木魚から吐き出される昼の蚊ではないけれど、花筒の暗がりに潜んでいた蚊にとっては、思いがけない災難。夏場は、とんでもないあたりから蚊がワ〜〜ンと出てくることがある。木魚からとはちがって、花筒からとはしゃれていて風雅でさえあるではないか。ユーモア作家の先駆けとしてその昔売れっ子だった邦は、鳴いて出た蚊に立ち合ってユーモアと風雅を感じ、しばし見送っていたようにさえ思われる。あわてて掌でピシャリと叩きつぶすような野暮な行動に出ることなく、鳴いて飛び去る方をしばし見送っていたのだろう。「蚊を搏つて頬やはらかく癒えしかな」(波郷)などはどことなくやさしい。邦の夏の句に「猫のゐるところは凉し段ばしご」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 2062012

 一つ蚊を叩きあぐみて明け易き

                           笹沢美明

の消え入るような声で、耳もとをかすめる蚊はたまらない。あの声は気になって仕方がない。両掌でたやすくパチンと仕留められない。そんな寝付かれない夏の夜を、年輩者なら経験があるはず。「あぐ(倦)みて」は為遂げられない意味。一匹の蚊を仕留めようとして思うようにいかず、そのうちに短夜は明けてくる。最も夜が短くなる今頃が夏至で、北半球では昼が最も長く、夜が短くなる。「短夜」や「明け易し」という季語は今の時季のもの。私事になるが、大学に入った二年間は三畳一間の寮に下宿していたので、蚊を「叩きあぐ」むどころか、戸を閉めきればいとも簡単にパチンと仕留めることができて、都合が良かった。作者は困りきって掲句を詠んだというよりは、小さな蚊に翻弄されているおのれの姿を自嘲していると読むことができる。美明は、戦前の有力詩人たちが拠った俳句誌「風流陣」のメンバーでもあった。「木枯紋次郎」の作者左保の父である。他に「春の水雲の濁りを映しけり」という句がある。虚子には虚子らしい句「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)


July 2672012

 音楽で食べようなんて思うな蚊

                           岡野泰輔

ループサウンズ、フォークの時代から音楽はいつだって若者の憧れだ。手始めにギターを買って、コードを覚えれば次にはバンド仲間を募ってレンタルスタジオで音合わせ、次にはライブハウスで、と夢はどんどん膨らんでゆく。学生時代は大目に見ていた親も就職を渋っている子供に「実は音楽で食べていきたいんだけど」なんて告げられると、即座に「音楽で食べようなんて思うな」と言ってしまいそうだ。かっての自分に身に覚えあることだって、子供だと別だ。世間はそう甘くない。お決まりの親の台詞に「蚊」?渋面の父の額にブーンと飛んできた蚊が止まる。それを「あ、蚊」とぺちんと打つその間合いが面白い。文脈から言えば、「音楽で食べようと思うな、喝!」となりそうなところを「蚊」と外すところに妙味がある。『俳コレ』(2011)所載。(三宅やよい)


July 0672013

 すばらしい乳房だ蚊が居る

                           尾崎放哉

日兼題で、蛆、が出され初めは困惑したが、箱根での田舎暮らしが長かった身には、親しいとまでは言わないが思い出す光景はあれこれあった。蠅、蜘蛛、羽蟻、百足にゲジゲジ、そしてもちろん蚊。虫と一緒に暮らしていた夏が何となく懐かしくもある。同時に、どこかいつも小暗かった古い平屋が懐かしい。そんなうすい闇の中でこそ乳房は仄白く美しく、美しいからこそ蚊の存在がなんともおかしくもあり、切りとられた一瞬にリアリティが生まれている。掲出句は、先週亡くなられた村上護氏編『尾崎放哉全句集』(2008・筑摩書房)より。句と共に、写真や書簡も豊富に収められた読み応えのある一冊である。幾度となく酌み交わした際の穏やかな笑顔など思い出しつつ、合掌。(今井肖子)


July 2172013

 蚊柱やふとしきたてて宮造り

                           正岡子規

治26年の作。前書に、「神社新築」とあります。江戸時代と明治時代では、政治体制から生活様式まで、大きな転換がありましたが、神社仏閣にも変革がありました。江戸時代は、今でも口に出して言う「神さま仏さま」が、神社や寺院で混然と一体化していましたが、明治政府は「神仏判然令」を出し、神社と寺院を分離します。神社は、宗教施設としてではなく、国家の宗祀として、国家が尊び祀(まつ)る公的な施設として位置づけられたので、新築も多かったはずです。明治39年には「神社合祀令」が発令されて、大規模な統廃合がおこなわれ、19万社から13万社へと整理されました。かつては、村の鎮守の森、氏神さまだった神社が、中央集権の影響を受けるようになってきた背景があります。掲句の「ふとしき」は、「太敷く」で、柱をいかめしく、ゆるがぬように建てることです。子規は、その手前に蚊柱が立っているのを見て、面白がったのでしょう。不安定にうごめく蚊柱と、地中奥深く突き立てて、地と天のかけ橋を造ろうとする神柱。ところで、中七は、全てひらがなになっています。これは、もしかしたら、それほど大規模な社殿ではなく、蚊柱と同じ視野に納まるほどの構図を示しているのかもしれません。神を数える助数詞は「一柱」ですが、その語源は二十以上の説があり、定まっていません。諏訪大社「御柱祭」の関係者は、「天と地との架け橋が有力」とおっしゃっていますが、いかに。なお、「蚊柱」の中心には一匹の雌が居て、その周りを有象無象の雄たちが、惑星、衛星、すい星のようにぐるぐる回っているそうです。子規は、この事実は知らなかったでしょうね。『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(小笠原高志)


August 2282013

 父と姉の藪蚊の墓に詣でけり

                           澤 好摩

盆には連れ合いの実家のある広島に帰り山のふもとにある先祖代々の墓所に詣でるのが習いだった。田舎の墓は都会の墓と違い藪蚊が多い。周辺の草を抜き、花を供え線香をあげる間も大きな藪蚊が容赦なく襲いかかってくる。掲句の墓もそんな場所にある墓なのだろうか。この句の情景を読んで明治28年に東京から松山に帰って静養した子規が、久しぶりに父の墓参りをしたときに綴った新体詩「父の墓」の一節を思った。「見れば囲ひの垣破れて/一歩の外は畠なり。/石鎚颪来るなへに/粟穂御墓に触れんとす。/胸つぶれつつ見るからに、/あわてて草をむしり取る/わが手の上に頬の上に/飢ゑたる藪蚊群れて刺す」故郷を離れてしまうと係累の墓を訪れることもままならず、久しぶりに訪れた墓の荒れた様は心に甚くこたえるものだ。遠くにある墓を思うことは故人を思うことでもある。今年の盆も墓参りに行けなかった。草刈もせず、お供えもしないまま過ぎてしまった。と、苦い思いを噛みしめている人もいることだろう。『光源』(2013)所収。(三宅やよい)


July 1572016

 燕雀も鴻鵠も居る麦酒館

                           廖 運藩

燕雀」はツバメやスズメなどの小さな鳥のことで、転じて小人物をさす。「鴻鵠」は大鳥や白鳥など大きな鳥のことで、転じて大人物をさす。小人(しょうじん)も大人(たいじん)も一つ屋根の麦酒館に居てわいわいがやがやとやっている図である。『史記』に「磋呼、燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」とあり、小さな者にどうして大人の志が解りましょうやとの原典をよりどころにしている。中国の陳渉が、若いころ農耕に雇われていたときに、その大志を嘲笑した雇い主に向かって言ったことばとされている。小生の酔眼によればいずれ飯を喰らい糞を垂れるただのお仲間に過ぎないのではあるが。他に<すぼみ行く麦酒の泡や朋の老い><酔ひどれの生き血吸ひたる蚊の不覚><絵日傘やをみな骨までおしやれする>などあり。俳誌「春燈」(2015年9月号)所載。(藤嶋 務)




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