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March 1431997

 春光へすべり落ちたる領収書

                           岡田史乃

スにでも乗ろうとしたときだろうか。財布から小銭を取り出そうとして、中の領収書がひらひらと滑り落ちてしまった。他人から見ればほほえましい光景だが、領収書というものは、当人にとってはけっこう生々しかったりする。それが明るい春の日差しのなかに舞うということになると、生々しさが一瞬気恥ずかしさに転化する。束の間の微妙な心の揺れを描いていて、味わい深い句だ。作者には、この種の繊細な神経に触発された作品が多い。「繃帯の指を離れよしゃぼん玉」「ぼたん雪机の上のオブラート」など。『浮いてこい』所収。(清水哲男)


April 0242002

 開く扉を春光射し入る幕間かな

                           村田 脩

語はむろん「春光(しゅんこう)」だが、似たような季語「春の日」が暖かい日差しを言うのに対して、やわらかく色めいた春の光線を言う。体感よりも心理的な感覚に重点が置かれている。芝居見物の句。前書きを読むと、明治座で山本富士子、林与一らの『明治おんな橋』を見たとある。出演者と題目から推して、華麗で幻想的な舞台が想像される。一幕目が終わり場内に灯がともされると、観客がざわざわと立ち上がり、扉(と)を開けて外に出ていく。舞台に吸い寄せられていた心に、徐々に現実が戻ってくる時間だ。作者も立って表に出るため、扉を押した途端に、まぶしい春の光が射し込んできた。戸外であればやわらかい光も、目を射るように感じられた。「春光射し入る」と字余りの硬い感じが、よくその瞬間を表現している。ここで一挙に現実が戻ってきたわけだが、これも芝居見物の醍醐味だろう。しかも、外は良い天気。舞台の楽しさもさることながら、芝居がはねた後も機嫌よく帰ることができると思うと、楽しさ倍増だ。そんな好日感が、はっしと伝わってくる。そしてまた席に戻り幕が開くと、「春の闇深うたちまち世も暗転」となって、再び舞台に集中するのである……。「俳句研究」(2001年5月号)所載。(清水哲男)


February 2222007

 春光や家なき人も物を干す

                           和田 誠

光は春の訪れを告げ、物みな輝かす明るさを持った光。まだ寒く冷たい風が吹き荒れる日も多いけど、黒い古瓦に照り返す日差しがまぶしい。小学生のときに読んだ『家なき子』は少年レミが生き別れた親を探す話だったが、現在の「家なき人」は住みどころなく仮住まいを余儀なくされている人たちだろう。公園の片隅や川の土手にありあわせの材料で小屋を建てる。多重債務。家庭崩壊。病気。失職。自ら競争社会に見切りをつけた人もいるかもしれない。酷薄な福祉環境へ変わりつつある今の日本では明日どんな運命が待ち構えているかわかったものではない。ホームレスではなく「家なき人」と表現したところに既成の言葉に寄りかからない作者の見方が表れているように思う。仮住まいをしている人たちにも生活がある。春の光があふれる公園で、冬の間に湿った蒲団を干し、ありったけの服を洗濯する。何年前だったか、とある春の午後、隅田川の土手に仮住まいをしているおじさんが家財道具を干し出したそばの椅子に腰掛け、上流に向う水上バスにしきりに手を振っているのを見たことがある。水上バスのデッキに出ている人達も笑顔で手を振り返す。春日はきらきらと隅田川の川面に光り、手を振る人も白い水上バスも景色の中に輝いて見えた。『白い嘘』(2002)所収。(三宅やよい)


March 3132013

 休日を覆ひ尽くしてゐる桜

                           今井肖子

開の桜並木の全体を、構図の中に納め切っています。花の下にいる休日の人々は花に覆い尽くされ、俯瞰した視点からは桜ばかり。一句は、屏風絵のような大作になっています。「桜」を修飾している四文節のうち三文節が動詞で、意味上の主語である「桜」は、「覆ひ+尽くして+ゐる」という過剰な動詞によって、大きく、絢爛に、根を張ることができています。なるほど、桜を描くには形容詞では負けてしまう、動詞でなければ太刀打ちできない名詞であったのかと気づかされました。句集には、掲句同様、率直かつ大胆な構図の「海の上に大きく消ゆる花火かな」があります。蕪村展、ユトリロ展、スーラ展、探幽展からモチーフを得た句も並び、中でも前書きにモネ展の「春光やモネの描きし水動く」は、睡蓮の光を見つめるモネの眼遣いを追慕しているように読み取れます。こういうところに、作者の絵心が養われているゆえんがあるのでしょう。『花もまた』(2013)所収。(小笠原高志)




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