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June 1761997

 夕焼のうつりあまれる植田かな

                           木下夕爾

田(うえた)は、田植えを終わって間もない田のこと。殿村菟絲子に「植田は鏡遠く声湧く小学校」とあるように、天然の大鏡に見立てられる。やがて苗がのびてきた状態を「青田」という。さて、この句であるが、夕焼けをうつしてもなお余りある広大な水田風景だ。といって、句それ自体には作者の力技は感じられず、むしろ繊細な感覚が立ちこめている。このあたりが抒情詩人であった夕爾句の特長で、根っからの俳人には新鮮にうつるところだろう。舞台は、戦後間もなくの広島県深安郡御幸村(現・福山市御幸町)。『遠雷』所収。(清水哲男)


May 2751999

 いとけなく植田となりてなびきをり

                           橋本多佳子

植えが終わって間もない田。植えられた早苗はまだか細くも薄緑色で、鏡のような水田を渡る五月の風に、いささか頼りなげになびいている。しばらくすると、これら「いとけなき」ものたちも成長して、見事な青田に変わっていくわけだ。さながら人間の赤ん坊を見ているような思いから、多佳子は「いとけなく」と詠んでおり、一見平凡な形容とも受け取れるが、生きとし生けるものへの愛情こまやかな優れた表現だと思う。青年期以降、私の周辺には水田がなく、田圃のなかで育った人間としては、寂しい思いをしてきた。たまさかの旅で、車窓から田圃が見えると、反射的にいつも目が行く。田圃で働く人の姿がちらと見えると、目に焼きつく。先日の遠野の旅では、実にひさしぶりに植田を間近に見ることができて、観光用の名所や建物などよりも、よほど目の保養になった。立ち止っては、写真に撮ることもした。こんな旅の者もいるのである。我が山陰の田舎でも、田植えが終わったころだ。終わると、大人たちは「泥落とし」と称し、集まって一杯やっていたことを思いだす。(清水哲男)


June 0562010

 東雲の茜植田の濃紫

                           西やすのり

田は田植えが終わったばかりの田。この季節、少し東京を離れると車窓に植田が広がり、田いっぱいに張られた水は、空や雲や山を豊かに映している。作者は米作りに従事されており、この句は「鍬」と題した三十句の連作の中の一句。〈古草に勢ひの鍬を入れにけり〉〈末田まで水を見に行く納涼かな〉〈目を閉ぢて明日刈る稲の声を聞く〉など、淡々と叙しながら実感のこもる句が続く。掲出句、明け方田を訪れたのだろう。東は山で、その山際がかすかに赤みを帯びてくる。夜の静けさと朝の清々しさの間のほんのひととき、明け切らない雲に息づく茜色とまだ目覚めていない一面の田の深い水の濃紫。その水が、今日も光を集め風をすべらせながら早苗を育んでいくのだろう。こうして毎日、朝に夕に田を訪れて肌で季節を感じる暮らしの中から句が生まれている。『花鳥諷詠』(2010年3月号)所載。(今井肖子)


May 3152016

 植田から青田に変はる頃の風

                           名村早智子

年前に流れていたエビスビールのコマーシャルに「日本は風の名前だけでも2000もある国です」というコピーがあった。2000という数字に驚くが、しかし掲句のように名称はないが誰もが明瞭に描くことができる風がそのうえまだある。西洋に「刈りたての羊に風はやさしく吹く」の言葉があるように、頼りなくそよぐ植田に風はなでるように通り過ぎ、元気いっぱいの青田には隅々まで洗い上げるように行き渡る。幼な子が子どもになるまでのほんの束の間、そのとっておきの風は渡る。それはまるで、太陽と大地を両親に持つ苗の健やかな呼吸が、清潔で、みずみずしく、明るい風になっていくようにも思われる。その時期だけの旬の食べ物があるように、その時にしか吹かない旬の風を胸いっぱいに満たしたい。ふらんす堂自句自解2ベスト100『名村早智子』(2016)所収。(土肥あき子)




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