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April 1941997

 歩かねば山吹の黄に近づけず

                           酒井弘司

流竿をリュックにしのばせ、谷を降りる。朝もやの川面に今、何か動いた。仕掛けを用意する手ももどかしい。早く、あのポイントへ第一投を。竿を納め、山道を戻る。山女に出会えたヨロコビ。山吹の黄がにわかに目に入る。俳誌「朱夏」所載。(八木幹夫)

[memo・山吹]バラ科ヤマブキ属の落葉低木。よく見かけるのでありふれた庭木と思われがちですが、植物分類学上は一属一種の珍しい植物です。学名ケリア・ヤポニカ。ケリアは英国の植物学者の名に由来し、ヤポニカは日本産の意味です。(讀売新聞・園芸欄・小西達夫・April.15.1997)


April 2541998

 眼帯の朝一眼の濃山吹

                           桂 信子

く自然に両眼で見ているときよりも、眼帯をして見るときのほうが、物の輪郭などがはっきりと見える。色彩も濃く見える。そんな気がするだけなのかもしれないが、片目の不自由な分だけ、凝視する気持ちが強いからである。作者の見ている山吹も、昨日と同じ色をしているはずなのだけれど、眼帯をした今朝は、とくに色濃く感じられている。そして作者は、色鮮やかに見える山吹の花に託して、一眼にせよ、とにかく見ることのできている自分を、まずは喜んでいるのだろう。月並みな言い方だが、健康のありがたさは、失ってみてはじめてわかるものである。ところで、私は山吹が子供のころから好きだった。田舎にいたので、そこらへんにたくさん自生していた。いまの東京では、なかなか見られないのが寂しい。いまの私が日常的に見られるのは、吉祥寺通りにある井の頭自然文化園の垣根の外に植えられたものだけだ。山吹鉄砲などとても作れないような貧弱さではあるが、毎年、ちゃんと咲いてはくれている。注意していれば、バスの窓からもちらりと見える。『晩春』(1955-1967)所収。(清水哲男)


April 1142000

 山吹や根雪の上の飛騨の径

                           前田普羅

羅は、こよなく雪を愛惜した俳人だ。根雪の径は、さぞや歩きにくいことだろう。春とはいえ、まだ寒気も厳しい。「道」でも「路」でもない、飛騨の細く曲がりくねった山「径」である。黙々と歩いていくうちに、作者は咲きそめたばかりの可憐な山吹の花を認めた。根雪の白と山吹の花の黄。目に染みる。まさに「山吹や」の感慨が、ひとりでに胸中に湧いてくるではないか。心が洗われる美しい句だ。飛騨の土地を、私はよく知らない。一度だけ飛騨高山を訪れたことがあるが、季節は初秋であった。高山で「オーク・ヴィレッジ」という木工工房を開設したばかりのIさんに会うためだった。数えてみたら、もう二十年も前のことになる。Iさんは早稲田の理工を出てから、途中で一念発起して木工の世界に飛び込んだ人。「脱サラ」のはしりと言ってもよかろうが、彼のさわやかな人柄ともあいまって、飛騨高山の自然も人情も、とても好ましかった。その折りに、百年はもつ木机を、いつか私に経済的な余裕ができたら作ってもらう約束をしたような覚えがある。でも、いまだに私はぺなぺなの既製品の机にしがみついている体たらくで、注文をする余裕を持ちえていない。句には無関係だが、以来、そんなわけで飛騨と聞くとどきりとする。『雪山』(1992)所収。(清水哲男)


April 1542003

 山吹や川よりあがる雫かな

                           斯波園女

語は「山吹」で春。東京では、いまが盛りだ。園女(そのめ)は江戸期の人、蕉門。前書に「六田渡(むだのわたし)」とあるから、奈良の吉野川下流域での句である。さて、この句はちょっと分かりにくい。ふつう「渡」というと、誰もが渡し舟を想像するだろう。「舟が出るぞ〜」の、あれである。しかし、渡し舟の「雫(しずく)」が「川よりあがる」図には無理がある。では、何の雫だろうか。急流なので、岩を噛んだ水が飛び散り、雫となって岸辺に「あが」っている図だろうか。でも、それならわざわざ前書をつけることもない。正解は「馬」である。万葉集に「馬並めてみ吉野川を見まく欲りうち越え来てぞ瀧に遊びつる」の歌も見えるように、大昔から川は馬でも渡っていた。雫の主が馬と分かると、句の情景はたちまち鮮かに浮かびあがってくる。川瀬を勢いよく渡ってきた馬が岸にあがり、びしょ濡れの胴体から飛び散る雫が、折しも満開の黄金色の山吹にざあっとかかった情景だ。まことに力強くダイナミックな詠みぷりで、春光に輝く周辺の景色までもが彷彿としてくるではないか。この句は、与謝蕪村編、千代尼序、田女跋という豪華メンバーによるアンソロジー『玉藻集』(1774年・安永三年刊)に収載されている。(清水哲男)


April 1442004

 ちぎり捨てあり山吹の花と葉と

                           波多野爽波

語は「山吹」で春。山道だろうか、それともコンクリートで舗装された都会の道だろうか。どちらでもよいと思う。いずれにしても、一枝の山吹が「ちぎり捨て」られている情景だ。しかし作者はそれを見て、心無い人の仕業に憤っているのでもなければ、可哀想にと拾い上げようとしているわけでもない。そうした感傷の心は働いていない。ただただ、打ち捨てられている山吹の生々しさに、少し大袈裟に言えば息をのんでいるのである。「花と葉と」というわざわざの念押しに、瞬時かもしれないが、凝視する作者の様子が重ねられている。このとき、たとえ近くに山吹の花が咲き乱れていようとも、最も存在感があるのはちぎり捨てられた花のほうだろう。木から落ちた果実だとか、巣からこぼれた雛だとかと同じことで、本来そこにはないはずの事物がそこに存在するときに、それらはひどく生々しく写り、思いがけない衝撃を私たちにもたらす。ときにそれらは、生臭いほどにまで生々しい。句は淡々とした写生句ながら、いや淡々と詠まれているだけに、逆に捨てられた山吹の生々しさがよく伝わってくる。主観や主情を排した写生的方法の手柄と言うべきか。作者とともに読者も、しばしこの山吹を凝視することになるのである。爽波は、初期に「写生の世界は自由闊達の世界である」と言った人だ。掲句では捨てられた山吹だけを写生しているわけだが、そのことによって、なるほど自由闊達な広い世界へと読者を誘っていく。俳句手法の持つ不思議なところでもあり、不可解なところでもあり、また魅力的なところでもある。『湯呑』(1981)所収。(清水哲男)


April 1542004

 鞦韆は垂れ罠はいま狭められ

                           藤田湘子

語は「鞦韆(しゅうせん)」で春。「ぶらんこ」のこと。古く中国から入ってきた遊具で、元来は大人のものだったという。句のそれは、現代の公園などに設置された子供用だ。うららかな春の日の昼下りだろう。誰も乗っていない鞦韆が、静かに垂れ下がっている。子供たちが学校に行っている時間に、よく見かける光景だ。静謐で平和な時間が流れている。と、ここまでは実景であるが、いきなり出てきた「罠(わな)」以降は作者のいわば心象風景だ。作者の身に、眼前の平和な情景にそぐわない、何か切迫した事情でもあったのか。それとも、あまりに平穏な光景ゆえに、かえって漠然たる不安の感情が頭をもたげたのでもあろうか。おのれ自身を、あるいは他の誰かを陥れるための「罠」が、公園のどこかに仕掛けられているような気分になってしまった。しかも、その罠が「いま」じわりと「狭められ」たような気分に……。同じ時期の句に「山吹やこの世にありて男の身」が見られるので、一家の主人たる作者の暮らしに関わっての不安材料や不安条件を、象徴的に「罠」と詠んだのかもしれない。そんなふうに作者の不安の根を忖度すると、鞦韆というまことにおおらかな遊具と、罠というまことに不気味な仕掛けとの一見突飛とも思える取り合わせが、実によく無理なく効いてくる。しかもそのうちに、作者の不安は読者のそれに乗り変わるようにも感じられてきて、いつしかうららかな春の日の公園風景が陰画と化していくようでもある。さながらボディブローを効果的に打ち込まれたように、時間の経過とともに心の重さが増してくる句だ。『一個』(1984)所収。(清水哲男)


May 0252004

 ほろほろと山吹ちるか瀧の音

                           松尾芭蕉

語は「山吹」で春。『笈の小文』所収の句で、前書に「西河(にしこう)」とある。現在の奈良県吉野郡川上村西河、吉野川の上流地域だ。この「瀧(たき)」は吉野大滝と言われるが、華厳の滝のように真っ直ぐに水の落下する滝ではなくて、滝のように瀬音が激しいところからの命名らしい(私は訪れたことがないので、資料からの推測でしかないけれど)。青葉若葉につつまれた山路を行く作者は、耳をろうせんばかりの「瀧の音」のなか、岸辺で静かに散っている山吹を認めた。このときに「ほろほろと」という擬態語が、「ちるか」の詠嘆に照応して実によく効いている。「はらはらと」ではなく、山吹は確かに「ほろほろと」散るのである。散るというよりも、こぼれるという感じだ。吉野といえば山桜の名所で有名だが、別の場所(真蹟自画賛)で芭蕉は書いている。「きしの山吹とよみけむ、よしのゝ川かみこそみなやまぶきなれ。しかも一重(ひとえ)に咲こぼれて、あはれにみえ侍るぞ、櫻にもをさをさを(お)とるまじきや」。現在でも川上村のホームページを見ると、山吹の里であることが知れる。「ほろほろと」に戻れば、この実感は、よほどゆったりとした時間が流れていないと感得できないだろう。その意味では、せかせかした現代社会のなかでは、もはや死語に近い言葉かもしれない。せめてこの大型連休中には、なんとか「ほろほろと」を実感したいものだが、考えてみると、この願望の発想自体に既にせかせかとした時間の観念が含まれている。(清水哲男)


April 0542006

 濃山吹墨をすりつゝ流し目に

                           松本たかし

語は「山吹」で春。「濃山吹」は、八重の花の濃い黄色のものを言う。陽気が良いので障子を開け放っているのか、それとも閉め切った障子のガラス窓から表が見えるのか、作者は和室で「墨」をすっている。代々宝生流の能役者の家に育った人(生来の病弱のために、能役者になることは適わなかった)なので、墨をするとはいっても、何か特別なことをしようとしているわけではない。日課のようなものである。そんな日常を繰り返しているうちに、今年もまた山吹の咲く頃になった。春だなあ。庭の奥のほうに咲いた黄色い花を認めて、作者は何度も手元の硯からちょっと目を離しては、花に「流し目」をくれている。「流し目に」というのだから、顔はあくまでも硯に向けられたままなのだ。いかに山吹が気になっているかを、この言葉が簡潔に表現している。真っ黒な硯と濃い黄色の花との間を、目が行ったり来たりしているわけだが、この二つの色彩のコントラストが実に鮮やかで印象深い。句を眺めているうちに、作者のする墨の匂いまでが漂ってくるような……。春を迎えた喜びが、静かで落ち着いた句調のなかにじわりと滲み出ているところは、この作者ならではであろう。東京の山吹は、桜同様に今年は早く、そろそろ満開である。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


February 2122007

 寄席の木戸あいて春めく日なりけり

                           入船亭扇橋

席の客席は映画館や劇場とちがって真っ暗ではない。薄明かりのなかで、白昼から三味線が鳴り、鉦太鼓が響き、亭内には赤い提灯がずらり。そのうえ笑いが絶えない。こんなスペースは他にはない。寒さがゆるんでくる時季になれば、亭内の空気も一層やわらいでくる。客の身なりも然り。以前ならば、「らっしゃいー」という木戸番の爺さんの威勢のいい声が、雰囲気を盛りあげていた。木戸をくぐれば、笑いもどこやら春めいてやわらぎを増し、高座の演し物も春にふさわしい噺がならぶ。いつも楽屋入りしている落語家が、木戸をあけて出入りする客にふと春めいた気配を感じとったのだろう。「さて、今日あたりは『長屋の花見』でも伺うか・・・・」とか。高座にも客席にも、ぬくい空気がふくらみを広がってくる結構な時季である。楽屋でも春めいた洒落が立ったり座ったりしているにちがいない。掲出句はそうした“春”をさらりと詠んで、屈託ない。九代目扇橋は名人桂三木助(三代目)に入門した。句歴は古く、すでに小学校6年生の頃に運座に参加して、商品に団扇や味噌をもらったりしていた。十代で「馬酔木」に投句。秋桜子編『季語集』には「溝蕎麦の花淡し吾が立つ影も」「山吹に少女の雨具透きとほる」の二句が収載されている。俳号は光石。現在、東京やなぎ句会の宗匠。俳句については「喜び、悲しみ、笑い、叫び、怒り、憎しみ、たわむれ――すべてをすっぽり包み込んでしまう俳句は、本当に偉大な風呂敷である」と書く。今も元気でまめに寄席に出演し、飄々とした枯淡の味わいが、独自の滑稽味をにじませている。『扇橋歳時記』(1990)所収。(八木忠栄)


May 2352014

 ちぎり捨てあり山吹の花と葉と

                           波多野爽波

祇に「山吹や葉に花に葉に花に葉に」の句がある。山吹の花が咲いている様子を描写したものだ。爽波の句は、太祇の句を思い出させるが、情景は全く異なっている。爽波の句は山吹の花と葉が、ちぎり捨ててある情景を詠っている。意味的には、「山吹の花と葉とちぎり捨てあり」だが、定型に収まるように、倒置法を用いている。前半の「ちぎり捨てあり」で一呼吸休止して、「山吹の花と葉」がおもむろに提示される。爽波写生句の代表作である。『湯呑』(昭和56年)所収。(中岡毅雄)


February 2822016

 山吹にしぶきたかぶる雪解滝

                           前田普羅

月末に、正津勉著『山水の飄客 前田普羅』(アーツアンドクラフツ)が上梓されました。大正初期に頭角を現してきた虚子門四天王に、村上鬼城、飯田蛇笏、原石鼎、そして、前田普羅がいます。しかし、他の三人が著名なのに比べて普羅の名は知られておらず、また、秀句が多いのにもかかわらず手に入りやすい句集がなく、その句業や生涯についても謎めいたところのある人です。この本は、俳壇において日陰者の境涯に追いやられてきた普羅の生涯に光を当て、また、年代順に取りあげられた句には普羅自身の自解も多くほどこされており、しばしば膝を打ちながら読みました。たとえば、句作に日が浅い29歳(大正1)の作に「面体をつつめど二月役者かな」があって、これなどは自解があってようやく腑に落ちます。「町を宗十郎頭巾をかぶつた男が通る。幾ら頭巾で面体を隠しても、隠せないのは体から滲み出る艶つぽさだ。役者が通る、役者が通る。見つけた人から人に町の人はささやく。暖かさ、艶やかさを押しかくした二月と、人に見られるのを嫌つて面体をつつんだ役者の中に、一脈の通ずるものを見た」と説明されて、ここの舞台は横浜ですが、江戸と文明開化がさほど遠くないご時世をも伝えてくれています。この小粋な中に屈折した句作は、渓谷をめぐり始めることによって「静かに静かに、心ゆくままに、降りかかる大自然に身を打ちつけて得た句があると云ふのみである」(『普羅句集』序・昭和5)と宣言して、山水に全身で入り込む飄客となっていきます。掲句はその中の一つ。「山吹/しぶき/たかぶる」の三つのbu音が、「雪解滝」のgeとdaに連なって、早春の滝のしぶきの冷たい飛沫を轟音の濁音で過剰に描出しつつも、山吹を定点に据えることによって画角がぶれていません。動には静がなければ落ちが着かないということでしょう。掲句を、肌と耳の嘱目ととりました。この本から、普羅は山吹に思い入れのある俳人であることも知り、その佳句は多く、「鷹と鳶闘ひ落ちぬ濃山吹」「山吹の黄葉ひらひら山眠る」「青々と山吹冬を越さんとす」がつづきます。(小笠原高志)




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