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April 0941997

 入園児父が与へし名を胸に

                           船津りん一

が子の幼稚園入園。両親の喜びは同じようでもあるが、しかし、この句のように少し違う場合もある。生まれたとき、あれこれ考えたあげくに苦心してつけた子供の名前が、やっと社会的に自立するときが来たのだから、誇らしく思えるのである。と同時に、少々こそばゆいような感じもある。だから、この複雑な思いをストレートに妻に告げる夫は、なかなかいないだろう。かくて、ここにこのような詩ができ、歌ができたわけである。(清水哲男)


April 0641998

 薮の小家より入学の児が出て来

                           村山古郷

蔭の小さな家。ふだんは人の気配もあまりないのだろう。老夫婦がひっそりと暮らしているような趣きの家だ。そんな家から、いきなりピカピカの一年生が飛び出してきた。この意外性に、作者は一瞬驚いたのだが、すぐになんだか嬉しい気持ちのわいてくる自分を感じている。この瞬間から、作者のこの小家に対する感じ方は、大きく変わったことだろう。今日は全国各地で入学式が行われる。石川桂郎に「入学の吾子人前に押し出だす」があるが、たぶん私も押しだされたクチである。内気を絵に描いたような子供だった。入学のとき、桜が咲いていたのかどうか、まったく覚えていない。敗戦の一年前のことで、入学後は警戒警報のサイレンが鳴るたびに、頭上にアメリカの偵察機や爆撃機を見ながら下校するというのが日常であった。すなわち、我らの世代は、小学校もロクに出ていないのである。(清水哲男)


April 0642000

 畝はしづかに集まり隆まり入学す

                           大槻紀奴夫

の春も、おびただしい数の「入学」句が作られるのだろう。ただし失礼ながら、そのほとんどは「親ばか」句で占められるだろう。作者の気持ちはわかる。が、俳句として第三者の鑑賞に耐えうる作品となると、なかなかお目にかかれない。数多の歳時記を繙いても、たくさん作られている割には例句も少ないし、佳句も寥々たる始末だ。そんななかで、掲句は群を抜いて高いレベルにあると思う。昔の「しづかな」農村の「しづかな」入学風景だ。子供の緊張や親の喜びを直接に詠まずに、学校までの道筋の様子を淡々と描いている。淡々と描いたことにより、かえって「入学」の緊張や喜びが、よく伝わってくる。このとき、田畑の畝(うね)の起伏は、入学児とその親が学校まで歩いていく途中の風景そのままの変化である。と同時に、歩いていく者の胸中の変化でもある。畝が隆まりきったところに学校があり、校門をくぐる者の胸の内の隆まりも、そこでピークに達する。そこで、作者と入学児は別々に定められた場所に別れるわけで、途端に句は「入学す」と落着した……。けだし、「入学」句中の白眉と言うべきだろう。『角川版・俳句歳時記』(1974)所載。(清水哲男)


April 0742001

 銀行に口座開きて入学す

                           堀之内和子

元を遠く離れての大学「入学」だ。仕送りを受けとるために、銀行に口座を開いた。生まれてはじめて自分名義の口座を開き、ぐんと大人になった気分である。独り住まいをはじめるときには、いろいろと揃えなければならないが、いまや銀行口座もその一つというわけだ。アルバイトの賃金も、銀行振り込みが普通だろう。とくに私などの世代には、とても新鮮に感じられる句だ。昭和三十年代の前半に入学した我等の世代には、銀行は遠い存在でしかなかった。いかめしい建物のなかで、ぜんたい何が行われているのかも知らなかった。学生時代には、用事などないから一度も入ったことはない。漠然と、生涯無縁な建物だろうくらいに思っていた。当時の仕送りは、現金書留が普通。配達してくれる郵便屋さんが、神々しく見えた(笑)。貯金するほどの額ではないから、銀行はもとより、切手や葉書を買いに行く郵便局の貯金の窓口とも無縁であった。社会人になってから、生まれてはじめての原稿料を小切手でもらったときに、横線小切手の意味もわからず、それこそはじめての銀行の窓口で赤恥をかいたことがある。給料も現金支給の時代だったので、そんなことでも起きないかぎり、銀行とは没交渉のままでもよかったのだ。学生の分際(失礼)で銀行口座を開くのが一般化したのは、70年代に入ったころからだろうか。こういう句を読むと、つくづく古い人間になったなと思う。『新大日本歳時記・春』(2000)所載。(清水哲男)


April 0642002

 入学児脱ぎちらしたる汗稚く

                           飯田龍太

て、週明けの八日月曜日には、多くの小学校で入学式が行われる。人生でいちばん誰もが学校好きであるのは、この時期の子供らだ。つい最近、福田甲子雄氏から、労作『蛇笏・龍太の山河』(山梨日日新聞社)をご恵贈いただいた。むろん当方は福田さんの作品を存じ上げているのだが、一度もお目にかかったことはない。しかし、当歳時記の存在をご存知の上でのことだろうと思った。ありがたいことです。副題に「四季の一句」とあるように、長い間師事された蛇笏と龍太の句を十二ヶ月に分類して、一句ずつに短い鑑賞文をつけておられる。掲句の観賞は、次のようだ。「近ごろ小学校の入学式は四月一日と限らないようだが、この句の時代は一日と決まっていた。入学児童が家に帰り早速、服やズボンを脱ぎちらし解放感を味わう。その衣服から幼い汗の匂い。『稚く(わかく)』の把握に感性の資質を見る。昭和26年作」。忘れていた。となれば、私の戦時中の入学も四月一日だったのか。覚えているのは、校庭で記念の集合写真を撮るときに、机だったか椅子だったか、その上に乗ったときにグラグラして「いやだなあ」と思ったことだけだ。それはともかく、子供の汗の匂いで入学を寿ぐ作者の気持ちは、素直に受け止められる。誰も書かなかったことだけれど、むしろ人の親ならば誰しもが実感する嬉しい気分だと思う。それをこのように表現するか、どうか。なるほど「感性の資質」から出たと言うしかない句かもしれない。(清水哲男)


March 0832003

 哲学科に入学の甥と詩の話

                           森尻禮子

語は「入学」で春。どんな話をしたのだろう。いささか気にはなるけれど、話の中身は作者が言いたいこととは、ほとんど関係はない。「哲学科」と「詩」との取りあわせから、何か生硬な言葉で「甥」が熱心に話している姿が想像できる。句としては、それで十分だ。掲句で作者が言いたいのは、彼の急速な成長ぶりである。ついこの間までは、ほんのちっちゃな子供でしかなかったのに、いつの間にか、こうして大学生になり、しかも詩の話までできるようになった。話はひどく理屈っぽいにしても、その理屈っぽさがとても嬉しく喜ばしいと、作者は目を細めている。身内ならではの感懐である。かつての私も一応「哲学科」に籍を置き「詩」を書いていたので、この「甥」の立場にあったわけだ。幸いにして(?!)、詩のことを話せる伯母(叔母)さんはいなかったのだが、この句に出会ったときには、赤面しそうになった。身内以外の人になら、いくらでも生硬な言葉で話したことがあるからだ。難解な言葉に憧れ、覚えるとすぐに使ってみたくなるのだった。その点で、哲学科は難解語の宝庫だからして、仕入れには困らなかった。西田幾多郎や田辺元の文章をせっせと引き写したノートの一冊を、まだ残してある。青春のかたみという思いもあるにはあるが、何事かを語るに際しての自戒のためという気持ちのほうが強い。『星彦』(2001)所収。(清水哲男)


April 0542004

 入学す戦後飢餓の日生れし子

                           上野 泰

語は「入学」。戦後八年目四月の句だから、入学した子はまさに「飢餓の日」に生まれている。たいへんな食糧難の日々だった。母親の体力は消耗していたろうし、粉ミルクなども満足に手に入らなかったろうし、その他種々の悪条件のなかでの子育てはさぞかし大変なことだったろう。そんな苦労を重ねて育てた子が、今日晴れて入学式を迎えたのだ。作者の父親としての喜びが、じわりと伝わってくる。同じ日の句に「一本の前歯がぬけて入学す」もあり、ユーモラスな図でありながら、前歯がぬけかわるまでに成長したことを喜ぶ親心がしんみりと滲んでいる。ひとり作者にかぎらず、これらは当時の親すべてに共通して当てはまる感慨だ。共通するといえば、どんなに時代が変わっても、とりわけて第一子が入学するときの親の気持ちには、子供が生まれたころの日々の暮らしのことがおのずから想起されるものである。なにせ当たり前のことながら新米の親だったわけだから、赤ん坊についてはわからないことだらけ。ちょっと様子が変だと思うと、育児の本だとか家庭医学書などのページを繰ったりして、ああでもないこうでもあろうかと苦労させられた。加えて、これからの暮らし向きの心配もいろいろとあった。それが、とにもかくにも入学の日を迎えたのだ。やっと人生のスタートラインに立ったにすぎないのだけれど、親にしてみれば何か大きな事業をなしとげたような気にすらなるものなのだ。今年もそんな親たちの感慨を背景にして、全国でたくさんの一年生が誕生する。この子たちの人生に幸多かれと、素直に祈らずにはいられない。『春潮』(1955)所収。(清水哲男)


April 0742005

 ンの字もソの字も同じ入学す

                           中野寿郎

語は「入学」で春。ははは。「ン」と「ソ」は確かに似ているし、書き順を同じにすると、どっちがどっちなのか区別がつかない。まごまごしているうちに、晴れて小学校入学ということになってしまった。そんな幼いころを、自嘲というほどではないけれど、微苦笑しながら振り返っている。入学の句というと、圧倒的に我が子のそれを詠んだものが多いなかで、掲句は自分の入学を詠んでいて珍しい。一見我が子の句としても通用しそうだが、戦後の小学国語では平仮名表記から教えるから、これは片仮名を先に教えた敗戦以前に入学した人の句と解釈すべきなのだ。他ならぬ私の入学も、敗戦の一年前だった。「ン」と「ソ」の区別に悩まされたクチである。だから、作者の気持ちはよくわかる。「エ」と「ヱ」の書き分けにも戸惑ったし、「イ」と「ヰ」の使い分け方なんてさっぱり理解できなかった。おまけに「清水」という苗字の仮名表記が、なぜ「シミズ」ではなくて「シミヅ」なのであるか。それがまた戦後になると、ころりと逆転して「シミズ」と書けと言われては、何がなんだか……と、かなり目の前が暗くなった。いまひとつ国語になじめなかったのは、案外こんなところに原因があったのかもしれないと思う。全国的に、昨日今日あたりが入学式のピークだろう。いまの子供たちは、どんなことにまごつきながら入学するのだろうか。江國滋『微苦笑俳句コレクション』(1994)所載。(清水哲男)


March 1532006

 アドバルーンの字が讀めて入學近し

                           小高章愛

語は「入學(学)」で春。入学児を持つ家庭では、とくにそれがいちばん上の子である場合には、なんとなくそわそわするような時期になってきた。真新しいランドセルや教材、制服や帽子など、いろいろなものが揃ってくると、当人よりも親のほうが緊張してくる感じである。子供はなんだか遊園地にでも出かける気分でいるのだろうが、親として最も心配なのは、入学の後に控えている勉強のことだ。べつに抜群に勉強ができなくてもよいとは思うけれど、やはりまあまあの人並みくらいにはできて欲しいと思うのが親心だろう。そんな心持ちでいるから、たまさか我が子が「アドバルーン」の広告文字を苦もなく読んだりすると、頭は悪くない証拠だと安心もするし、それ以上に欲が出て少し余計な期待もしてしまいがちだ。と、このようなことを思いめぐらして、掲句の作者は入学児の父親だろうとはじめは思ったのだけれど、そうではなさそうだと思い直した。詠まれている内容は父親の内心そのものではあったとしても、普通に考えてみて、父たる者がそれをわざわざ句にして他人に見せるようなことはしないであろうからだ。こういうことを気軽に口にしたり句にしたりできるのは、十中八九祖父であるに違いない。孫自慢は一般的だが、子供自慢はあまり歓迎されないということもある。そう思って読み返してみると、このおじいちゃんもどこかで遊園地にでも出かける気分になっているようで、微苦笑を誘われる。晴れて入学の日には、おそらく作者も張り切って校門をくぐったことだろう。それにしても入学式当日の句は多いのに、いろいろ探してみたが、「入學近し」の句はありそうでなかなかないことがわかった。『俳句歳時記・春の部』(1955・角川文庫)所収。(清水哲男)


April 0642006

 夭折のさだめと知らず入学す

                           秋山卓三

語は「入学」で春。私の住む三鷹市では、今日が小学校の入学式だ。少し散ってしまってはいるが、校庭の桜はまだかなり残っているので、花の下での記念写真は大丈夫そうだ。全国で、今年も元気な一年生が誕生する。掲句を読んで、すぐに長部日出雄の書いた『天才監督・木下恵介』を思い出した。現実の話ではないが、長部さんは木下監督の撮った『二十四の瞳』の入学シーンを、何度見ても涙がわいてきて仕方がないという。教室で先生が名前を呼ぶと、ひとりひとりの新一年生がはりきって元気に返事をする場面だ。そこだけをとれば、何の変哲もない普通の入学風景でしかないのだが、長部さんは何度も映画を見て、そのひとりひとりの子供の近未来の運命を知ってしまっているので平常心ではいられないというわけである。それらの子供のなかには、まさに戦場で「夭折(ようせつ)」する男の子も何人か含まれている。そんな「さだめ」とは知らずに、活発な返事を返す子供たち。これが泣かずにいられようか。掲句の作者は、そうした同級生の「さだめ」を現実に見てきたのだろう。かつての入学時に席を並べた友人の何人かが、待ち受けている暗い運命も知らずに無邪気に振る舞っていた姿を思い出して、やりきれない想いに沈んでいる。そしてその想いは、毎年この季節になると、必ず戻ってくるのだ。だから、いまどきの一年生の元気な姿を見かけても、おそらくは明るい気持ちばかりにはなっておられず、いわれなき暗く哀しい気持ちが、ふっと胸をよぎることもあるに違いない。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


June 0862007

 わが金魚死せり初めてわが手にとる

                           橋本美代子

魚が死んだ。長い間飼っていたので犬や猫と同様家族の一員として存在してきた。死んだ金魚を初めて掌に乗せた。触れることで癒されたり癒したりするペットと違って、一度も触れ合うことのない付き合いだったから、死んで初めて触れ合うことが出来たのだった。空気の中に生きる我等と、水中に生きる彼等の生きる場所の違いが切なく感じられる。この金魚は季題の本意を負わない。夏という季節は意味内容に関連してこない。この句のテーマは「初めてわが手にとる」。季題はあるけれど季節感はない。そこに狙いはないのである。もうひとつ、この素気ない読者を突き放すような下句は山口誓子の文体。「空蝉を妹が手にせり欲しと思ふ」「新入生靴むすぶ顔の充血する」の書き方を踏襲する。誓子は情感を押し付けない。切れ字で見せ場を強調しない。下句の字余りの終止形は自分の実感を自分で確認して充足している体である。作者のモノローグを読者は強く意識させられ自分の方を向かない述懐に惹き入れられる。橋本多佳子の「時計直り来たれり家を露とりまく」も同じ。誓子の文体が脈々と繋がっている。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


March 2832008

 入学児に鼻紙折りて持たせけり

                           杉田久女

の句、「折りて」が才能。言われてみると子どもに持たせるんだからそりゃあ折って渡すだろうと思うかも知れないが、俳句を作る段になれば言える表現ではない。努力では到達できない表現だろう。庶民の多くの階層に自己表現への道を拓いた虚子は女性には台所俳句と呼ばれた卑近な日常を詠むことを説いた。「もの」を写す「写生」ではなく、倫理観の方を優先させて良妻賢母の在り方を自己主張するように導いたのである。虚子がというより当時の社会がそういう「女」を求めたからだ。妻として母として自分が如何に健気に自分を殺して生きているか。当時の女流作品の多くはそんな世界が主流であった。入学児に鼻紙を持たせるのは母親としての愛情とあるべき配慮。ここまでが基準課題の合格点。ここからが才能である。久女は当時の男社会が要求する「女性らしさ」の定番を易々とクリアしてみせつつ、「折りて」に定番を超えた「自己」を噴出させる。講談社版『日本大歳時記』(1982)所載。(今井 聖)


April 0542011

 入学写真いつも誰かがよそ見して

                           樋笠 文

つどんな写真でも、きれいな笑顔で写る知人にコツを聞いたことがある。秘訣は単純明快。「まばたきをしない」だった。そんなことが可能なのかと思うのだが、集合写真のときなどは「はい、撮りますよ」の掛け声まで目をつぶっているくらいでよいのだと言う。たしかに「いい顔」は長くは続かない。子どもであればなおさらだろう。隣の子が笑わせたり、後ろの子に髪を引っ張られたり、少しぼんやりしていたり。それにしても、全員きちんと正面を向いている集合写真が果たして必要なのかと、ふと思う。公平を旨とする現代では、皆同じ分量で写っていることが重要なのだろうか。うわの空だったり、俯いていたり、泣きべそかいていたり、そんな瞬間を切り取った集合写真の方が、時代を経たのちに記念になったりするのではないだろうか。それでも先生は毎年半分あきらめながら、あの手この手でカメラへ集中させようとする。そして、今日の入学式にもきっと誰かがよそ見をしていることだろう。俳人協会自註現代俳句シリーズ『樋笠文集』(1981年)所収。作者は小学校の先生。〈初蝶を入るる校門開きけり〉〈風光るジャングルジムに児が鈴生〉など明るく多彩。(土肥あき子)


March 2732012

 街に出てなほ卒業の群解かず

                           福島 胖

業という言葉には、これまでの生き方をまるごと認めて送り出す賞賛の拍手が込められている。叱られてばかりの学生生活でも、締めくくりはかくもおだやかな祝福に包まれる。神妙に揃えていた手足も、頬を伝った涙も、格式張った会場から出ればいつも通りに仲間と軽口を叩き、笑い合うことができる。青春のエネルギーはときとして辟易することもあるが、小鳥のさえずりや、雨上がりの芽吹きのように清々しく頼もしいものだ。このところテレビから繰り返し流れる「友よ、思い出より輝いてる明日を信じよう」(『GIVE ME FIVE!』歌:AKB48/作詞:秋本康)の歌詞の通り、若者は変化する環境に次々と順応できる。歌は「卒業とは出口じゃなく入口」と続く。卒業生たちは、来月にはあらためて新入生、新社員へと名を変える。出口に続く入口の直前まで仲間と群れている様子は、水にインクを落した直後、均一な濃度として溶け込むまでのわずかの間のふるえるような色合いに似る。おおかたの大人は、この無邪気な喜びののちに待つさまざまな苦労や、かつて自分にもあったこんな日を重ね、まぶしいような、切ないような複雑な気持ちになるものだ。そんな視線などものともせず、卒業式を終えた一群は元気に街へと繰り出していく。明日へ向かう躊躇のない一歩に心からのエールを。おめでとう!〈恋をしにゆく老猫を励ましぬ〉〈一人だけ口とがらせて入学す〉『源は富士』(1984)所収。(土肥あき子)


August 1782012

 質問の多き耳順の新入生

                           廣川坊太郎

十にして耳順(したが)う。論語の中の言葉。この新入生は六十歳にして入学してきた。放送大学か通信教育のスクーリングか。入学の季節は春か秋か。そんなことはどっちでもいい。六十歳の新入生が先生に質問を繰返す。質問の多さはこの新入生の熱意をあらわす。わからないことは訊くのだ。肉体年齢の先は見えている。恥もひったくれもない。四十歳を過ぎてカルチャースクールにシナリオの書き方を習いに行ったことがある。課題に四苦八苦している同じような年齢の僕らに師が言った。「不思議だ。君たちはどうしてもっと焦らないのか」。やらなければならないことが山ほどある。どれから手をつけたらいいのかもわからないほどのとてつもない量だ。やってもやっても追いつかない。六十にもなって偉いねという句ではない。この生徒の切実さが身に沁みて哀しい。この句も面白うてやがて悲しきだ。「横浜俳句鍛錬会報・2012年6月」所載。(今井 聖)


April 0142013

 入学式の真中何か落ちる音

                           衣斐しづ子

賓などの祝辞や挨拶がつづくなか、静かな入学式場の真ん中あたりから、いきなり何かが落ちた音がした。一瞬ざわめきのように周囲の空気が揺れて、しかしその後は何事もなかったように、式が進行していく。いったい、何がどんな弾みで落下したのか。しばらく気にしていた作者も、やがてそんなことは忘れてしまう。が、後に入学式のことを思い出すたびに、必ずこの不思議な音も思い出すのだから、すっかり忘れてしまったというわけではない。いや、年月を経るにつれて、だんだん思い出すのはこの音のことばかりになってきた。こういうことは、記憶のメカニズムにはありがちだろう。小学校から大学まで、私も入学式には出席したけれど、式のメインである校歌斉唱や祝辞などは何一つ覚えていない。覚えているのは、記念撮影のときに乗った教壇がいまにも壊れそうに古ぼけていたこととか……。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所収。(清水哲男)


April 0742015

 一人だけ口とがらせて入学す

                           福島 胖

学校、中学校、高校、大学と進学するごとに入学式を体験するが、期待と不安でこれほど胸を高鳴らせるのはやはり初めての入学式である小学校をおいてないだろう。みんなで遊ぶことが主だった幼稚園から、勉強する目的の小学校への入学は、子どもの心にどれほど大きな不安を感じさせることだろう。一年生になるためにランドセルを買ってもらい、自分だけが使う文房具が揃えられ、返事の練習などさせられてみたり、家庭のなかでもそこかしこでもそこかしこでプレッシャーが与えられる。一方、親はよその子と同じように元気に小学生になってくれたことが嬉しくて仕方がない。そんな晴れがましい場で、笑顔で胸を張る新一年生のなかでただ一人、わが子だけが不機嫌に口をとがらせているのを目撃してはっとする。いつもの癖かもしれないし、緊張からなるものかもしれない。それを微笑ましいとするか、落胆するかは親次第。昨日は多くの小学校で入学式が行われた。どこの会場でも口をとがらせたり、袖のボタンを噛んだりして、親をはらはらさせている新一年生がいたことだろう。『源は富士』(1984)所収。(土肥あき子)




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