G黷ェ句

March 2731997

 手をあげて此世の友は来りけり

                           三橋敏雄

に誘われた恰好で、ひさしぶりに会おうかということになったりする。年来の友だから、待ち合わせ場所で顔をあわせても、挨拶は「やあ」と軽く手をあげる程度だ。それですむのである。しかし、以前であれば、間もなくもう一人の共通の友人が、同じように「やあ」とこの場に姿を現したものだったが、彼は既に「此世」の人ではない。五十の坂を越えたあたりから、残された者は、この類の喪失感を何度も味わうことになる。そんなとき「此世」にいない人との別れ際の挨拶を思い出してみると、多くはただ軽く手をあげただけだったような気がする。敏雄に、もう一句。「死ねばゐず北へ北へと桜咲き」。死ねば存在しない。この場合の死者は、かつての戦争の犠牲者たちだと読める。(清水哲男)


March 3031997

 木のもとに汁も鱠も櫻かな

                           松尾芭蕉

は「なます」。木は「こ」と読ませる。昔から、桜に対するとどうも臍曲りになる表現者が多い。「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(在原業平)だとか、「わがこころはつめたくして/花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ」(萩原朔太郎)だとかと、枚挙にいとまがない。なにせはかない命の桜花だもの、そう表現したい気持ちはよくわかりマス。しかし他方では、せっかく咲いた桜なのだから「酒の肴」にしちまおうなんていう逞しい感覚の庶民もたくさんいたわけで(いまでも)、だとすれば、もっと楽しい作品があってもいいのになと思う。その意味で、この軽みはとてもよい。花見の座。そこに坐って一杯やったら、これっきゃないですよね。時は元禄三年(1690)、芭蕉四十七歳。晩年の句だ。(清水哲男)


March 2931998

 浜近き社宅去る日のさくらかな

                           芦澤一醒

勤の季節。住み慣れた土地を離れるのは、なかなかにつらいものがある。職場を変わることよりも、生活の場が変わることのほうが数倍もしんどい。新しい土地への期待もなくはないけれど、もうこの潮騒ともお別れだし、折しも咲きはじめた桜の花も再び見ることはないだろうと、引っ越しの忙しい最中に、作者が感傷的になっている気持ちはよくわかる。サラリーマンの宿命といえばそれまでだが、しかし、この宿命は人為的なそれであるがゆえに、どこかに「理不尽」の感覚がつきまとってしまう。妻帯者ならば、なおさらだろう。セコい話になるが、私は転勤を恐れて、全国にネットを張っている会社には初手から入ろうとしなかった。そして、その考えは正解だった。……のだが、はじめて入った東京にしかオフィスのない理想の会社が、あえなく潰れてしまったのだから、正解はすぐに誤解となった。やっと次に入った会社も倒産の憂き目を見たし、いまではもう、この句の作者をむしろ羨ましいとさえ思う心境も、半分くらいはあるのである。俳誌「百鳥」(1997年7月号)所載。(清水哲男)


March 3131998

 かゝる代に生れた上に櫻かな

                           西原文虎

書に「大平楽」とある。こんなに良い世の中に生まれてきて、そのことだけでも幸せなのに、さらにその上に、桜の花まで楽しむことができるとは……。という、まさに大平楽の境地を詠んだ句で、なんともはや羨ましいかぎりである。花見はかくありたい。が、この平成の代に、はたしてこんな心境の人は存在しうるだろうか。などと、すぐにこんなふうな物言いをしてしまう私などは、文虎の時代に生きたとしても、たぶん大平楽にはなれなかっただろう。大平楽を真っ直ぐに表現できるのも、立派な気質であり才能である。作者の文虎は、父親との二代にわたる一茶の愛弟子として有名な人だ。まことに、よき師、よき弟子であったという。一茶は文虎の妻の死去に際して「織かけの縞目にかゝる初袷」と詠み、一茶の終焉に、文虎は「月花のぬしなき門の寒かな」の一句を手向けている。『一茶十哲句集』(1942)所収。(清水哲男)


April 0241998

 機関車の蒸気すて居り夕ざくら

                           田中冬二

ういうわけか、昔の駅の周辺には桜の樹が多かった。駅舎をつくったときに、何もないのは寂しいというので、日本のシンボルとしての桜を植えたのかもしれない。東京でいうと、JRの国立駅などにその面影が残っている。したがって、この句のような情景は、当時はあちこちで見られたものである。頑強なイメージの機関車が吐きだす蒸気につつまれた、淡い夕桜の風情は、新文明のなかの花を抒情的にとらえている。眼前の現実そのものを詠んでいるのだが、どこか郷愁を感じさせるところに、抒情派詩人として活躍した作者の腕の冴えがいかんなく発揮されていると言えよう。情緒に傾き過ぎて、実は俳句にはあまりよい作品のない人だったけれど、この句はなかなかの出来である。第三句集『若葉雨』(1973)所収。(清水哲男)


April 0541998

 生娘やつひに軽みの夕桜

                           加藤郁乎

女のことなどまだ何も知らない「生娘」が、夕桜の下でついつい少しばかり浮かれてしまっている様子に、作者はかなり強い色気を感じている。微笑ましい気持ちだけで見ているのではない。「つひに」という副詞が、実によくそのことを物語っている。江戸の浮世絵を見ているような気分にもさせられる。ということは、おそらく実景ではないだろう。男の女に対する気ままな願望が、それこそ夕桜に触発されて、ひょいと口をついて出てきたのである。「つひに軽みの」という表現にこめられた時間性が、この句の空想であることを裏づけている。もしも事実を詠んだのだとすれば、作者はずいぶんとヤボな男におちぶれてしまう。こういう句は好きずきで、なんとなく「江戸趣味」なところを嫌う読者もいると思う。ただし、上手い句であることだけは否定できないだろうが……。同じ作者の句「君はいまひと味ちがふ花疲れ」も、同じような意味で、かなり好き嫌いの別れそうな作品だ。桜も、なにかと人騒がせな花ではある。『江戸櫻』(1988)所収。(清水哲男)


April 0941998

 東京を蛇の目に走るさくらどき

                           澁谷 道

の人(女性)の句は難しい。自作について「自らが吐いた息のかたち」と述べている文章があり、まことにもって「息のかたち」のように、見えにくいのである。見えにくいが、しかし、大いに気になる句の多い人だ。この句もそのひとつだが、瞬間、何が走るのかがまずわからない。考えているうちに頭痛がしてきたので、冷蔵庫からビールを引き抜いてきた。そこで、ほろ酔いの解釈。「蛇の目」は同心円を指し、このことから大小二つの同心円を持つ舞台のことを「蛇の目回し」という。つまり、内側と外側の舞台を逆にまわしたりと、時間差をつけられるわけだ。そこで、作者は東京の環状線である山手線に乗っているのだと、ほろ酔い気分が決めつけた。沿線のあちこちには桜が咲いており、車窓から見ていると、舞台の「蛇の目回し」のように見える。電車は「蛇の目回し」さながらに、各所の桜を次々に置きざりにして走りつづけるのだからだ。なんともはや、せわしない東京よ。……という解釈は如何でしょうか。反論大歓迎です。『素馨集』(1991)所収。(清水哲男)


May 0751998

 初夏だ初夏だ郵便夫にビールのませた

                           北原白秋

正十五年発表の白秋の俳句。この頃、白秋は荻原井泉水と論戦あり、そのせいもあってか、しきりと自由律俳句を作っている。それが変な俳人の句よりも面白い。また、白秋にはビールの句が多く(ビール好きだったのか)、これも珍しい。ビールの句を二句。「ビールだコップに透く君の大きい影」「桜は白いビールの空函がたくさん来た」。これで見ると、ビールを函入りでとっているのがわかる。いま、キリン・ビールの明治・大正・昭和三代の復刻ビールというのが大ヒットしているそうだが、この白秋のビールはもちろん大正のそれである。(井川博年)


April 0241999

 花の昼動く歩道を大股に

                           佐々木峻

者は「動く歩道」を大股で突き進んでいるのだから、とにかく忙しいのだ。空港だろうか。たぶん、遠くても窓外に花は見えているのだろうけれど、実際「花」どころではないのである。何が何でも、先を急がなくてはならない。今日あたりも、こんな気持ちで「動く歩道」を大股ですっ飛ぶように歩いているサラリーマンは、全国のあちこちにいるだろう。切なくも、逞しい感覚と言うべきか。ただし、作者には別に「桜嫌い天皇嫌いで御所抜ける」という句があり、「桜花」には執着がなさそうなので読者としては少し気が楽だ。けれども、この忙しさの渦中にある感覚だけはよくわかる。サラリーマン編集者の頃、ファクシミリなどなかったから、とにかく短文一本カット一枚も手渡しだったので、締切日前後は多忙を極めた。なかには関西在住の小松左京さんの原稿のように、貨物便で羽田空港に送られてくるものもあった。社への配達を待っていたのでは間に合わないので、毎月、空港まで取りに行った。印刷所も夜通し仕事をしており、「今日はもう遅いから」という逃げ口上は通用しなかった時代だ。……等々、この句を読んで思い出したことがたくさんあった。『まどひ』(1998)所収。(清水哲男)


April 0341999

 田にあれば桜の蕊がみな見ゆる

                           永田耕衣

の花びらが散ってしまうと、蕚(がく)にはしばらくの間、蕊(しべ)が残る。俳句では、この桜の蕊までをも追いかけて「桜蕊散る」と春の季語にしている。が、句の場合は満開の桜の蕊でなければならない。私たちが普通に花を見るときにも、花びらとともに蕊も見ているわけだが、誰も蕊まで見ているとは思っていない。実際には見えているのだけれど、花びらだけを見ているのだと思っている。花見という行為が遊びであり消費行動なので、いささかうがった言い方をしておくと、生産活動をつかさどる雄蘂や雌蘂に対しては、故意に盲目であろうとするからだろう。ところが、田は生産の場所である。ここで作者が田打ちをしているとは思えないが、田圃の畦道にでも立っているのか、あるいは空想なのか。ともかくも、田という場所を意識して、そこから満開の桜を見上げたときに、目に鮮やかなのは花びらではなくて蕊なのであった。つまり、新しい桜の姿を発見している。昔から「詩を作るより田を作れ」と言う。ならばと耕衣は「田を作って」から「詩を作った」のだと考えてもよいだろう。句は加えて、この国の「詩」の伝統的な主題が「花」であったことを、まざまざと想起させてもいるのである。『加古』(1934)所収。(清水哲男)


April 0541999

 娘泣きゆく花の人出とすれ違ひ

                           星野立子

の名所に向かって、ぞろぞろと歩いていく人々。作者も、そのなかの一人だ。そんな浮かれ気分の道を逆方向に歩いてくる人も、もちろんいる。ほとんどは、地元の人だろう。いちいち擦れ違う人を意識するわけでもないけれど、作者の目はふと、向こうから足早にやって来る若い女性の姿にとらえられてしまった。「泣きゆく」というのだから、嗚咽をこらえかねている様子を、娘は全身から発していた。思わず、顔を盗み見てしまう。一瞬の「すれ違ひ」に、人生の哀楽を対比させて詠みこんだ巧みな句だ。桜の句には、花そのもののありようよりも、こうした人事を詠んだ句のほうが多いかもしれない。純粋に「花を見て人を見ず」というわけには、なかなかいかないということだ。いや、花見は「人見」や「人込み」とごちゃまぜになっているからこそ、独特な雰囲気になるのだろう。こんな句もある。「うしろ手を組んで桜を見る女」(京極杞陽)。さきほどの娘とは違って、この女性の様子はたくましいかぎりだ。今風に言うと「キャリア・ウーマン」か。作者は、この発見ににんまりしている。たった十七文字で、見知らぬ女の全貌をとらえ切った気持ちになっている。『實生』(1957)所収。(清水哲男)


April 0641999

 あたらしい帽子が太くて枝張る桜

                           穴井 太

カピカの一年生に出会っての所見と思われる。最近は違うかもしれないが、昔の男の子はみんな入学時に「あたらしい帽子」をかぶった。私も、桜の記章のついた学帽をかぶった。少し大きめの帽子だった。子供の成長は早いので、親はそれを見越して大きめの帽子を買うのである。世間の所見はそれを単に愛らしい姿としてとらえるのが常だけれど、作者は違っている。その大きな学帽を、たくましい「太くて枝張る桜」になぞらえている。実際、大きめの帽子をかぶると、何か巨大なものを頭に乗せたような気持ちになる。ついでに、ちょっぴり偉くなったような気もしたものだ。そこらあたりの心理を、作者はずばりと突いている。と同時に、帽子の主の将来を期待する優しい感情も込めている。このとき「枝張る桜」とは、ソメイヨシノではないだろう。ソメイヨシノにはひょろひょろした樹が多く、平均的な樹齢も四十年ほどと短い(とは、友人の話)。花の美しさだけを求めて交配させた結果、たくましさが失われたのだ。私に品種名はわからないが、もっと幹の色が黒い桜で、いかにも野趣溢れる樹木を見かける。句の桜はそれだろう。そんな「桜樹のようにあれよ」と、作者は一年生を激励しているようだ。『鶏と鳩と夕焼と』(1963)所収。(清水哲男)


March 1832000

 法隆寺からの小溝か芹の花

                           飴山 實

者の飴山實さんが、一昨日(2000年3月16日)山口で亡くなった、享年七十三歳。面識はなかったが、学生時代に第一句集『おりいぶ』(1959)という、およそ句集らしからぬタイトルに魅かれたこともあって愛読した俳人だ。当時の飴山實は「女工等に桜昏れだす寒い土堤」などの社会性のある抒情句を得意としていて、影響で私も同じような詩の世界を志向した。私のはじめての詩集『喝采』(1963)にはその痕跡が拭いがたく歴然としており、詩人の中江俊夫さんに「どっちつかずで中途半端」と評されたのも、いまは懐しい思い出である。その後の飴山さんは見られるとおりの句境を得られ、独自の地歩を築かれた。句の舞台は、早春のいかるがの里。法隆寺を少し離れた道端の小溝に可憐な芹の花が咲いているのを見つけ、流れる清冽な水が法隆寺に発しているかと思い、そこに悠久の時間を感じている。千年の昔にも、いまと変わらぬ光景があったのだ、と。飴山さんは「酢酸菌の生化学的研究」で、日本農芸化学会功績賞を受けた学者でもあった。合掌。『次の花』(1989)所収。(清水哲男)


March 3132000

 世の中は三日見ぬ間に桜かな

                           大島蓼太

の「世の中」は、自然的環境を指している。戸外、周囲の意味。「あな寒といふ声、ここかしこに聞ゆ。風さへはやし。世の中いとあはれなり」(『蜻蛉日記』下)の用法だ。句意は説明の必要もあるまいが、桜の開花のはやさを言ったもの。たしかに、咲きはじめると、すぐに満開になってしまう。散るのも、またはやい。ところで、この句を諺か警句みたいな意味で覚えている人がいる。いや、そう覚えている人のほうが多いかもしれない。「世の中」を社会的環境ととらえ、桜花の咲き散るようなはやさで、社会は変化するものだという具合に……。落語のマクラにも、その意味でよく使われる。ただし、こういうふうに覚えている人は、たいてい原句を間違ってそらんじているのが普通のようだ。「世の中は三日見ぬ間に桜かな」ではなく「世の中は三日見ぬ間桜かな」と、助詞を勝手に入れ替えている。「に」と「の」の入れ替え。なるほど、これでは警句に読めてしまう。無理もないか。たった一文字の違いによる、この激しい落差。地下の作者は泣いているだろう。蓼太(りょうた)は、18世紀の江戸に住んだ俳人。信州出身とも伝えられるが、出自は明らかでない。『蓼太句集』所収。(清水哲男)


April 0342000

 奇術にして仁術の俳パッとさくら

                           原子公平

くら賛歌であると同時に俳句賛歌でもある。俳句には元来、その短さゆえに「奇術」のようなところがあり、たったの十七文字が悠に百万言に勝ったりする。小さなシルクハットから、鳩がパッパッと何羽も飛び立ったり、万国旗がゾロゾロと出てきたりするように、信じられない現実を突きつけてくる。しかも、上質の「俳」は読者の心を癒し、励まし、喜ばすなど、その「仁術」的効果もはかりしれない。「さくら」とて、同じこと。「奇術」のようにあれよという間に咲き、「仁術」のように人の心を浮き立たせる。このとき「さくら」は、天然の俳人なのだ。自然詠のかたちをとりながら、句自体が一つの俳論になっているのもユニーク。長年のキャリアがあってこその、これは作者の「奇術」である。原子さんは、最近車イスの人になられたと仄聞した。「俳句研究」誌に連載されている[わたしの昭和俳句]は、近来まれに見る面白い読み物だ。私的俳壇史だが、社会的な時代背景の提示にあたっての、素材の適切な取捨選択ぶりには唸ってしまう。そのことによって、登場人物がみな輝いている。これほどに読ませる俳壇史が、これまでに書かれたことがあったろうか。俳句に興味のない人までをも、引き込んでしまう書き振りだ。これまた「奇術」にして「仁術」と言うべきか。『酔歌』(1993)所収。(清水哲男)


April 0942000

 夜櫻のぼんぼりの字の粟おこし

                           後藤夜半

たまんま、そのまんま。だが、なぜか心に残る。夜半の初期(二十代だろう)には、このような小粋な句が多かった。「見たまんま、そのまんま」だが、目のつけどころに天賦の才を感じる。夜桜見物。誰でもぼんぼりにまでは目がゆくが、書かれている広告文字にまでは気が及ばない。ぼんぼりの「粟おこし」は単なる文字でしかないけれど、こうやって句に拾い上げてやると、春の宵闇のやわらかな感覚に実によくマッチしてくるから不思議だ。ここは、やはり「粟おこし」でなければならないのであって、他の宣伝文字のつけ入る余地はあるまい。ここらあたりが、短い詩型をあやつる醍醐味である。夜半は明治生まれで、生粋の大阪人。生涯、大阪の地を離れることはなかった。だから、掲句はよき時代の大阪の情緒を代表している。いつもながらの蛇足になるが、「桜」の旧字の「櫻」というややこしい漢字を、昔の人は「二階(二貝)の女が気(木)にかかる」と覚えた。こう教わると、女性の場合は知らねども、男だったら一度で覚えられる。いや、忘れられなくなる。庶民の小粋な知恵というものだろう。『青き獅子』(1962)所収。(清水哲男)


April 1342000

 花びらの一つを恋ふる静電気

                           石田郷子

つの間にか、桜の花びらが一つ洋服についているのに気がついた。静電気の作用によるものだ。どこでついたのだろうか。思い巡らしているうちに、小さな薄い紅の花びらが可憐に見えてき、いとおしくなってきた。「恋ふる」という表現が大袈裟ではなく、読者の胸にも染み込んでくるようだ。「静電気」が俳句に詠まれるのは珍しいが、この作品はもともと「エアコン」などとともに、日頃あまり類を見ない新素材を詠み込むという雑誌の企画で実現したものである。お題拝借句というわけだが、あの不快な静電気現象を見事に美化した腕前は流石だと思う。「まとわりつく」「つきまとう」などの言葉を、しみじみと「恋ふる」に転化した想像力の冴え。ここにも、作句の要諦がある。静電気ショックは、受けやすい人とそうでもない人がいるという。体質にしたがうらしいのだが、私は受けやすい性質だ。職場の放送局などはいつも乾燥しきっているので、ドアのノブをさわるのもおっかなびっくりという有り様。心臓に悪い。傍目には見えないけれど、なかなかにつらいビョーキと言えるのではないか。「俳壇」(1997年6月号)所載。(清水哲男)


October 18102000

 山姫に日まぜに味な言ふまぐれ

                           加藤郁乎

たぞろ通草(あけび)の登場となった。「山姫」は通草の異称だ。なぜ異称なのか。それは、いまあなたが思ったとおりの連想からでしょう(笑)。この句は、たとえばセロファンなどの透明な二枚の紙にそれぞれ異なった情景を描き、その二枚を重ね、日に透かして見るとわかるという構造を持つ。一枚目の情景は、ほぼ掲句の字面どおり。もう一枚のそれは、通草が秋の夕日をあびて(夕日にまざって)味のよさそうな頃合いを見せているという図。キーワードとして「日まぜ」と「言ふ」が使われており「目まぜ(目配せ)」と「夕」とに掛けてあるので、これが二枚の絵を重ね合わせた句とわかる仕掛けだ。まず作者は、秋の夕暮れに生っている通草を見ている。食べごろだなと思っている。しかし、そのまんまを詠むのも野暮だというのが郁乎美学。そこで、ひねった。「通草」は「山姫」。ならばこいつを「姫」に見立てて、という発想だ。山出しの女が色街で磨かれ、一丁前に男に目配せなどしながら、味なことを言うようになった……。この絵を、通草の生る自然の情景に重ね合わせたわけである。そこで、両者は秋の日を透かして食べごろの「味」として合体した。作者は「野暮は言いたくないが、明和のころより深川の岡場所に流行した粋、意気の心を忘れて俳句全盛の時代でもあるまい」と言う。「十七が折りかけてみるさくらかな」。この句でも「俳句十七音」と「娘十七」が「粋」に掛けられている。粋と意気に感じて生きるのも、私などには息が切れそうだ。『粋座』(1991)所収。(清水哲男)


March 2332001

 花たのしいよいよ晩年かもしれぬ

                           星野麥丘人

国から花便りが届くようになった。若いころにはそうでもなかったが、年齢を重ねるに連れ、開花が待ち遠しくなってきた。なんとなく、血のざわめきのようなものを感じる。いったい、いかなる心境の変化によるものだろうか。そんなことを漠然と感じていた矢先だったので、この句に出会ったときにはドキリとした。自註というわけではないが、作者の俳人としての「花」に対する姿勢が添えられている。「平成二年。花鳥風月の花を代表するのはいうまでもなく桜。その桜を『花』という。とても詠めるものじゃない。虎杖やすかんぽでも詠んでいる方がぼくにはふさわしいことは、ぼく自身がいちばんよく知っている。だから『花』のような大きな季語で写生することなど出来る筈がない。はじめから逃げている、そう言われても仕方のないような作だが、晩年に免じて許されたい」。「晩年」について言えば、生きている人の誰にもおのれの「晩年」はわからない。本来は故人を偲ぶときなどに使う言葉だろうから、生きている人が自分の「晩年」を言うのは自己矛盾である。しかし、これからがややこしいところで、一方で私たちは人が必ず死ぬことを知っている。それも、ある程度の年齢まで到達すると、本人も周囲も「いよいよ」かと思うものだろう。だから、自分の「晩年」を言っても、さしたる矛盾でもないという年齢はありそうだ。が、いくつになったら矛盾しないのか。究極的には、やはり誰も自分の自然な余命を知ることはできない。だとすると、……と考えていくうちに、事は錯綜するばかり。ああ、七面倒くさい。となって、「晩年かもしれぬ」で打ち止めである。だから「晩年」の二字はあっても、句は暗くない。むしろ、明るい。「俳句研究」(2001年3月号)所載。(清水哲男)


April 1142001

 むつとしてもどれば庭に柳かな

                           大島蓼太

太(りょうた)は、十八世紀江戸の人。例の「世の中は三日見ぬ間に桜かな」の俳人だ。「むつとして」と口語を使っているのが、面白い。いまどきなら「むかついて」とやるところか(笑)。表で、何か不愉快なことがあった。むかむかしながら帰宅すると、庭では柳が風を受け流すようにして超然と静かに揺れている。些細なことに腹を立てている自分が、小さい人間に思われて恥ずかしいと言うのだろう。むろん、目にしみるような柳の美しさに、立腹に荒れた心が癒されてもいる。桜の句もそうだが、かなり教訓を垂れようとする色合いが濃い。また、そう読まなければ読みようがない。このように詩歌に教訓や人生訓を持ち込む流れは、昔から脈々としてつづいてきた。高村光太郎などはお得意だったし、宮澤賢治の一部の詩もそうだし、現代の書き手にも散見される。投稿作品には、どういうわけか実に多い。子供の頃は別(賢治の「稲作挿話」には感動した)として、やがて私はこういう流れが苦手となり、出会うたびにそれこそ「むつとして」きた。詩歌に生き方まで教えてほしくないよ、「東へ西へ歩け歩け」(光太郎)だなんて余計なお世話じゃないか……。ただし、このテの作者の美質はとにかく生真面目なところにあり、私など不良は恥じ入るばかりだ。だから「むつとして」も、なかなか面と向かっては物を言えないできた。不幸にも我が家の庭には柳もないことだし、どうすればよかんべえか。(清水哲男)


March 1532002

 雲呑は桜の空から来るのであらう

                           摂津幸彦

国では、正月(むろん旧暦の)に「雲呑(わんたん)」を食べる風習があるというが、その形といい味といい、どことなく春を思わせる食べ物だ。点心(てんしん)の一つ。食べながら作者は、ふっとこう思った。この想像が、我ながら気に入って、句にしてしまった。句にしてからもう一度読み下してみて、ますます「あらう」の確信度が強まってきた。そんな得意顔の作者の表情には稚気が溢れていて、微笑を誘われる。地上の艶なる桜のあかるみを、空に浮かぶ雲が写している。あの雲が、この雲呑ではないのか。この想像は、悪くない。楽しくなる。何も連想しないで何かを食べるよりも、このようにいろいろと自然に想像力が働いたら、どんなにか楽しいだろうな。そういうところにまで、読者を連れていく……。なんだか無性に雲呑を食べたくなってきたが、あれは単体でさらりと食べるほうが美味い。世に「雲呑麺」なるメニューがある。けれども、ラーメンライスと同じように、ただ腹を満たすためにはよいとしても、どうしてもがっついた感じが先行する。それに私だけの味覚かもしれないが、雲呑と麺とは基本的に相性がよろしくない。食感が、こんがらがってしまうのだ。さて、間もなく桜の季節がやってくる。花見の後には、雲呑をどうぞ。『鸚母集』(1986)所収。(清水哲男)


March 2632002

 一日のどこにも桜とハイヒール

                           坪内稔典

段は、昭和初期のモダン・アートを思わせる。洋髪の美女が、西欧世界ではなく、日本的な情景のなかに憂い顔でたたずんだりしていた絵だ。和洋折衷の哀しき美しさ。当時の新聞写真などを見ると、そんな絵から抜け出たように思われていたのは、たとえば蓄音機を鳴らしていたカフェの女給あたりだろうか。西欧への憧れとドブ板を踏む現実とが、なにやら不思議なハーモニーを奏でていたような……。ハイヒールと花の取り合わせも、同断である。ほろほろと散る桜の樹の下に、ひとりたたずむ(あるいは颯爽と歩いている)ハイヒール姿の女性のシルエット。これが下駄や草履履きやの女性と花との取りあわせだったら、初手からモダンにはなりっこない。その美しさは、日本的情趣のなかにとっぷりと沈みこんでしまう。掲句はそうしたモダンな絵を意識しつつ、しかしそれが「一日のどこにも」と言うのだから、作者はいささかうんざりしている。モダンもオツなものだけれど、氾濫するとなると辟易ものである。モダン感覚にとっては、あくまでもぽつんと静かに、たまたまそんな女性が存在することが重要なのである。近年、伝統的なハイヒールを履く女性は少なくなってきた。が、この句でのハイヒールは、例の厚底サンダルなどを含めてのことなのであり、もはや西欧を意識することもなくお洒落ができるようになった現代女性のパワーに、あっけにとられている図だとも読める。『月光の音』(2001)所収。(清水哲男)


April 0542002

 追伸に犬の消息さくら散る

                           泉田秋硯

紙の相手は、作者の飼い犬のことを知っているのだから、かなり親しい人だ。一通りの用件を書き終えて、そうそう彼には知らせておかなければと、その後の「犬の消息」を付け加えた。あまり、芳しい消息ではあるまい。もしかすると、最近死んだのかもしれぬ。「さくら散る」が、そのことを暗示している。空っぽの犬小屋に、はらはらと桜が散りかかっている。そんなイメージが、私には自然にわいてきた。「追伸」のさりげなさが、逆に「もののあはれ」を静かに切なく訴えかけてくる。追伸とは、考えてみれば面白い様式だ。洋の東西を問わず、手紙には書き方の作法というものがあるから、必然的に主文からこぼれてしまう事どもがある。そんな「よしなしごと」を付け加えるために発想されたのが、追伸という様式だろう。もはや主文ではないので、いきなり調子が変わっても失礼にはあたらない。どうか気軽に読み捨てにしてほしいと、追伸(追啓、追白、追陳、二伸などとも)の様式自体が告げているのだ。でも、だからといって、追伸に気楽なことばかりを書くのかといえば、そうでもないところが面白い。主文なんぞは二の次で、追伸にこそいちばん書きたいことを書くということも起きてくる。さりげなさの逆用だ。ビートルズに「P.S. I LOVE YOU」という歌がある。『月に逢ふ』(2001)所収。(清水哲男)


April 0242003

 百年のグリコ快走さくら咲く

                           泉田秋硯

京の桜は、この週末にかけてが見ごろ。ついこのあいだ咲きはじめたかと思ったら、あっという間に満開になってしまった。掲句は、桜前線がぐんぐん北上してくる速さを、「グリコ」のランナーのスピードに例えていて愉快。稚気、愛すべし。ただし「百年」はちょいとオーバーで、グリコの歴史は八十年ほど(1922年発売)であるが、ま、とにかく桜前線もグリコの青年も、昔から速いことになっているから、これでいいのだ。ところで、江崎グリコのHPを見ていたら、有名なコピー「一粒三百メートル」の解説が載っていた。「グリコ(キャラメル)には、実際に一粒で300メートル走ることのできるエネルギーが含まれています。グリコ一粒は15.4kcalです。身長165cm、体重55kgの人が分速160mで走ると、1分間に使うエネルギーは8.21kcalになります。つまりグリコ一粒で1.88分、約300m走れることになります」。「なるほどねえ」と感心するにはトシをとりすぎてしまったけれど、ポパイのほうれん草とは違って、甘いものを健康に結びつけて商売にするのは大変だっただろう。そこで「エネルギー」の補給に気がついたのは、まことに炯眼と言うべきで、それこそ百年の昔から、いまだに私たちは「エネルギー」を求めて四苦八苦、右往左往、国家的には戦争までしでかしている始末だ。『鳥への進化』(2003)所収。(清水哲男)


April 0642003

 直立の夜越しの怒り桜の木

                           鈴木六林男

ほどの「怒り」だ。一晩中、怒りの感情がおさまらない。それほどの怒りでありながら、怒りの主は夜を越して「直立」していなければならない。なぜならば、怒っているのは、直立を宿命づけられている「桜の木」だからだ。そして、この木の怒りはついに誰にもわからないのだし、花が散れば振りむく者すらいなくなってしまう。桜の木と日本人との関係について「五日の溺愛、三百六十日の無視」と言った人がいる。至言である。ところで、掲句を文字通りに解しても差し支えはないのだが、作者の従軍戦闘体験からして、桜の木を兵士と読み替えても、とんでもない誤読ということにはならないだろう。たとえば「夜越し」の歩哨などに、思いが至る。理不尽な命令に怒りで身を震わせながらも、一晩中直立していなければならない兵士の姿……。まさに桜の木と同様に、彼の内面は決して表に出ることはないのだと読める。それが兵士の宿命なのだ。こう読むと、たとえ諺的に「花は桜木、人は武士」などと如何にもてはやされようとも、実体はかくのごとしと、それこそ作者自身の怒りが、ようやくじわりと表に現れてくる。余談ながら、諺の「花は桜木……」は、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の十段目から来ている。天河屋義平の義の厚さに感じ入った武士たる由良之助が、一介の商人の前に平伏して「花は桜木、人は武士と申せども、いっかな武士も及ばぬ御所存」と言うのである。『鈴木六林男句集』(2002・芸林書房)所収。(清水哲男)


March 2832004

 オメデタウレイコヘサクラホクジヤウス

                           川崎展宏

書きに「卒業生 札幌で挙式」とある。その祝いのために、実際に打った電文だろう。そちらの開花はまだだろうが、桜前線は確実に「ホクジヤウ(北上)」しつつあるからね。それも「レイコ」あなたに向かってと、教え子の新しい門出を祝福している。咲いていない桜を素材にして、しかし間もなくそれを咲かせる自然の力がひたひたと寄せていく状況を配して、祝意を表現してみせたところが見事だ。芸の力と言ってもよい。むろんこのときに、北上している桜前線の動きは作者の新婦に対する気持ちのそれと重なっている。今と違って昔の電報はすべて片仮名表記だったが、下手に今風に平仮名や漢字が混ざっている電文よりも、片仮名だけのほうがかえって清潔感があって、句の中身にふさわしいと思う。ただし、この書き方は作者の特許みたいなもので、第三者には使えないところが難点と言えば難点か(笑)。句集の配列から見て、昭和30年代末ころの作と思われる。そんなに電話も普及していなかったし、電話があっても長距離料金は高価だったので、冠婚葬祭用ばかりではなく、何かというと緊急の用件には電報を使った。郵便局の窓口に行くとみどり色の頼信紙なる用紙がおいてあり、なるべく文字数を少なくして安上がりにすべく、何度も指を折っては電文を思案したものだ。学生ならたいていが親への金の無心だったけれど、一般的に最もひんぱんに利用された用件は親兄弟や親類縁者の病状の悪化を告げるものだったろう。「チチキトク」などというあれである。だから電報が届くと、誰もがどきりとした。とくに夜間に配達されたりすると、開く前に心臓が縮み上がる思いがした。そんな時代は遠く去ったと思っていたら、最近では高利貸し業者が督促のために頻繁に使うのだという。祝儀不祝儀と受け取る側の心持ちが定まっている場合を除いては、いつまでも電報は精神衛生上よろしくないメディアのようである。『葛の葉』(1973)所収。(清水哲男)


April 1942004

 一本もなし南朝を知る桜

                           鷹羽狩行

年の桜の開花は、全国的に早かった。もうすっかり葉桜になってしまった地方も多いだろう。句は「吉野山」連作三十八句のうち。吉野の桜はシロヤマザクラだから、ソメイヨシノに比べて開花は遅いほうだが、ネット情報によれば、今年は既に先週末から奥千本も散りはじめているという。この週末までも、もちそうにない。句意は明瞭。南朝は14世紀に吉野にあった朝廷だから、樹齢六百年以上の桜の木でもないかぎり、当時のことは知るはずもないわけだ。そういうことを詠んでいるのだが、ただ単に理屈だけを述べた句ではない。吉野の桜の歴史は1300年前からととてつもなく古く、訪れる人はみな花の見事さに酔うのもさることながら、同時に古(いにしえ)人と同じ花の情景を眺められることにも感動するのである。いわば、歴史に酔いながらの花見となるのだ。しかしよく考えてみれば、昔と同じ花の情景とはいっても、個々の木にはもはや南朝を知る「一本」もないわけで、厳密な意味では同じではありえない。だからこそ、作者はこう詠んだのだろう。すなわち、吉野桜はただ南朝の盛衰を傍観していたのではなく、桜一本一本にも同様に盛衰というものがあり、その果てに現在も昔と同じ花の盛りを作り出している。そのことに、あらためて作者は感動しているのである。とりわけて作者は、幼いころから南朝正当論を叩き込まれた世代に属している。だから、吉野桜に後醍醐天皇や楠木正成正行父子などの悲劇を、ごく自然に重ね合わせて見てしまう。南朝正当論の是非はともかくとして、吉野桜をどこか哀しい目でみつめざるをえない作者の世代的心情が、じわりと伝わってくる佳句と読んだ。「俳句研究」(2004年5月号)所載。(清水哲男)


March 2432005

 夜の明ぬ松伐倒すさくらかな

                           陽 和

戸期の句.朝飯前の一仕事だ。「夜の明(あけ)ぬ」とはあるが、まだ完全には明けていない状態を言ったのだろう。しらじらと明け初めてきた山道を木樵(きこり)がやってきて、そこにある「松」の木を伐り倒した。この場合の松の木は、相当な大木であるほうが句景にふさわしい。木樵と大木とが、いわば格闘する感じである。そんな格闘の末に,どうと地響きをたてて松が倒れる。と、それまではほとんど視界になかった満開の「さくら」が、ぱあっと眼前に現われたというわけだ。まだ、山は薄暗い。その薄明のなかに真っ白に浮き出た桜花の美しさときたら,どうだろう。しばし木樵は、陶然として眺めたにちがいない。たまたま伐り倒した松の向こうに、たまたま桜の木があったにすぎないが、黒っぽい松の木だけに、この「たまたま」は天の配剤のように写る。この句の手柄は,まず人の姿を出さずにドラマを創出したところだ。そしてさらには、情景の鮮明な映像化を果たしたこともさることながら、句に映像だけでなく,山の匂いまでをもにおわせている点である。伐り倒した松の木が発散する濃密な匂いがあたりに立ちこめ,その向こうには無臭の桜花が爛漫と展開している。松と桜の景の取り合わせが匂いのそれにまで及んでいるから,読者はまことに清々しい思いで句を反芻することができるのである。いいなあ、山の朝は……。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男)


April 0342005

 ごはん粒よく噛んでゐて桜咲く

                           桂 信子

く噛んでたべなさい。「ごはん粒」は三十回くらい噛むと、甘みが出てきておいしいし、身体のためにも良いのです。子供の頃に、何度も先生からそう言われた。で、三十回ほど噛んでみると、口中のごはん粒はとろとろの液状になり、なるほど甘みが出てくる。たしかに、おいしい。とは思ったけれど、ついによく噛むことは身につかなかった。三十回も噛むというのは意識的な行為だから、食事中は噛むことだけに集中しなければならない。うっかり他のことに思いが行ったりすると、何度噛んだかわからないうちに呑み込んでしまうことになる。すなわち、よく噛もうとする強い意識は、極端に言えば食事全体の楽しさを奪ってしまいかねない。そんなことを気にせずに食べることは、また別の楽しさを伴ったうまさをもたらすのだからだ。掲句は、作者七十歳ころの作品。一般的には、もう子供の頃のような歯よりはだいぶ衰えている年齢である。したがって、逆に噛むことには意識的になってきているのであり、うまさよりも健康のことを考えて、よく噛むことを心がけておられたのだろう。といっても、食事のたびに意識的であるのではなく、時々それこそ昔の先生の教えを思い出したりしてよく噛んでみている。そして、そのようにしていると一種の充実感が芽生えてくる。その充実感を、ごはん粒とは何の関係もない「桜」の開花に結びつけたとき、いっそう晴れやかな気分が立ち上がってきたというわけだ。この「桜」はいま現在の花でもあり、よく噛みなさいと言われた時分の花でもあるだろう。そう読むと、この句には咲き初めた桜のようなうっすらとした哀感が滲んでいるような気もしてくる。『草樹』(1986)所収。(清水哲男)


April 0642005

 寝たきりの目を閉じて泣く桜挿せば

                           望月たけし

誌「俳句人」(2005年4月号)のコラムで知った句。「寝たきり」になった父親(と、工藤博司の紹介文にある)に、もう例年のような花見はかなわない。そこでせめてもと思い、作者は花をつけた枝を折りとってきて、花瓶に挿して見せた。父親はしばし凝視していたが、急に「目を閉じ」たかと思うと、声を押し殺して「泣き」はじめたというのである。頬に伝う涙を認めてわかったのだが、しかし作者はそれを正視しつづけることはできなかったろう。おそらくは、はじめて見た父親の涙だ。この涙には、老いた我が身への口惜しさと息子の優しい思いやりへの感謝の念とが入り混ざっている。だからこのときの桜は、単なる花ではありえない。単なる花を越えた、いわば「世間」というものである。私たちの通常の花見にしたところで、たしかに花を見に行くのではあるけれど、花を媒介にして実は世間との触れ合いを楽しむためだと言ってよい。「寝たきり」の人は世間から不本意にも置き去りにされているわけだから、とりわけてそういうことには敏感になるはずだ。そんな孤独な心の枕辺に、華やかに挿された世間としての桜花なのである。誰が泣かずにいられようか……。老いの実相を鮮やかに提出した名句だと思う。『新俳句人連盟創立四五周年記念アンソロジー』(1991)所収。(清水哲男)


April 1042005

 昼からは茶屋が素湯売桜かな

                           僕 言

として良いとか悪いとか言うのではなく、詠まれている情景に惹かれる句がままある。掲句も、その一つだ。元禄期の句。作者はまさか後世に読まれるだろうことなどは毛頭思わず、ただ同時代人へのレポートとして詠んだわけだが、三百年を経てみると、その時代の興味深い記録的な価値を持つにいたった。花見の名所に小屋掛けの茶店が出て、抹茶を点(た)てて売っている。午前中はそのようにちゃんと営業していたのだけれど、「昼から」になるとどんどん人が繰り出してきて、一人ひとりにきちんと応接できなくなってしまった。で、いささか乱暴な商売になってきて、茶抜きの「素湯(さゆ)」を売り出したというのである。水をわかしただけの単なる湯だ。それでも喉のかわいた人たちが、次から次へと文句も言わずに買って飲んでいる。桜見物のにぎわいを茶店の商品から描き出す着想は、当時としては斬新だったのだろう。この句の情景を現代風にアレンジすると、よく冷えた清涼飲料水やビールなどが売り切れてしまい、生温いものを売っているそれに似ている。「ま、この人出じゃあ仕方がないな」と、私などもつい買ってしまう。では、現代のこの様子を五七五にどうまとめるべきか。しばらく考えてみたが、よい知恵がうかばなかった。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男)

[作者名について]「僕言」の「僕」は、正しくはニンベンを省いた「ぼく」の字です。ワープロに無いので、やむを得ず……。


March 1732006

 両の手に桃とさくらや草の餅

                           松尾芭蕉

語は「桃(の花)」と「さくら(桜)」と「草(の)餅」とで、春。彩り豊かな楽しい句だ。この句は芭蕉が『おくのほそ道』の旅で江戸を後にしてから、二年七ヶ月ぶりに関西から江戸に戻り、日本橋橘町の借家で暮らしていたときのものと思われる。元禄五年(1692年)。この家には、桃の木と桜の木があった。折しも花開いた桃と桜を眺めながら、芭蕉は「草の餅」を食べている。「両の手に」は「両側に」の意でもあるが、また本当に両手に桃と桜を持っているかのようでもあり、なんともゴージャスな気分だよと、センセイはご機嫌だ。句のみからの解釈ではこうなるけれど、この句には「富花月。草庵に桃櫻あり。門人にキ角嵐雪あり」という前書がある。「富花月」は「かげつにとむ」と読み、風流に満ち足りているということだ。「キ角嵐雪」は、古くからの弟子である宝井基角と服部嵐雪を指していて、つまり掲句はこの二人の門人を誉れと持ち上げ、称揚しているわけだ。当の二人にとってはなんともこそばゆいような一句であったろうが、ここからうかがえるのは、孤独の人というイメージとはまた別の芭蕉の顔だろう。最近出た『佐藤和夫俳論集』(角川書店)には、「『この道や行人なしに秋の暮』と詠んだように芭蕉はつねに孤独であったが、大勢の弟子をたばねる能力は抜群のものがあり、このような発句を詠んだと考えられる」とある。このことは現代の結社の主催者たちにも言えるわけで、ただ俳句が上手いだけでは主宰は勤まらない。高浜虚子などにも「たばねる能力」に非凡なものがあったが、さて、現役主宰のなかで掲句における芭蕉のような顔を持つ人は何処のどなたであろうか。(清水哲男)


April 0442006

 もう勤めなくてもいいと桜咲く

                           今瀬剛一

年退職者の感慨だ。サラリーマン時代には、花見といっても、どこか落ち着かない気分があった。見物していてもふいっと仕事のことが頭をよぎったり、いくら楽しくても明日のために早く帰宅せねばと気持ちが焦ったり、開放感がいまひとつなのだ。そこへいくと作者のように、晴れて定年退職した身には、たしかに桜が「もう勤めなくてもいい」と咲いているように思えるだろう。仕事や出勤のことを気にしなくてもよいのだから、余裕たっぷりで見物することができる。おそらくは、生まれてはじめてしみじみと見上げることのできた桜かもしれない。しかしながら人間とは複雑なもので、そんな開放感を味わいつつも、今度はどこかで「もう勤めなくてもいい」、会社に来なくてもいいという事態に、作者は一抹の寂しさを感じているような気もする。昨日のTVニュースでは、各社の入社式の模様が報道されていた。働く意欲に溢れた若者たちの緊張した表情が、美しくも眩しかった。とはいえ、若者たちにだとて複雑な思いはあるわけで、感受性が豊かであればあるほど、やはりこれからの長年の勤務のことが鈍く心の片隅で疼いていたには違いない。定年退職者の開放感と寂寥感と、そして新入社員の期待感と重圧感と……。それら世代を隔てた種々の思いが交錯する空間に、毎春なにごともないような姿で桜の花が咲くのである。「うすうすと天に毒あり朝桜」(宗田安正)。二句ともに「俳句」(2006年4月号)所載。(清水哲男)


March 2032007

 さびしくはないか桜の夜の乳房

                           鈴木節子

年もまた花見やら桜祭りやらと何かと気ぜわしい季節となった。満開をやや過ぎた頃の桜が一途に散る様子が好きなので、風の強い日を選んで神田川の桜並木を歩く。毎年恒例の勝手気ままな個人的行事だが、散った花びらが神田川の川面を埋め、それがまるでどこまでも続く桃色の龍のような姿となっていることに気づいてから、この龍と会うのは、たったひとりの時でしかいけないような気がしている。梶井基次郎の『櫻の木の下には』や、坂口安吾の『桜の森の満開の下』を引くまでもなく、満開の桜には単なる樹木の花を越えた禍々しいまでの美しさがある。桜や蛍など、はかないと分かっている美しいものを見た夜は、誰もが心もとない不安にかられるのだろう。女の身であれば、我が身の中心を確かめるように乳房に手をやってみる。しかし、そんな夜は、確かにこの手がわが身に触れているのに、そこにあたたかい自分の肉体を見つけることができないのだ。指から砂がこぼれてしまうような不安に耐えかね、寝返りを繰り返せば、乳房は右に溢れ、左に溢れ、まるで胸に空いた大きな穴を塞ごうとしているかのように波を打つ。咲き満ちていることの充足と恐怖が、女に寝返りを打たせている。『春の刻』(2006)所収。(土肥あき子)


March 2932007

 手枕は艪の音となる桜かな

                           あざ蓉子

(ろ)の水音と桜の取り合わせが素敵だ。広辞苑によると、舟を漕ぎ出すときに使う艪の掌に握って押す部分を「腕」水をかく部分を「羽」と呼ぶらしい。そういえば艪を左右に広げて舟を漕ぎ進む格好は羽根を広げて空をゆく鳥の姿を思わせる。とはいっても左右均等に力を入れて艪を扱うのはなかなか難しく、非力な漕ぎ手が艪を漕ぐと前には進まず、ぐるぐる同じ場所を回りかねない。公園のボートであろうと、思い通りに進むのは難しい。掲句は桜の木の下に手枕をして寝転がって桜を見ているうち、夢うつつの不思議な気分になっている状態を表しているのだろう。もしくは桜を見ているうちに眠くなって人声が遠くなっていく様子を表しているのかもしれない。いずれにしても居眠りをする「舟を漕ぐ」や熟睡の状態の「白川夜船」といった眠りにまつわる言葉が句の発想の下敷きにあるかもしれないが、そんな痕跡はきれいに消されている。むしろ「手枕」が「艪の音」になるという、一見唐突な成り行きを感覚的に納得させる手がかりとして、これらの言葉への連想を読み手へ誘いかけてくるようである。肘を曲げて頭の下に置く手枕が艪になり、夢心地の不思議な場所へと連れ出されてゆく。最後に「桜かな」と大きな切れで打ちとめたことで、夢は具体的な景となって立ち現れる。艪の水音と桜と夢。青空に光る桜は虚と実が交差する異界への入り口なのかもしれない。『ミロの鳥』(1995)所収。(三宅やよい)


March 3132007

 手は常に頭上にかざせ夜の桜

                           相原左義長

年、とある俳句大会の観客席に居た。募集句、当日入選句表彰、講評と進んでゆく。最後に、選者数名が壇上に並び、シンポジウムが始まり、そこに相原氏も並んでおられた。司会進行役の、「俳句の楽しさはどんなところと思われますか?」との質問に氏は、「私は、俳句を楽しいと思ったことはありません」と、一言。特に語気を強めるわけでもなく、むしろゆるやかで訥々とした調子であった。それまで、なんとなくぼんやり座っていた私は、一気に目が覚め、あらためて壇上の堂々としたお姿を確認したのだった。「確かに俳句は楽しいばかりではなく、生み出す苦しみもありますね」という方向に話は流れていったが、そういう意味ではない気がした。その後、〈ヒロシマに遺したまゝの十九の眼〉の一句が裏表紙に書かれた句集『地金』を拝読、ご自身の戦争体験など少し知り得た次第である。掲句、桜は満開、すでに散り始めている。闇の中に白く浮かびあがる桜の木の下にいて、えも言われぬざわざわとした不安感を感じたことは確かにある。まるで、今散るための一年であったかのように降り続く花の闇で、立ちつくしたことも。作者も、そんな闇にいて、どこか心がかき乱される思いなのか。その思いに立ち向かうように、落ちてくる花びらのなめらかな感触を遮るように、手は常に頭上にかざせ、と叙している。その命令形の強さが、桜の持つ儚さと呼応して、人の心のゆらぎを自覚させ、切ない。散りゆくことそのものがまた、遠い記憶を呼び起こし、詠まずにはいられなかったのかもしれない。『地金』(2004)所収。(今井肖子)


April 0442007

 肩越しにふりむくと/背後は桜の花に/覆われていた

                           アレン・ギンズバーグ

レン・ギンズバーグはアメリカのビート派を代表する詩人。彼には『Mostly Sitting Haiku』(1978)という句集が一冊あるが、まだ日本では訳句集として刊行されていない。掲出句は中上哲夫訳。原文は「Looking over my shoulder/my behind was covered/with cherry blossoms」。桜の花を特別なとらえ方をしているわけでも、技巧をこらして詠んでいるわけでもない。背後をふりむいて、ぎっしりといちめんに咲いている桜に圧倒された、その驚き。毎年桜を観ている私たち日本人とはちがった強いショックを、ギンズバーグは当然覚えただろう。中上によれば、英文学者R.H.ブライスに『俳句』四巻本があるとのこと。掲出句には、1955年に「バークレー市にある小屋で『俳句』を読みながら作った俳句」というギンズバーグの前書きが付いている。代表作「HOWL」を書いた翌年である。あるインタビューで「黒い表紙の俳句の本が宝物だったよ」と語っている。ケルアックやスナイダーらも、さかんに俳句を作ったことはよく知られている。ケルアックの死後に出版された『俳句の本』(2003)には八百句近くが収められているとのこと。詩・禅・俳句――それらは彼らの精神のなかで緊密に連関していた。掲出句からおよそ20年後のギンズバーグに「鼻にとまった蝿よ/わたしは仏陀ではない/そこに悟りはないよ」(中上哲夫訳)という、ユーモラスで禅的な俳句がある。蛇足ながら、1988年10月に、シルバーのネクタイをしめたギンズバーグが砂防会館のステージに登場したとき、私は興奮のあまりからだが震えた。「現代詩手帖特集版・総特集=アレン・ギンズバーグ」(1997)所載。(八木忠栄)


June 0562007

 牛逃げてゆく夢を見し麦の秋

                           本宮哲郎

の秋は「秋」の文字を含みながら、夏の季語。麦の穂が熟すこの時期を、実りや収穫のシーズンである「秋」になぞらえて使っている。竹の春(秋)や竹の秋(春)なども、このなぞらえを採用する悩ましい季語だ。と、これは蛇足。さて、牛が逃げる夢を見た作者である。〈牛飼ひが牛連れ歩くさくらかな〉〈馬小屋をざぶざぶ洗ふ十二月〉など、新潟の地で農業を営む作者の作品に牛や馬が登場することはめずらしくないが、どれも事実に即した詠みぶりのなかで、夢とは意外であった。さらになぜ牛だったのだろう。馬では、颯爽としていて一瞬にして遠ざかってしまうだろう。引きかえ、おそらく立ち止まり振り返りしながら去っていく牛であることで、存在に象徴や屈託が生まれた。夢とはいえ、農耕の大きな働き手である牛を失う絶望感とともに、一切の労働から解放してあげたいという心理も働いているように思う。凶作や戦争の終わりを預言すると伝えられる「件(くだん)」は牛の姿をしているという。夢のなかにも現実にも、途切れず聞こえていたのは、さらさらと川の流れのような黄金色の麦畑に風が吹き抜ける音である。目が覚めてからもふと、夢のなかに置いてきてしまった牛の行方に思いを馳せる。『伊夜日子』(2006)所収。(土肥あき子)


July 0672007

 落蝉の眉間や昔見しごとく

                           山口誓子

ちて転がっている蝉を拾い、その眉間(みけん)に見入る。ああ、昔見たようだとふと思う。そういう句だ。「見し」ではなくて「見しごとく」なので、はっきり記憶にあるわけではない。見たような感じがするということ。この句を郷愁の句ととることも出来る。蝉捕りをした頃の「昔」の回想。それにしても、蝉の眼と眼の間の距離、色彩、形状。どこにも従来の郷愁的、俳句的情緒のかけらもない。芭蕉の「さまざまのこと思ひ出す桜かな」あたりが一般的抒情のお手本になったからみんな花鳥風月の桜や鶯や風や月の抒情を利用して回顧のシーンや心情に移行するわけだ。ここにはその「典型」がない。日常の瞬間の即物的風景を入口にして、そこから個人的体験へ入っていく。僕はこの句に既視感(デジャ・ブ)をみる。死んだ蝉の眉間にぐんぐん接近するにつれて、カメラは存在の不安ともいうべきものを映し出す。「昔見たような感じ」から「自分がここにこうして在る不思議」へと至るのだ。このカメラワークには世界のクロサワもかなわない。俳句形式でなければ描けない固有の衝撃力がここにはある。存在の不安は即物非情と称せられる誓子作品に一貫しているものであって、それは子規が発案したときに「写生」という方法がもともと持っていた最大の特徴というふうに僕は思うのだが。『遠星』(1947)所収。(今井 聖)


August 2482007

 みづうみの水のつめたき花野かな

                           日野草城

体形で何々かなに掛ける。虚子の「遠山に日の当りたる枯野かな」もある。つめたいのは花野ではなくて水。日が当っているのは枯野ではなくて遠山である。最近では岸本尚毅の「手をつけて海のつめたき桜かな」も同様。こういう用法と文体はいつの時代に誰が始めたのだろう。何だって最初はオリジナルだったのだ。起源を知りたいとは思うがわかっても実作にはつながらない。自分のオリジナルを作りたい実作者にとっては用法の起源はあまり意味を持たない。古い時代の用法をたずねて今に引いてくるのは昔からよくあるオリジナルに見せかける常道である。新しい服をデザインする発想に行き詰ったら、そのとき古着のデザインに習えばいいと思うのだが。この句、水と花野の質感の対比、みづうみと花野の大きさの対比。二つの要素の対比、対照によって効果を出している。草城のモダニズムは自在にフィクションを構成してみせたが、誓子や草田男のように、文体そのもののオリジナルに向ける眼差しは無かった。そこが、草城作品の「俗」に寄り添うところ。そこに魅力を感じる人も多い。講談社『日本大歳時記』(1983)所載。(今井 聖)


January 1512008

 ごみ箱を洗って干してあっ風花

                           薮ノ内君代

五の「あっ風花」は作者のひとりごと。家庭の主婦はまず一日の天気を把握してから本日の家事一切のメニューを組み立てる。わたしのようなぐうたら者でさえ、輝く朝日を浴びたときには、布団も干したい、シーツも洗いたい、ところで猫を洗ったのは一体いつ!?などと考える。まるで人間の身体のどこかにソーラーパネルのようなものが埋め込まれていて、太陽の光にどん欲に反応しているかのようだ。掲句の日和はいたって上々。いつものメニューをこなしたあと、「たまにはごみ箱でも洗おうかしら」と思うくらいのお天気だったに違いない。大物を洗って、とっておきの日向に干して、そしてようやく人心地となったとき、青空から降るプレゼントのような風花に気がつく。雲ひとつない空からきらきらと風花が舞う不思議は、遥か遠くに降った雪が風に乗って届くのだという。風花に気づいた彼女は、ソーラーパネルを全開にして、空からの便りを読み取るのだろう。「ヤマノムコウハ雪デスヨ」。それじゃ、熱い紅茶でも入れてひと休みでもしましょうか。いそいそとパネルをたたんで、あたたかいリビングへと入っていく。〈さくらさくらただ立ち止まってみるさくら〉〈クローバー大人になって核家族〉『風のなぎさ』(2007)所収。(土肥あき子)


March 2932008

 もう少し生きよう桜が美しい

                           青木敏子

しいものを美しいと詠むのは、できそうでできない。美しい、と言ってしまわないでその美しさや感動を詠むようにと言われたりもする。その上この句の場合、好き嫌いは別として、美しいことは誰も異論がない桜である。桜が美しい、と言いきったこの句のさらなる眼目は、もう少し、にある。あと何回この桜が観られるか、とか、桜が咲くたびに来し方を思い出す、といった桜から連想される思考を経ているのではない。目の前の満開の桜の明るさの中にいるうちに、ふと口をついて出た心の言葉だろう。今を咲く桜は、咲き満ちると同時に翳り始め、散ってゆく。それでも目の前の桜はいきいきと輝いて、作者に素直な感動と力を与えた。何回も繰り返して読んでいるうち、考えて作ったのではなく感じて生まれたであろうこの句の、もう少し生きよう、という言葉がじんわりしみてくるのだった。今、咲き増えてゆく桜に、日毎細る月がかかっている。「短詩型文学賞」(「愛媛新聞」2007年12月15日付)所載。(今井肖子)


April 1042008

 明日出会ふ子らの名前や夕桜

                           中田尚子

週の月曜日あたりに入学式のところが多かったのか、真新しいランドセルを背負った小学生やだぶついた制服を着た中学生と時折すれちがう。入学式には満開の桜が似合いなのに、東京の桜はほとんど散ってしまった。温暖化の影響で年々桜の開花は早まっているらしく、赤茶けた蘂ばかりになってしまった枝が少しうらめしい。我儘な親と躾けられない子供にかき回される教育現場が日々報道されているけれど、初めて出会う子供達の名前を出席簿に確かめる担任教師の期待と不安は昔と変わらないのではないか。明日に入学式を控えて先生も少し緊張している。これから卒業までの年月をともに過ごす子供達である。育てる楽しさがあると同時に巣立つまでの責任は重い。時に感情の対立もあるかもしれないが、そのぶつかり合いから担任とそのクラスの生徒達だけが分かち合える喜びや親しさも生まれてくる。生徒の側からみても最初に受持ってもらった先生は幾つになっても懐かしいものだ。明日胸を高鳴らしてやって来る子供達が入る校舎の窓に、咲きそろう桜が色濃く暮れてゆく。入学式前日の教師のつぶやきがそのまま句になったような優しさが魅力だ。「俳句年鑑」(角川2008年度版)所載。(三宅やよい)


April 1642008

 葉脈に水音立てて春キャベツ

                           田村さと子

ャベツは世界各地で栽培されているが、日本で栽培されるようになったのは明治の初めとされる。キャベツは歳時記では夏に類別されているが、葉は春に球形になり、この時季の新キャベツは水気をたっぷり含んでいて、いちばんおいしい。ナマでよし、炒めてよし、煮てよし。掲出句は、まだ収穫前の畑にあって土中から勢いよく吸いあげた水を葉の隅々まで行き渡らせ、しっかりと球形に成長させつつあるのだろう。春キャベツの勢いのよさや新鮮さにあふれている句である。葉脈のなかを広がってゆく水の音が、はっきりと聴こえてくるようでさえある。恵みの雨と太陽によって、野菜は刻々と肥えてゆく。このキャベツを、すでに俎板の上に置かれてあるものとして、水音を聴いているという解釈も許されるかもしれない。俎板の上で、なお生きているものとして見つめている驚きがある。「水音」と「春」とのとりあわせによって、キャベツがより新鮮に感じられ、思わずガブリッとかぶりつきたい衝動にさえ駆られる。先日見たあるテレビ番組――しんなりしてしまったレタスの株の部分を、湯に1〜2分浸けておくと、パリパリとした新鮮さをとり戻すという信じられないような実験を見て、野菜のメカニズムに改めて驚いた。もっともこれはキャベツには通用しないらしい。さと子はラテンアメリカをはじめ、世界中を動きまわって活躍している詩人で、掲出句はイタリア語訳付きの個人句集に収められている。ほかに「井戸水の生あたたかき聖母祭」「通夜更けて雨の重たし桜房」など繊細な句がならぶ。『月光を刈る』(2007)所収。(八木忠栄)


April 0242009

 さくらばな散るや家族の鮨の上

                           吉田汀史

京でも本格的に桜が咲き始めた。日曜日に訪ねた小金井公園では数百本を超える花の下で大勢の人たちが食事を楽しんでいた。桜前線の北上に伴って、全国各地で飲食の宴が繰り広げられることだろう。持ち込まれるごちそうは様々だが、掲句の「鮨」はそのむかし、遠足や運動会の「ハレ」の日に母親が準備してくれた巻き鮨やちらし鮨だろう。普段はめったに口にすることの出来ないごちそうを家族そろって外で食べるのは特別な嬉しさだった。この句を読んで、季節は違うが岡本かの子の「鮨」という小説を思い出した。食が細くて食べ物を受け付けなかった男の子が母親の握った鮨を初めて食べた日を大人になってから懐かしむ話だが、青葉の照る縁側で母親が鮨を握るくだりが好きだった。「よくご覧、使う道具はみな新しいものだよ。それから拵える人はおまえさんの母さんだよ」と、ぱんと打ったきれいな掌から繰り出してくる鮨のおいしそうだったこと。「家族の鮨」という言葉に酸味が効いた手作りの鮨の味が口いっぱい広がる。その鮨の上にほろほろと散るさくらばなが無条件で家族が睦みあっていた頃へ読むものを連れ出し、それぞれの回想を誘うのだろう。『海市』(2007)所収。(三宅やよい)


April 0742009

 山桜咲く山の木に囲まれて

                           名村早智子

のところ入学式にはすっかり葉桜になってしまうほど桜の時期が早まってしまったが、今年は開花宣言から雪が降るような思わぬ寒さが続いたせいか、いまだ満開とずいぶんと見応えがある。あらゆる樹木のなかで、もっとも人間に近いような気がする桜だが、山中にひっそりと佇む山桜となると人の気配もぐっと薄れ、白々とつつましく、そしてもちろん野趣も持ち合わせる。ソメイヨシノに代表される里桜は、花だけが吹き出すように咲き満ち、その豊満な美しさは絶景でもあるが、圧迫感に胸が塞がれる思いもするものだ。一方、山桜は花のかたわらにつやつやとした紅色の幼葉を伴うことで、全体の輪郭をやわらげ、花の咲く木としての自然な構えがことさら好ましく思える。木漏れ日のなか、山の雑木に紛れ咲く桜には、家族に囲まれた器量よしの娘のような、素顔の輝きがこぼれている。〈芽吹きつつ木は木の容思ひ出す〉〈叱られて金魚の水を替へてをり〉『山祇』(2009)所収。(土肥あき子)


April 1142009

 本当の空色の空朝桜

                           永野由美子

の朝桜は、少し濡れているような気がする。それは昨夜の雨なのか、朝靄の名残なのか。満開にはまだ少し間のある、紅のぬけきらない桜。ときおり花を激しく揺らす鳥の姿も見える。朝の光を散らす桜に透ける空を仰ぎながら作者は、ああ日本の空の青だ、と思ったのだろう。本当の空色がどんな色なのか、それを考えてみたところであまり意味はない。二人で一緒に空を仰いでいても、私の青空とあなたの青空は違うだろうし、それを確かめる術はない。ただ、その青空がくれる心地よさを共有していれば幸せだ。別に空が青いくらいで幸せになんかならない、という人はそれでもいい。ああ、そんな気持ちになったことがある、という人はその青空を思い出すかもしれない。それぞれである。開花してから一気に暖かくならなかった東京の桜、やや潔さに欠けつつ終わってゆく。それも勝手な言いぐさだなと、アスファルトの上を行き所なく転がる花屑を、謝るような御礼を言うような気持ちで見送っている。俳誌「阿蘇」(2008・七月号)所載。(今井肖子)


April 1842009

 ふらここに坐れば木々の集まれり

                           井上弘美

寄駅を出るとすぐ、通勤電車の車窓にこんもりと木々が見え、ああ、また丘がふくらんできたなあ、と実感している。この丘は公園になっていて、不必要な整備が好きな私の住む区にしては、木も地面もまあそのままの貴重な場所だ。その広い公園の端に、すべり台やぶらんこなど遊具が置かれている一画がある。人がいないのを見計らって、逆上がりをしてみたりぶらんこを思いきり漕いだりするのだが、ちょうど今頃がぶらんこには心地よいかも、とこの句を読んで思う。萌え始めた木々に囲まれたぶらんこを遠くから見ている作者。ゆっくりと近づいてぶらんこの前に立つ。体の向きを変え、鎖をつかみながら、その不確かな四角に腰を乗せ、空を仰いだ途端、ぶらんこを囲んでいる木々に包みこまれたような気持ちになったのだろう。そして風をまといつつ、しばらく揺られていたに違いない。〈うらがへりうらがへりゆく春の川〉〈野遊びの終りは貝をひらひけり〉など春の句で終わる句集の最後の一句は〈大いなる夜桜に抱かれにゆく〉。『汀』(2008)所収。(今井肖子)


April 2842009

 朧夜の切株は木を恋うてをり

                           百瀬七生子

い輪郭の春の月と、鮮やかに輝く秋の月。どちらもそれぞれ美しく、古来より人々に愛されてきたものだが、理屈をいえばその差は空気中の湿度が影響している気象現象である。しかし朧夜が持つ格別な風情には、明るくもなく、暗くもなく、曖昧という音感に漂う月のありようが、大気を一層潤ませているように思う。まろやかな月光がしっとりしみ込む春の夜。年輪をあらわに夜気にさらした切株が、ありし日の思い出に身をゆだねている。大樹だった頃の一本の幹の輪郭をうっとりと懐かしみ、千枚の若葉の繁りを狂おしく宙に描く。太陽の光をやさしく漉してから注ぐ乳白色の月の光に、春の大気が加わると、痛みを持つものに声を与えてしまうのかもしれない。朧夜にそっと耳を澄ませば、木の言葉や、石のつぶやきに地上は満たされていることだろう。〈胴ながく兎抱かるる山桜〉〈仏にも木の香のむかし朴の花〉『海光』(2009)所収。(土肥あき子)


December 08122009

 生年を西暦でいふちやんちやんこ

                           上原恒子

裁が良かろうと悪かろうと、一度身につけたらなかなか手放せないのがちゃんちゃんこ。最新のヒートテックインナーも、あったかフリースもよいけれど、背中からじんわりあためてくれる中綿の感触は、なにものにも代え難い。掲句の「生年を西暦」に、昭和と西暦の関係は25を足したり引いたり、などと考えながら巻末を見れば作者は1924年生まれ、和暦で大正13年生まれである。作品の若々しさから、もっとずっと若い方を想像していたが、たしかに〈子が産んで子が子を産んで月の海〉などからは、子が生む子がまた生む子という長い時間が描かれている。それにしても、便利ではあるが、なにもかも西暦にしてしまうことには、違和感も抵抗もささやかながらあるものだ。掲句の西暦で言う理由には、「どうせ年齢を計算するんだったら、分かりやすいほうで…」なのか、または「大正って言うのはちょっと…」なのかは分からないが、わずかな逡巡が胸に生まれたため「西暦で言った」ことが作品になったのだろう。そして、西暦を使いこなすことによって、下五のちゃんちゃんこが年寄りめいて見えない。ちゃんちゃんこはベスト型の袖のないものをいうが、ここには「ものごとを手際よく(ちゃんちゃんと)行うことができることから」という意味があるという。あくまでも機能的にアクティブなファッションなのだ。ところで、西暦は下2桁のみ答えることも多く、たとえば1963年生れを単に63年と省略したときに、昭和63年もあるのだから分かりにくい、と言われたことを、ふと思い出した。お若く見える皆さま、お気をつけくださいませ。〈睡蓮は水のリボンでありにけり〉〈げんまんは小指の仕事さくら咲く〉『水のリボン』(2009)所収。(土肥あき子)


January 1212010

 建付けのそこここ軋む寒さかな

                           行方克巳

書に「芙美子旧居」とあり、新宿区中井に残る林芙美子の屋敷での一句。芙美子の終の住処となった四ノ坂の日本家屋は、数百冊といわれる書物を読み研究するのに六年、イメージを伝えるために設計者や職人を京都に連れていくなどで建築に二年を費やしたという、こだわり尽くした家である。彼女は心血を注いだわが子のような家に暮らし、夏になれば開け放った家に吹き抜ける風を楽しみ、冬になれば出てくるあちこちの軋みも、また愛しい子どもの癖のように慈しんでいたように思う。掲句の「寒さ」は、体感するそれだけではなく、主を失った家が引き出す「寒さ」でもあろう。深い愛情をもって吹き込まれた長い命が、取り残された悲しみにたてる泣き声のような軋みに、作者は耳を傾けている。残された家とは、ともに呼吸してきた家族の記憶であり、移り変わる家族の顔を見続けてきた悲しい器だ。芙美子の家は今も東西南北からの風を気持ち良く通し、彼女の理想を守っている。〈うすらひや天地もまた浮けるもの〉〈夜桜の大きな繭の中にゐる〉『阿修羅』(2010)所収。(土肥あき子)


April 0642010

 荒使ふ修正液や桜の夜

                           吉田明子

正液は短期間にずいぶん進化したもののひとつだろう。現在の主流は、つるつるっと貼るテープ状のものと、カチカチっと振って使うペンタッチタイプのようだ。どちらもすぐに文字が書けるところがポイントで、以前の液体タイプは乾くまでしばらく待たなければならなかった。昭和52年の発売当初はマニキュアボトルのような刷毛型で、しばらく使うと刷毛がガチガチに固まり、それはもう厄介であったと聞く。修正液の上に慌てて文字を書こうとすれば、よれてしまったり、にじんでしまったり、またぞろ上から修正することにもなる。そうこうするうちに、その部分だけやけに立体的になってしまう。間違ってしまったという気持ちの萎えと、一刻も早く正しく訂正しようという焦りが失敗を生み続け、今日の修正液の改善へとつながっているのだろう。掲句にある「荒使ふ」は、荒っぽくじゃんじゃん使うという意だが、下五の「桜の夜」の効果によって、単なる文字の書き間違いというより、心の逡巡を感じさせる。ところどころに桜の花が散ったような書面を思うと、修正前の言葉を憶測して透かしてみたりしてしまうだろう。修正跡には揺れ動く作者の一瞬前の時間が封印されている。〈校庭に白線あまた春をはる〉〈ペコちゃんもポコちゃんもけふ更衣〉『羽音』(2010)所収。(土肥あき子)


April 1242010

 きれいねと知らぬ人とのさくらかな

                           相生葉留実

見に出かけての句ではないだろう。歩いていてたまたま遭遇した「さくら」の見事さに、つい近くにいた見知らぬ人に呼びかけたのである。同意を求められた人も、微笑してうなずき返している様子が目に浮かぶ。何の屈託もない素直な中身と詠みぶりが、それだけにかえって読後の印象を鮮明にしてくれる。花を愛でた句は枚挙にいとまがないけれど、アングル的にはけっこう意表をついた句だと思う。詩から俳句に転じた人は多いが、作者もそのひとりだ。京都に住み、第一詩集『日常語の稽古』(思潮社・1971)以降良質な作品を書きつづけていて、私も愛読していたが、いつの間にか俳句の道に進んでいた。そのことを知ったときにはかなり驚きもしたけれど、今回まとめられた句集を読むと、とかく思念や情趣をこねくりまわしがちな「現代詩」の世界と分かれた理由も納得できたような気がする。いわば資質的に俳句に似合っていた人とでも言うべきか。熱心な詩の「稽古」のおかげで、ついに自分にかなった言語世界を発見できたとも……。ただ惜しむらくは、作者が昨年一月に子宮癌で亡くなったことだ。さくらの季節に出た自分の句集を、生きて見ることはなかった。俳人としては、これからというときだったのに……。合掌。『海へ帰る』(2010・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


January 2112011

 手を容れて冷たくしたり春の空

                           永田耕衣

本尚毅さんの「手をつけて海のつめたき桜かな」と並べて鑑賞すると面白い。「したり」は能動。自分の手が空を冷たくするのだ。直感的に空よりも手の方が冷たいという比較を強調しているように思う。そして句の中には自分と春の空の二者が登場する。それに対して岸本さんの方は手と海と桜の三者が登場する。空間の奥行はこちらの方が構成的。耕衣作品は「春の空」を擬人化しているようにも見える。その分、文学臭が強いようでもある。『殺佛』(1978)所収。(今井 聖)


March 2832011

 列島をかじる鮫たち桜咲く

                           坪内稔典

いぶ前にはじめてこの句を読んだとき、一コマ漫画みたいだなと思った。真ん中に日本地図があって、周囲の海から獰猛な目つきの鮫たちが身を乗り出すようにして、容赦なくガリガリと列島をかじっている。地図の上では、そんなこととは露知らぬ人たちが暢気に開花したばかりの花に浮き立っている図だ。みんなニコニコと上機嫌である。といって、句はそんな人間の営みを揶揄しているのでもなく、批評しているわけでもない。ただ、人間とはそうしたものさと言っているのだと思う。どこか滑稽でもあり、同時に切なくもなる。そして、再びいまのような状況の中で読んでみると、この句の味わいはより鋭く心に刻まれるようだ。日本中に善意の押し売りが蔓延し、「がんばろう日本」などという空疎なスローガンが飛び交うなかで、この句のリアリティが増してくる事態を、どう考えればよいのか。テレビのCMで頻繁に流れてくる金子みすゞの「みんな良い人」みたいな詩よりも、こういうときにこそ、せめてこういう句を流せるようなタフな国になってほしいものだと思う。『百年の家』(1995)所収。(清水哲男)


April 0442011

 何と世に桜もさかず下戸ならば

                           井原西鶴

読、三読しても、意味がよくわからない。これは読者が悪いのではなく、作者の罪である。西鶴独特の乱暴な詠みぶりと言って良い。もっとも西鶴に言わせれば、わからないのは古典の教養がないせいだと憫笑されるかもしれないが…。どうやらこの句、伊勢物語に出てくる有名な歌「世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」を踏まえているらしい。これを西鶴はもう一ひねりして、いまの世の中、桜も咲くことなく、酒の飲めない身であったなら、どんなに良いことかと詠んでいる。何故なのか。この年の正月に出された「衣裳法度」なる政令によって、とにかく庶民は派手な衣装を「自粛せよ」ということになり、女性たちの楽しみである花小袖を着るなどはもってのほか、花の下でのどんちゃん騒ぎも自粛させられてしまった。これに大いに不満を覚えた西鶴は、この句を詠んで為政者にあてこすったというわけである。と、意味がわかれば、今日このごろの東京都知事への不満としても通用しそうだけれど、なんだかなあ、句が下手すぎてせっかくの憤りも空回りしているのが残念だ。『好色旅日記』(貞享4年)所収。(清水哲男)


April 2442011

 さまざまのこと思ひ出す桜かな

                           松尾芭蕉

者が松尾芭蕉なのだから、この句はずいぶん昔に詠まれたものです。それでもと、わたしは思うのです。もしかしたらこの句は、今、この年の春に読まれるために作られたのではないのかと。100人以上の震災孤児と、一万人を超す水死者という事実に、いまだにわたしの思考は止まったままです。それにしても、桜が咲いたことにこれほど無頓着だった年を、経験したことがありません。ああ咲いているなと思い、でも思いはすぐに、もっと大切なことに移ってゆきます。できることならいつの日にか、あたりまえのなんでもない春の中で、無心に桜の花を見上げたいと願うのです。『日本名句集成』(1991・学燈社)所載。(松下育男)


April 0542012

 桜咲く間違い探しに来たような

                           くぼえみ

心部でも桜がようやく満開になった。「二つの絵を見比べてください違うところが7か所あります」というのが間違いさがし。空を見上げて、こぼれるほどの桜の枝々を見つめていると、あのときの桜、いつか見た桜がフラッシュバックしてゆく。そうした記憶の桜と眼前の桜を重ね合わせて、自分が間違い探しをしている気持ちになったのだろう。幼い頃、二階の黒い窓枠のそばの桜の枝を見たとき、白っぽい花の一輪一輪がはっきり見えて綺麗と思ったのが記憶初めの桜だった。それからどのくらいの桜を見てきたことか。入学式の桜、送別会の桜、花見の場所取りに行った土手の桜、近所に咲く庭桜。花を見つめる、見上げる、愛でる。毎年決まって、桜を見続けてきた行為は確かに間違い探しに似ているかもしれない。『猫じゃらし』(2010)所収。(三宅やよい)


April 0842012

 満開の桜のために琴を弾く

                           品川鈴子

の句を作るのは、難しいです。例年、この時期の句会の兼題は「桜」になりますが、私の場合は、句が桜に負けてしまって、うまく作れたためしがありません。その点、掲句は、句の中に桜を見事にとどめています。満開の桜のために琴を弾く----俳句ですが散文のようでもあり、さらりと句を受け入れられます。ただ、何度もこの句を反芻しているうちに、現実の満開の桜とは刹那の瞬間にしか存在しえず、それは奇蹟的なことであ り、しかし、俳句の中ならば、そのような満開の桜の瞬間をとどめておくことが可能なのだということに気づかされました。琴を弾くまでには数分程度、準備の時間が必要です。丈、約180センチの琴を運び、十三本の絃、一本一本に柱(じ)を立て、それから曲に合わせて調絃します。「満開の桜のために」琴を準備しているあいだ、きっと桜は散らないで、満開のまま、じっと待ってくれている、俳句の中ならば、これは可能です。そして、準備が整い、爪が十三本の絃を連続的にはじいた琴の音に共鳴して、満開の桜の花びらが舞い散り始める、そんな余韻が残ります。作者は、心から桜を愛で、桜の心に手向けて琴を弾く心根をおもちで、これを有心体というのでしょう。『季寄せ 草木花 春・上』(1980朝日 新聞社)所載。(小笠原高志)


April 1142012

 阿部定も昭和も遠き桜哉

                           間村俊一

きなり阿部定である。いわゆる「猟奇事件」として往時の世間を騒がせた、ご存知の事件である。昭和11年5月、愛欲のはてに情夫石田吉蔵を殺害した阿部定は、五年の刑期を終えて出所して社会復帰した。その調書を読んだことがあるけれど、しっかりした女性だと深く胸を打たれるものがあった。小説やいくつかの映画にもなり、関根弘は『阿部定』という詩集さえ刊行している。さて、掲句はもちろん草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」が踏まえられている。もはや「明治」ではなく「昭和」であり、「雪」ではなく「桜」である。「阿部定」「昭和」「桜」の取り合わせは、いかにもヴィヴィッドなこの才人らしくて、お見事。俳人諸家は残念ながら、きっとここまで大胆には詠わないだろう。何かにつけて、「昭和が終わった」とか「戦後が終わった」と巷間しばしば言われるが、あの阿部定を持ち出して昭和を遠ざけ、そこに桜をあしらったあたりは、さすが並の装幀家ではない。「桜」が猟奇的な阿部定事件を熱く浄化しているように感じられて、後味はいい。句集の後記に「絵空事めいた句が多くなつてしまふ」とあるが、俳人でないわれらにとって、そこにこそポイントが潜んでいるのではないか。他に「人妻にうしろまへある夕立かな」がある。『鶴の鬱』(2007)所収。(八木忠栄)


April 1242012

 エリックのばかばかばかと桜降る

                           太田うさぎ

味もなく面白い、と俳句を表する言葉があるけど、この句はナンセンスでリズムがよくて、可愛くて面白い。東京へ来て「ばか」という言葉に人を見下す視線を感じていた。関西弁で「あほやなぁ」と言われても「ほんと、あほやね」と軽く返せるのに東京言葉で「ばか」と言われるとその冷たさにしばし落ち込む。そんな言葉も「ばかばかばか」と三連発で続けると、女の子が小さなこぶしを振り上げて気のきかない恋人の背中なんかをたたいているようでチャーミングに思える。それに加え「桜降る」なのだから「ばかばかばか」が桜の花びらの舞い散る擬音語のようにも思える。この名前がよくある男名だと妙に現実臭くなるが、「エリック」と嘘っぽい名前に言葉のモードを飛ばしたことでマンガチックな雰囲気を醸し出している。独特の軽みを持つこの作者の句は楽しい。「時速百キロつぎつぎと山笑う」「春深し立てば畳につんのめり」『俳コレ』(2011)所載。(三宅やよい)


April 1542012

 山桜雪嶺天に声もなし

                           水原秋桜子

の故郷、釧路の花見は六月です。南北に長く、高低差のある日本列島の春は、ゆっくりやってきます。北国、雪国、寒冷地の春はこれからです。掲句は、はるか遠景に雪嶺を望む盆地の山桜に、声も出ないほど見入ってしまっている実景の句でしょう。句の視線は、山桜から雪嶺へ、雪嶺から天へと高度を上げ、それは、花から雪へ、雪から天へと純度を上げていくことでもありながら、急転直下、声もなしと作者のところにストンと落ちてきています。清澄な気持ちは天まで昇りつめ、一転、地上の自身に帰ってくる。作者は、声を出せないことで、天まで昇った純度を俗に陥ることなく保ちました。たとえば、信州で野良仕事をしているお百姓さんが、ふと手を休めて山桜を 見上げたとき、「山桜雪嶺天」の漢語が連なっているように、花と雪嶺と天が一体となった風景を見て、声が出ない、言葉をのみ込む、しかし、その時、風景そのものをのみ込んでしまっている、それゆえお百姓さんは寡黙なのでしょう。作者・秋桜子も、この土地の人が、この土地の「山桜雪嶺天」を見るようにこの風景をのみ込んでしまって声もなし、だったのではないでしょうか。以前、舞踏の土方巽さんが、弟子をとるときは、納豆を食わせる、とおっしゃっていました。「うまい」と言ったら不合格。黙ってズルズル食い切る奴を弟子にすると。にぎわう花見は天地人の人。声が出ない花見は天地人の天。どちらも好きです。『日本大歳時記・春』(1983・講談社)所載。(小笠原高志)


March 1932013

 瞑ることなきマンボウの春の夢

                           坊城俊樹

袋サンシャイン水族館で生まれて初めて泳いでいるマンボウを見たときは、長蛇の列の末のパンダより大きな衝撃を受けた。なにしろその巨大な魚は生きものとしてどう見ても不自然なのである。胸から後ろがぷつりと切れているような姿で、泳ぐというよりただそこに居る。水流にまかせてぼーっとしているだけなら、尾びれなど必要ないと進化の段階であっさり手放したのだろうか。水槽にはビニールの内壁が作られており、それは硝子面に衝突して死に至るケースがあるというマンボウへの配慮であった。こんなぼんやりした生きものがよくもまぁこれほど大きくなるまで生き延びたものだと怪訝に思っていると、なんと三億という途方もない数の卵を生むのだという。ともかく多く生むことで種を保つという方針を選択したのだ。眠るでもなく、起きるでもなく、ひたすら海中を浮遊し、時折海面にぶかりと浮かんで海鳥とたわむれる彼らの生きかたは、たとえるなら春が永遠に続くようなものだろう。マンボウの身はまことにとらえどころなく、淡くうららかな夢のような味だという。〈絵踏してよりくれなゐの帯を解く〉〈肩車しては桜子桜人〉『日月星辰』(2013)所収。(土肥あき子)


March 2232013

 櫻のはなし採寸のあひだぢう

                           田中裕明

明な句で日常詠である。「もの」の写生ではなくて事柄のカット。採寸の場には、採寸する人とされる人と二人しかいない可能性が高いのだからその両者の会話だろう。作者がその会話を聞いていたのではないとするなら、作者はされる側の人である。吊るしを買わずオーダーの服であるから懐に多少の余裕のある状況もわかる。僕は昔ブティックで働いていたので採寸をする人であった。採寸をする側は客の話題におあいそをいう。機嫌をそこねないように話を合わせるのである。採寸をする側とされる側の櫻のはなしから両者の立場や生活が次第に浮き彫りになっていく。人間社会を描くとあらゆる角度からその人間に近づく工夫ができる。自然も面白いけど人間はもっと面白い。『セレクション俳人・田中裕明集』(2003)所収。(今井 聖)


March 2932013

 天皇も老斑もたす桜かな

                           田川飛旅子

初読んだときはなんて世間的常識に乗った句だろうと思ったのだった。周知のごとく天皇は敗戦までは「現人神」であられた。負けたら「人間」になられた。その「常識」を踏まえて人間なんだから老斑も持たれるのだと詠んだ。俗臭ぷんぷんの述懐だなあと。最近はこの句が違ってみえてきた。田川さんは大正3年生まれ。昭和15年に応召。海軍大尉に昇進後、海軍少将橋本信太郎の娘信子さんを娶る。その義父は戦隊司令官として重巡羽黒に乗艦しペナン沖にて戦死。田川さんは職業軍人ではなかったが、軍幹部に見込まれた軍国日本のエリートの立場でもあった。そういう世代や立場の人にとって「天皇」という存在がどのように「現人神」であったかということについては戦後生まれの人間の理解と想像を超えるところがある。田川さんは東大出だが、当時の知識人としてそういう「常識」といかに折り合いをつけていたのだろうか。兵は死に瀕したとき天皇陛下万歳ではなく「お母さん」と叫んだというのも「戦後民主主義」によってつくられた意図的な「俗説」臭い。お母さんではなくて「天皇陛下万歳」と心から叫んだ兵も多かったはずである。それは軍国教育による悲劇(喜劇)と言ってしまっていいのか。「天皇の老斑」の問題は今も終わっていないように思える。『邯鄲』(1975)所収。(今井 聖)


March 3132013

 休日を覆ひ尽くしてゐる桜

                           今井肖子

開の桜並木の全体を、構図の中に納め切っています。花の下にいる休日の人々は花に覆い尽くされ、俯瞰した視点からは桜ばかり。一句は、屏風絵のような大作になっています。「桜」を修飾している四文節のうち三文節が動詞で、意味上の主語である「桜」は、「覆ひ+尽くして+ゐる」という過剰な動詞によって、大きく、絢爛に、根を張ることができています。なるほど、桜を描くには形容詞では負けてしまう、動詞でなければ太刀打ちできない名詞であったのかと気づかされました。句集には、掲句同様、率直かつ大胆な構図の「海の上に大きく消ゆる花火かな」があります。蕪村展、ユトリロ展、スーラ展、探幽展からモチーフを得た句も並び、中でも前書きにモネ展の「春光やモネの描きし水動く」は、睡蓮の光を見つめるモネの眼遣いを追慕しているように読み取れます。こういうところに、作者の絵心が養われているゆえんがあるのでしょう。『花もまた』(2013)所収。(小笠原高志)


January 1412014

 東京は寒し青空なればなお

                           高野ムツオ

京という文字には、都会・混雑・高層ビル群など、全てのイメージが詰め込まれている。宮城在住の作者の感じる東京の寒さとは、気温だけではなく、人間性や景色も含まれるものだ。高層ビルの隙間に見える空の切れ端が抜けるように青ければ青いほど、その無機質の物体との取り合わせが不気味に寒々しく感じさせるのだろう。そういえば、実家の母もひとりで東京には出てこない。やはり「寒いから」が理由で、それは静岡という温暖な場所に住んでいるせいだと取り合わなかったが、もしかしたら母もまた、気温とは別の寒さを訴えていたのかもしれないと、鈍な娘は今さらながら思い至ったのだ。〈瓦礫みな人間のもの犬ふぐり〉〈みちのくの今年の桜すべて供花〉『萬の翅』(2013)所収。(土肥あき子)


March 2732014

 さくらさくら坂田利夫のやうな鯉

                           西原天気

っはっは、いるいる。水面にぼおーと丸い口を開けてなにやら愛嬌のある目玉がどこに焦点があっているかわからない感じで餌を待っている鯉の顔、「アホの坂田」と舞台に登場する坂田利夫の顔が二重写しになってクローズアップされる。確かに坂田利夫の底抜けの陽気さはさくら満開の春の雰囲気にぴったり。むかし吉本が今のように東京でもメジャーになる前、関西の深夜の番組で暴れまわっていたのが、坂田利夫と間寛平だった。当時は吉本興業がテレビの中心を席巻するとは夢にも思わなかった。それでも坂田利夫は昔と相変わらずのポジジョンで、池の中から時折浮かび上がってくる風情があっていい感じだ。今年の桜はいつごろが見ごろかな?『はがきハイク』(2013年5月号)所載。(三宅やよい)


April 0342014

 学生でなくなりし日の桜かな

                           西村麒麟

学や社会人になる喜びと桜を重ねた句は山ほどあるけど、この句の感慨を詠んだ句はあるようでない。既視感のある視点をずらした表現に読む者をひきつける切なさがある。学生から社会人へ移行する見納めの桜。入学式ごと、学年があがるごと見てきた桜ともお別れ。自由で気楽な学生時代が終わるということは、親に依存してきた長い子供時代の終わりでもある。これからは自分の力で世間を渡っていかなければならない。先の見えないのはいつの時代も一緒かもしれないが、通勤途上で会う新入社員とおぼしき人たちの顔つきを見ていると、これから社会に出て行く喜びより不安の方が大きいのではないかと思ってしまう。『鶉』(2013)所収。(三宅やよい)


September 0392014

 内股(うちもも)に西瓜のたねのニヒリズム

                           武田 肇

句を含む句集『同異論』(2014)は、作者がイタリア、スペイン、ギリシアなどを訪れた約二年間に書かれた俳句を収めた、と「あとがき」に記されている。したがって、その海外旅行中に得られた句である可能性もあるが、そうと限ったものでもあるまい。西瓜は秋の季語だけれども、まだ暑い季節だから内股を露出している誰か、その太い内股に西瓜の黒いタネが付着しているのを発見したのであろう。濃いエロチシズムを放っている。国内であるか海外であるかはともかくとして、その「誰か」が女性であるか男性であるかによって、意味合いも鑑賞も異なったものになるだろう。「ニヒリズム」という言葉の響きからして、男性の太ももに付着したタネを、男性が発見しているのではあるまいか、と私は解釈してみたい。でも、白くて柔らかい「内股に…たね」なら女性がふさわしいだろうし、むずかしい。作者はそのあたりを読者に任せ、敢えて限定していないフシもある。おもしろい。「西瓜のたねのニヒリズム」という表現は大胆であり、したたかである。同じ句集中に「ニヒリズム咲かぬ櫻と來ぬ人と」「ニヒリズム春の眞裏に花と人」がある。著者七冊目の句集にあたる。(八木忠栄)


March 2432015

 日のさくら月のさくらと咲きはじむ

                           鈴木多江子

年よりやや早いとの予想のなか、南から次々と開花宣言が続いている。これから、北海道釧路の満開予想5月15日まで、日本列島が今年の桜の彩られる。定点観測している近所の桜も、週末にはぎゅっと固くにぎりしめられたような蕾にピンクの嘴のようなほころびが見え始め、あとは日に夜にと咲き継ぐことだろう。朝に開き、一日の終わりにはしぼんでしまう花も多くあるなかで、昼の日差しに咲き、夜の月光に咲く桜はなんと奔放な花なのだろう。その自在さが、まるで日本列島を気ままに北上している旅人の足取りのようにも思えるのだ。桜はそんなことなどちっとも気にすることなく、今年も勝手に咲いて、勝手に散っていくのだろう。『花信』(1990)所収。(土肥あき子)


March 2932015

 一歩在り百歩に到る桜かな

                           永田耕衣

集では掲句の前に、「一歩をば痛感したり芹なずな」があります。春がやって来た実感です。今、「やって来た」と書きましたが、春はやって来るものであると同時に、こちらから一歩近づいていかなければ訪れるものではないという、当たり前の真実に気づかされます。若い頃なら、これを実存というのだななどと観念的に片づけていました。しかし、「痛感」という言葉は、身に起こる切実な情ですから、「芹なずな」に同化するほどの強い思い寄せがあります。掲句では、「一歩」 から出発して「百歩」に到っています。満開の花の盛りは、じつは、桜の側にあると同時に、見る側が作り出すのだという教訓を得ます。花見は座って見るばかりでなく、歩いて歩いて歩き尽くしてこそ、花が盛る、そんな、花と人との双方向的な対峙を教わりました。このおじいちゃんは、やはり、桜に対しても貪欲でした。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)


April 1242015

 奥山の風はさくらの声ならむ

                           飴山 實

を愛でる人は、桜を待ち、桜を見て、桜と別れます。花びらが散り終わったあとの萼(がく)の臙脂(えんじ)に満開の名残を見、葉桜になれば初夏を予感し始めます。中には、一度の別れでは満足できない人も居て、掲句の場合はそうなのかもしれません。平地では桜の盛りが過ぎても、山地に行けばまた桜に出会えます。山の奥の方から風が吹いてきて、それを桜の声なのかと感じています。しかし、強い風ではないようなので、花びらは届いていません。「奥山の風」は、おそらく山桜が放つ匂 いも届けてくれています。桜は見えていなくても、匂いから花の盛りの期待は高まります。「さくら」とひらがな表記しているところにも、やや官能的な匂いの気配を読みとります。なお、句集の配列から見て、「奥山」は吉野山と思われます。『飴山實全句集』(2003)所収。(小笠原高志)


January 1512016

 可惜夜のわけても月の都鳥

                           黛まどか

惜夜(あたらよ)は明けてしまうのが惜しい夜という意味。余白に恋の一夜を感じさせる。川は大川(隅田川)の波間に岸辺の灯り、雲間には月光が辺りを照らしきらめいている。眠れないのか都鳥が乱舞している。因みに都鳥はユリカモメのこと。冬鳥で河口近くや海岸に生息し、春になると頭が黒くなる。伊勢物語の「名にし負はばいざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」と昔から恋にからめた鳥として知られる。語りても語り尽せぬ二人の夜が更けてゆく。月よ都鳥よ値千金の今宵の時を止めてくれ。可惜夜は可惜夜ゆえに尊さがあるのだが。他に<行きたい方へそれからのしゃぼん玉><さくらさくらもらふとすればのどぼとけ><さうしなければ凍蝶になりさうで>など所載。『忘れ貝』(2006)所収。(藤嶋 務)


April 0542016

 一本は転校生の桜かな

                           柏柳明子

島桜と江戸彼岸の交配によって生まれた染井吉野。接ぎ木で増やされ、現在では日本の桜の8割といわれるほど全国に浸透した。校庭にも必ず咲く桜もほとんどは染井吉野であるが、そこに一本だけ異なる種に目がとまる。接ぎ木という同じ性質を持つ染井吉野は同じ色合いで一斉に咲き、一斉に散る。そんな染井吉野に圧倒されるように、一本だけほんの少し濃く、あるいは薄く、時期が違えて咲く桜の心細さを転校生に見立てたのだ。成長が早く十年ほどで美しい樹形となり、葉が出る前に大輪の花が咲き揃いたいへん華やか、そして手入れが簡単で育てやすいこともあり、戦後競って各所で植樹された。しかし、同種での密集は年齢を重ねるほどに樹勢を衰えさせる。排他とは仲間以外を退けることを意味するが、集団は異物によってまたリフレッシュされるもの事実である。春は親の仕事の関係で転校生も増える季節。不安と緊張を乗り越え、がんばれ、転校生。〈花吹雪時計止まつてをりにけり〉〈サイフォンの水まるく沸く花の昼〉『揮発』(2015)所収。(土肥あき子)


April 0642016

 さくらさくらわが不知火はひかり凪

                           石牟礼道子

知火海は熊本県と鹿児島県にまたがる八代海のことである。水俣病でよく知られた水俣湾は、不知火海の水俣市沿いを言う。桜が咲き乱れている季節である。光をいっぱいに受けている不知火の海面は凪で、いっそう光り輝いているのであろう。未曾有の工場排水によって、住民が長年苦しんだ惨い歴史をもつ海には、それでもこの季節にふさわしく、光を受けてウソのように何事もないかのごとく、静かに凪いだ水面が広がっている。道子は俳人ではないけれど、あの穴井太と出会って交流するなかで、1986年に句集『天』を刊行している。(原告とチッソが和解するのは10年後だった。)掲出句と、もう一句「祈るべき天とおもえど天の病む」を引用して、酒井佐忠は「彼女の心の底には、いつも桜花が春風に花びらを揺らすように、キラキラと水面を光り輝かせるかつての『不知火の海』がうごめいている」(「抒情文芸」157号)と評している。これら二句は『天』に収められたもの。『石牟礼道子全句集・泣きなが原』(2015)所収。(八木忠栄)


April 1342016

 うつむいて歩けば桜盛りなり

                           野坂昭如

開の桜をひたすら見上げて歩ける人は、幸いなるかな。人にはそれぞれ事情があって、そうはいかないケースもある。花の下でおいしいお酒を心ゆくまで浴びられる人は、幸いなるかな。大好きだったお酒を今はとめられている人もある。せっかくの桜の下であっても、心ならずそれに背を向け、うつむいて歩く……。昭如は2003年に脳梗塞で倒れてから、夫人の手を借りた口述筆記で作家活動を亡くなるまでつづけた。浴びるほど飲んでいたお酒もぴたりとやめ、食事の際の誤嚥に留意しながら生きて、2015年12月に急逝した。編集者時代、私は一度だけ昭如氏に連れられて四人で、銀座の“姫”でご馳走になったことがある。後年、講演会で正岡子規について、昭如の詳しい話を聞いて驚いたことがあった。脳力アップのための『ひとり連句春秋』は忘れがたい一冊だった。2009年4月某日の日記に記述はなく、掲出句だけが記されている。その前の4月某日には「春らしい朝だ。桜の様子を観に外へ出る」と書き出され、神田川沿いの満開の桜を観ての帰り、「歩いてきた分、帰らなければならない。帰りは桜を観るゆとりもなく、ひたすら地面を見て歩くのみ。云々」とある。日記の最後は亡くなる日であり、「この国に、戦前がひたひたと迫っていることは確かだろう。」で終わっている。『絶筆』(2016)所載。(八木忠栄)




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