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March 2531997

 春服や若しと人はいうけれど

                           清水基吉

るい色のスーツを着て出社すると、何人かから「お若いですねえ」と声がかかる。よくある光景だ。照れ臭いような、嬉しいような……。しかし、日常的に自分にしのびよる老いの影は、自分がいちばんよく知っている。いくら若ぶっても、取り返しがつくはずもない。だから、照れた後で、一瞬、針のような寂しさが胸をつらぬく。ところで作者によれば、この句の初出で「春服や」の上五は「行秋や」になっていたという。つまり、後に句集に入れるにあたり「晩秋」を「春」に置き換えてしまったわけだが、私は改作された明るい寂しさのほうを採りたい。『宿命』所収。(清水哲男)


February 2122001

 春服の人ひとり居りやはり春

                           林 翔

の上では春となったが、まだ吹く風も冷たい。たいていの人が冬服のままでいるというのに、ひとりだけ「春服」を着ている人がいる。街中でちらりと見かけたのではなく、会合か何かの場所での作句だろう。「居り」という語が、作者がその人を認めている時間の長さを示しているからだ。地味な冬服に囲まれた明るく軽快な感じの「春服」一点なので、ずいぶんと目立つ。ましてや、女性であればなおさらに際立つ。もちろん男女いずれでもよいわけだが、作者はそんな「ひとり」を見やりつつ、「やはり春」なんだなと嬉しい気分になった。「やはり春」と自己納得したときに、心のうちにポッと明るいものが灯った。「でも、あの人、寒くないのかなあ……」。ところで、篠原梵に「人皆の春服のわれ見るごとし」がある。ちょうど、揚句に詠まれた人が詠んだような句だ。春めいてきたので、浮き浮きとした気分で春服を着て街に出てみたら、まだ「人皆」は冬服だった。じろじろと見られているようで、なんだか恥ずかしい。こういうときは、本人が意識するほど他人は見てはいないというが、いややっぱり、揚句の作者のように見ている人は見ているのだ。ただし、こうした感性は昔の人のそれであって、いまの若い人にはほとんど通じないかもしれない。なお「春服」はむろん春の季語だが、「春着」は晴着に通じ新年の季語に分類されている。念のため。「俳句研究」(2001年3月号)所載。(清水哲男)


March 0532005

 春服の部下を呼び付け叱らねば

                           久松洋一

語は「春服(しゅんぷく)」。正月の「晴れ着」ではない。春の明るく軽やかな服装のこと。男女の着る和装、洋装いずれをも指すが、どちらかといえば女性の洋装が詠まれる場合が多い。掲句も、そうだろう。とくに若い女性のファッションは、季節に敏感だ。いや、季節を先取りすると言ったほうが適当か。この女性も、まだ春というには寒い日に、いかにも春らしい服装で出勤してきた。それだけでオフィスは華やぐ感じがするものだが、彼女自身もいつもよりは気分が華やいでいるようで上機嫌だ。が、彼女が仕事上の失敗をしたことを、上司である作者は気がついている。そのままにしておくと今後とも業務に差し支えるので、どうしても「叱らねば」ならない。叱ったら、きっと彼女はションボリしてしまうだろう。せっかくの「春服」の華やぎも台無しだ。できることなら叱りたくはないのだけれど、立場上からしてやむを得ない。でも、いつ「呼び付け」ようか。もう少し後でもいいかな……。気が重い。タイミングを計りながら、ちらちらと彼女の様子をうかがっている中間管理職の苦さがよく伝わってくる句だ。私は作者のような立場になったことはないが、上司には「部下」にはわからない上司としての辛さがあるのだ。上司もつらいよ。「抒情文芸」(2005年春号)所載。(清水哲男)


April 0742008

 春の服買ふや余命を意識して

                           相馬遷子

の服には明るい色彩や柄のものが多い。それだけに高齢になってから買うときには、若いころのように弾む気持ちもなくはないけれど、他方では少々派手気味かななどと、余計な神経を使ったりもする。そのためらいの気持ちを止めるよう自己説得するのが、「余命」の意識というわけだ。あと何年生きられるか、わからない。二十年も三十年も生きるのは、常識的にまず不可能だ。そんな年齢なのだから、いつまでも昔のように世間や周囲の目を気にしていたら、死ぬときに後悔することにもなりかねない。着たいものを着られるのも、生きていればこそなのである。そう自分に言い聞かせて、作者はえいっとばかりに春の服を買ったのだった。むろん、あと何年着られるかなあという心細さも自然に「意識」されて……。そしてこのことは、春の服に限らない。私なども最近、多少高価なものを買おうとするたびに、このような自己説得法を使うようになってきた。それにしても大概の場合に、何の根拠もなくあと十年は生きるつもりの余命意識を持ち出すのだから、まったくいい気なものだとは思うけれど、しかしそのいい気を一方で哀しく思う気持ちも拭えないというのが、正直なところだ。『合本・俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


March 0632011

 春服にポケットのなき不安かな

                           鹿野佳子

ケットという、かわいらしい響きのためでしょうか。あるいは、まど・みちおの「ふしぎなポケット」を連想するからでしょうか。ポケットというものは、どこか、よいことにつながる通路のような心持がします。春になり、分厚いコートを脱ぎ、さらにジャケットを脱いで身軽になったあとで、でも、どこか物足りない気分がするのはどうしてでしょうか。ああそうか、冬服にはあっちにもこっちにもあったポケットの数が、急に減ってしまったのでした。このポケットには財布を、こちらには定期券とハンカチをと、しまう場所を決めていたもの達も、テーブルの上に置かれて、困り果てています。どこにもしまえなくなった小物たちが、徐々に明るくなってくる春の日射しの下で、持ち主と一緒に、途方に暮れているのです。『新日本大歳時記 春』(2000・講談社)所載。(松下育男)




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