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April 0441997

 考へてをらない蝌蚪の頭かな

                           後藤比奈夫

(かと)はお玉杓子、つまり蛙の子のこと。たしかに頭が大きくて、人間でいえば秀才タイプに属しそうだが、さにあらず。こいつらは何も「考へてをらない」のだと思うと、ひとりでに微笑がわいてくる。楽しくなる。しかし、その何も「考へてをらない」蛙の子に、最前からじいっと見入っている俺は、はたして何かをちゃんと考えているのだろうか。蝌蚪の泳ぐ水にうつっている自分の顔を、ちらりと盗み見してみたりする。(清水哲男)


April 1941999

 雨上る雲あたたかに蝌蚪の水

                           松村蒼石

蚪(かと)は「おたまじゃくし」のこと。この季節、水の入った田圃(たんぼ)などには、無数のおたまじゃくしが群れている。かがんで眺めていると、時の経つのも忘れてしまうくらいだ。雨上がりのやわらかい陽射しのなかで、作者はそうして、しばし眺め入ったのであろう。水底にはおたまじゃくしの黒い影がちろちろと動き回り、水面には白い雲の姿が映ってゆったりと流れている。いかにも春らしい至福のひとときである。昭和十二年(1937)の作。そういえば、私が子供だった頃には、何かというと道端でしゃがんだ記憶がある。おたまじゃくしやミズスマシやメダカなどの生き物を見る他にも、田圃に撒かれた石灰が泡を吹いている様子だとか、包丁を研いだり鋸(のこぎり)の目立てをやっている人の手付きなどを、しゃがみこんでは飽かず眺めていた。ひるがえって、いまの子供たちはしゃがまない。第一、しゃがんでまで見るようなものがない。コンビニの前などでしゃがんでいるのは高校生や大学生だが、彼らは別に何かを見ているというのではないだろう。『寒鴬抄』(1950)所収。(清水哲男)


April 2042000

 蝌蚪の辺に胎児をささぐごとくたつ

                           佐藤鬼房

蚪(かと)は「蛙の子」、つまり「おたまじゃくし」のこと。なにせ俳句は短い詩だから、使う言葉も短いほうが好まれる。たとえば「かいつぶり」は五音だが、「にお(鳰)」と言い換えれば二音でまかなえるし、「ベースボール」は「野球」という翻訳語を使って同様に節約する。要するに漢語表現を珍重するわけで、それも少々使い過ぎで、日常用語としては通じない言葉までもが多用されてきている。さしずめ「蝌蚪」などは、その好例だろう。「おたまじゃくし」を見て「あっ、蝌蚪だ」と反応するのは、俳句趣味を持ちあわせている人くらいのものである。このあたりは、今後の俳句の考えどころだ。さて掲句だが、妊婦である妻とおたまじゃくしを見ている作者の感慨だ。「ささぐごとく」に、句の命がある。妊婦が足許あたりをのぞき込むときに、そおっと下腹に両手をそえるのは自然体だ。その姿を見て、作者は「ささぐごとく」と言っている。ここには妻への思いやりの心が溢れているし、蛙の子という生命体と「胎児」というまだ見ぬ生命体に共通する「命」への賛歌が奏でられている。地味だが、命の芽吹く春にふさわしい佳句と言えよう。『名もなき日夜』(1951)所収。(清水哲男)


March 1732001

 「思わしくない」などまだ無心蝌蚪とりに

                           古沢太穂

書に「通信簿をもらってきた柊ちゃん」とある。ご長男の名前が「柊一」君。小学校一年生の一年を締めくくる通信簿に「思わしくない」という評価があった。でも、柊ちゃんはそんな成績にも無頓着で、いつものようにさっさと「蝌蚪(かと・おたまじゃくし)」をとりに、表に飛び出していってしまった。その「無心」に微笑しつつも、しかし親としてはやはり「思わしくない」が気になって、あらためて通信簿に眺め入るのである。句が作られたのは、1950年代のはじめのころ。まだ「思わしくない」などという厳しい表現による評価項目があったのかと、ちょっと驚いた。その後は、いつのころからか「がんばろう」などのマイルドな表現に変わっていったはずだ。むろん五段階評価それ自体に変わりはないのだが、一年生にはともかく、上級の子らに「思わしくない」評価には辛いものがあったのではなかろうか。私が一年生のときには「優」「良上」「良」「良下」「可」の五段階だった。柊ちゃんとは違って、何故か成績をよく覚えている。「修身」の「良上」を除いて、あとは全部「良」だった。紫色のゴム印で押してあった。後に中学二年時の数字評価の「オール3」を獲得する素地は「栴檀は双葉より芳し(笑)」で、早くも一年生で芽生えていたというわけだ。高校生三年生のときに、すぐ後ろの席にいたH君の成績表を見せてもらったことがある。「オール5」だった。他人のものながら、あんなに気持ちの良い成績表を見たのは、あのとき一回きりである。彼は学校が禁じた(そんな時代もあったのだ)映画『不良少女モニカ』を見に行くような一面もあって面白い男だったが、涼しい顔ですんなりと東大に入っていった。ところで、その後の柊ちゃんはどうしたろうか……。『古沢太穂句集』(1955)所収。(清水哲男)


March 0532002

 山刀伐の山田ひそかに蝌蚪育つ

                           鈴木精一郎

語は「蝌蚪(かと)」で春。おたまじゃくし。古体篆字(てんじ)の称。中国の上古に、竹簡に漆(うるし)汁をつけて文字を書いたもの。竹は硬く漆は粘っているので、文字の線が頭大きく尾小さく、おたまじゃくしの形に似ていたところからの名[広辞苑第五版]。「山刀伐(なたぎり)」という言葉は、この句で初めて知ったのだけれど、たぶん山刀で周辺の雑木や薮を伐採することだろうと読んでおく。小さな山あいの田圃、すなわち「山田」の周辺には、春先、雑木や雑草の類が田圃の端に覆いかぶさるように生えかかっているので、これからの農作業には何かと邪魔になる。そこで作者は、それらをなぎ払うようにして伐採しているのだ。森閑とした山田の周辺に響いているのは、作者が山刀を振るっている音のみである。一呼吸入れるために手を休めれば、あたりは静寂そのものとなる。ふと見ると、田圃のそこここの水たまりには、生まれたばかりのおたまじゃくしの群れが、ちらちらと春光のなかに影を引いている。まったき静けさのなかで、音もなく育っている生き物の影を認めて作者は微笑し、再び山刀を振るう。早春の山中での一景。しいんとした田舎の自然の味わいが、よく伝わってくる。少年時代を、私はいま思い出している。『青』(2000)所収。(清水哲男)

★「山刀伐」について数名の読者の方より、芭蕉が奥の細道で難渋した「山刀伐峠」のことではないかとのご指摘がありました。早速手元の百科事典で調べてみましたら、このような記述が……。「山形県北東部、尾花沢市と最上郡最上町の境にある峠。標高510メートル。藩政期には村山地方と盛岡藩領、仙台藩領を結ぶ重要な街道で、1689年(元禄2)芭蕉はこの峠を越えて尾花沢へ入った。現在、「奥の細道山刀伐峠」の石碑があり、峠付近は奥の細道探勝路となっている」。掲句の作者が山形の人であることを考え合わせると、この峠のことを指しているのに、ほぼ間違いはないでしょう。つまり、私が大間違いをしたわけで、まことに申し訳ないことでした。『おくの細道』は何度も読んでいるのに、なぜ気がつかなかったのかと、気になってそちらを当たってみましたら「山刀伐峠」という地名は出ていませんでした。ただ、その峠の剣呑な様子の描写があるだけ。尾花沢へのルートを知る人には地名がわかるのでしょうが、原文だけからはわからないはずです。というようなことで、上記の文章は「誤読記念」としてそのままにしておきたいと思います。ご指摘いただいたみなさま、ありがとうございました。


March 2232003

 蝌蚪生れて月のさざなみ広げたる

                           峯尾文世

語は「蝌蚪(かと)」で春。蝌も蚪も杓のかたちをした生き物で、蛙の幼生の「オタマジャクシ」のことを言う。さて、いきなり余談になるが、井の頭自然文化園の分園の水生物館で、その名も「水辺の幼稚園」という展示がはじまった。オタマジャクシやメダカ、とんぼの幼虫・ヤゴなどを見ることができる。「水辺の幼稚園」とは楽しいネーミングだけれど、ああ、こうした生き物も、ついに入場料を払って見る時代になったのかと、ちょっと悲しい気分だ。それも、動物園の象や犀などと同じように、本来の環境とは切り離された姿でしか見ることはできないのである。利点は一点、自然環境のなかにいるときよりも格段によく見えることだ。そういうふうに作られた施設だから、それはそれとしても、格段によく見えることで、かえって見えなくなってしまう部分もまた、格段に大きいだろう。たとえば、掲句のような見事に美しい光景は、この種の施設で見ることはできない。春満月の夜、月を写した水面にかすかな「さざなみ」が立っている。これはきっと、いま次から次へと生れている「蝌蚪」たちが立てているのであり、水輪を少しずつ「広げ」ているのだと、作者は想像したのだった。あくまでも想像であり、現実に「蝌蚪」が見えているわけではないけれど、しかしこの想像の目は、やはりちゃんと見ていることになるのだ。「やはり野におけレンゲソウ」。こんなことわざまで思い出してしまった。『微香性(HONOKA)』(2002)所収。(清水哲男)


March 3132004

 蝌蚪うごく火星に水のありしかな

                           八木幹夫

語は「蝌蚪(かと)」で春。「おたまじゃくし」のこと。時事句と言ってよいだろう。今月はじめにアメリカ航空宇宙局(NASA)の科学者チームが、無人探査車『オポチュニティー』が火星上にかつて生命を支えるのに十分なほどの水が存在していた証拠を発見した、との発表を受けている。残念なことに生物体が存在した痕跡は見つからなかったそうだが、火星人を空想した昔から、地球とは違う星の生命体に対する私たち人間の関心は高かった。存在する(した)とすれば、いったいどんき生き物なのだろうか。人間に似ているのか、それとも植物のようなものなのか、あるいはまた地球上の諸生物とはまったく形状の異なったものなのか。等々、空想や想像をしはじめたらキリがない。でも最近では、火星には生命体の存在できる物質的諸条件は無いという説が有力視されていたために、なんとなく皆がっかりしていた。そこに、今度の発表だ。再び私たちの想像力は息を吹き返し、好奇心に火がつく恰好になった。そこらへんの「蝌蚪」を見ている作者の頭にも、それがあったに違いない。自然に火星の生物へと思いが飛び、存在したとすれば、たとえばこんな姿だったのだろうかと、ぼんやりと想像している。このときに「蝌蚪泳ぐ」ではなく「うごく」としたところが、秀逸だ。「泳ぐ」などではあまりに地球的で人間臭い表現になってしまう。そうではなくて、火星の見知らぬ生物は地球人が見たこともない不気味な「うごき」をするはずなのだ。だから、この句では「うごく」しかない。いずれにせよ、こうした新しい話題を取り込む俳句は少ないということもあり、貴重な一句として書き留めておきたい。第52回「余白句会」(2004年3月28日)出句四句のうち。(清水哲男)


March 1232010

 口笛や沈む木に蝌蚪のりてゐし

                           田中裕明

むは進行形ではなくて沈んでいる状態。水底にある木におたまじゃくしが乗っている。中七下五は的確な写生。伝統俳句と呼ばれる範疇での通常の作りかたは、この的確な写生の部分を壊さぬように、上五には、下部を援護する表現をもってくるのが普通であろう。春の水中が見えるにふさわしい光とか時間とか、空の色とか、風とか。しかし、それをやると風景構成としての辻褄が合い、絵としてのバランスはとれるが、破綻のない代わりに露店で売る掛軸のようなべたべたの類型的風景になりがちである。裕明さんの師波多野爽波さんはその危惧を熟知していたから、そのときその瞬間に偶然そこに在った(ような)事物を入れる。(巻尺を伸ばしていけば源五郎)のごとく。これをやると現実の生き生きとした瞬間が出るが、まったく作品としての統一感のない、なんのこっちゃというような「大はずれ」も生ずる。しかしべたべたの類型的風景を描くのを潔しとせず、「大はずれ」の危険性を冒して討って出るわけである。この句の口笛がそう。さらに口笛やの「や」も。意外なものを持ってきた上に「や」を付けてわざと読者の側に放り投げる。どんと置かれた「口笛や」が下句に対して効果的あるかどうか。さあ、どうや、と匕首のように読者はつきつけられている。『青新人會作品集』(1987)所収。(今井 聖)


April 1242011

 蝌蚪に脚生えて楽しくなくなりし

                           中山幸枝

の幼生である蝌蚪は、その姿から一般に「おたまじゃくし」と愛称され、昔から春の小川や池から家に連れてこられてきた。童謡の「おたまじゃくしは蛙の子」に続く歌詞の「やがて手が出る足が出る」とは反対に、まず後ろ脚が出てから前脚が出て、同時進行で尻尾が消えてなくなる。考えてみれば、たいへん大掛かりな変身である。その間、不要になる尻尾を栄養源として吸収し、一切の食料を口にせず、さらに手足が揃い始めれば陸地がなければ生きていけないという。生まれ親しんだ水中にいて、だんだん泳げなくなっていくとは、どれほど心細いことだろうと気を揉むが、少年少女の視線は掲句の通り少しばかり厳しい。愛嬌のある姿からの変化を「楽しくない」と思うのは、いかにも子どもらしく、おたまじゃくしはおたまじゃくしのまま大きくなってほしいのである。小学校低学年のときに牛蛙のおたまじゃくしを見たときの驚愕を覚えている。気持ち悪いなんてちっとも思わず、ただただ「すごい!」と興奮した。脚が生えずにひたすら大きくなるおたまじゃくしもいると、迷わず信じ込んだのだ。〈豆の花幼なじみのままおとな〉〈強力の荷に付いて来る天道虫〉『龍の玉』(2011)所収。(土肥あき子)


April 2642016

 お日さまが見たくて蝌蚪の浮き沈む

                           関口恭代

蚪(かと)とはおたまじゃくしのこと。水底で孵ったおたまじゃくしは、つぎつぎと水面へと上昇する。それはきっとお日さまが見たいからだという掲句。おたまじゃくしの姿かたちも相まって、なんとも愛らしい景色となった。おたまじゃくしの呼吸はエラだけだと思われていたが、先年、皮膚と肺も使っていることが研究によって実証された。どのような環境でも生き延びることができるような進化の不思議が蛙の世界にも導入されていたのである。一匹の蛙が生む卵は約千個だが、そのうち蛙まで成長できるのはわずか2割。さらにその後、産卵できるまで育つのは数匹という。どのような工夫をこらしても、おたまじゃくしが生きながらえることは非常に厳しい。『冬帽子』(2016)所収。(土肥あき子)




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