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April 2341997

 茶畑のずり落ちさうでずり落ちず

                           丘本風彦

われてみると、なるほど茶畑はバランス的に危うい地形の丘陵に多くある。いまにも、ずり落ちてきそうだ。同じ風景を見ても、人それぞれに感じ方は違うとは分かっていても、この句には「やられた」と思ってしまう。感じ方の差異などあっけなく乗り越えて、読者をねじ伏せるようにユーモアをまじえて説得している。いわば「コロンブスの卵」的発想の名句だろう(ただし、玄人っぽすぎるかもしれないが……)。そろそろ新茶が出回りはじめる季節。今年の作柄は、静岡茶では平年並みというニュース。(清水哲男)


April 0542000

 山門を出れば日本ぞ茶摘唄

                           田上菊舎

上菊舎(たがみ・きくしゃ)は江戸期の俳人、女性。まだ茶摘みのシーズンには早いが、くさくさすることの多い当今故、清新の気を入れたいがための選句である。読者諸兄姉には、以て諒とせられよ。この「山門」は、京は洛外宇治の黄檗山万福寺のそれ。万福寺の開祖は、明の僧・隠元である。上野さち子『女性俳句の世界』(岩波新書)によると「当時の黄檗山は、中国文化淵叢の地として文人憧憬の場であった」そうだから、建物をはじめとする万福寺の中国的雰囲気に酔った菊舎の心持ちは、十分に推察することができる。中国文化の毒気にあてられたごとくに山門まで出てきたとき、どこからともなく風に乗って聞こえてきた茶どころ宇治の「茶摘唄」。そこで彼女ははっと我に帰り、思わずもここは「日本ぞ」と口をついて出てしまった。吹き渡るみどりの風が、頬に心地よい。そして、それよりも何よりも、私は句の「日本」という言葉の美しさに注目する。ここに見られるのは、国粋主義者が信奉する「日本」でもなければ、近代の国際競合に薄汚れた「日本」でもない。絢爛たる中国文化をよしとした上での、庶民の安住の場所としての「日本」なのだ。俳句で「日本」が使われる例は少ないけれど、こういう「日本」なら今後も大歓迎したい。しかし一方で、もはやこのように美しい「日本」の言語的実現はあり得ないとも思う……。(清水哲男)


April 0242006

 濃みどりの茶摘の三時唄も出ず

                           平畑静塔

語は「茶摘」で春。まだ、摘むには少し早いかな。句は、茶摘みの人たちのおやつの時間だ。茶の葉の濃いみどりに囲まれて、みんなで小休止。お茶を飲んだりお菓子を食べたりと、それだけを見ている分にはまことに長閑で、唄のひとつも出てきそうな雰囲気に思えるのだが、実際には「唄も出ず」なのである。午前中から摘んでいるのだから、「三時」ともなればくたくたに近い。単純労働はくたびれる。夕刻までもう一踏ん張りせねばならないわけで、唄どころではないのだ。この句が出ている歳時記の「茶摘」の解説には、こういう部分がある。「宇治の茶摘女は、赤襷、赤前垂をし、紅白染分け手拭をかぶり、赤紐で茶摘籠を首にかけ、茶摘唄をうたいながら茶を摘んだ」。私はほぼ半世紀前の宇治で暮らしたが、そのころには既にこんな情景はなかった。まだ機械摘みではなかったと思う。こうした茶摘女がいたのは、いったいいつ頃までだったのだろうか。そもそも、本当に歌いながら茶摘をするのが一般的だったのか、どうか。似たような唄に「田植唄」もあるけれど、これまた労働の現場では一度も聞いたことがない。茶摘の経験はないが、歌いながら田植をするなんてことは、あの前屈みの労働のしんどさのなかでは、とうてい無理だと断言できる。したがって、この種の唄が歌われたとするならば、なんらかの祭事などにからめた儀式的労働の場においてではなかったのかと、そんなことを思う。でも、実際に聞いたことがあるという読者がおられたら、ぜひその模様をお知らせいただきたい。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 2042006

 清水次郎長が大好き一番茶

                           吉田汀史

語は「一番茶」で春、「茶摘(ちゃつみ)」に分類。摘みはじめの十五日間(4月下旬頃)に摘んだものを「一番茶」と呼び、最上とする。掲句は、そんな一番茶を喫する喜びを卒直に詠んでいる。「旅ゆけば駿河の国に茶の香り」と広沢虎造の「清水次郎長伝」で歌われたように、茶といえば駿河、駿河といえば海道一の大親分だった清水の次郎長だ。したがって、茶と次郎長は付き過ぎといえば付き過ぎだけれど、しかし付き過ぎだからこそ、作者の上機嫌がよく伝わってくるのである。次郎長の本名は山本長五郎といい、通称次郎長は次郎八方(かた)の長五郎で、相続人の意だ。幼くして悪党の評があり、家業(米穀商)のかたわら博奕に手を出し、賭場に出入りするようになる。1842年(天保13)賭場のもつれから博徒に重傷を負わせて他国に逃げ、無宿渡世に入る。浪曲や講談でのヒーローも、そう褒められた生活者ではなかったが、1868年(明治1)東海道総督府判事・伏谷如水から旧悪を許されて帯刀の特権を得、新政府の東海道探索方を命じられてからは、囚人を使役して富士の裾野を開墾したり、汽船を建造して清水港発展の糸口をつけたり、その社会活動は精力的でみるべきものが多い(藤野泰造)。明治26年病死、葬式には1000人前後の子分が参列したという。また「清水港は鬼より恐い、大政小政の声がする」とはやされたように、一昔前までは清水といえば誰もが次郎長を連想したものだが、いまではすっかり「ちびまる子ちゃん」(さくらももこ)にお株を奪われた格好になっている。『一切』(2002)所収(清水哲男)


April 1442009

 切絵師の肩にてふてふとまりけり

                           加古宗也

絵師の技を目の当たりにしたことが二度ある。一度目は、北海道の「やまざき」というバーで、マスターに横顔をするするっと切り絵で作っていただいた。白い紙を切り抜くだけで、しかしそれはたしかに似顔絵なのだった。二度目は寄席の紙切り芸で、客席からのリクエストに即座になんでも応えていた。こちらは輪郭というより、つながり合った線が繊細な形をなして、そして切り抜かれた紙もまた反転する絵になっている見事なものだった。切り絵はなにより風を嫌うため、室内の景色であり、掲句にも蝶は通常いてはならないものだ。鋏の先から繰り出される万象は、平面でありながらその細密さに驚いたり、生々しさに魅入ったりするのだが、そこへ生というにはあまりに簡単なかたちの蝶が舞っていることは、意外な偶然というより、妙な胸騒ぎを覚えることだろう。ひらひらと切絵師にまとわりつく蝶は、切絵師が作品にうっかり命を吹き込んでしまったかのように見えたに違いない。〈朝刊でくるんでありし芽うどかな〉〈快晴といふよろこびに茶を摘める〉『花の雨』(2009)所収。(土肥あき子)




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