G黷ェ句

March 1331997

 芹レタスセロリパセリよ血を淨めよ

                           山本左門

然から遠ざかるほど、人は病気に近づく。京都浄瑠璃寺の住職がラジオで話していた。作者の焦燥感も、そこに根拠を持っている。歴史上、自然が昨今ほどに人間の問題となったことはないのである。その意味で、まことに現代的な俳句だ。この句は、小川双々子が主宰する「地表」(一宮市)で、今年度の地表賞を受賞した作品のひとつ。双々子は、左門句が現在の俳壇に蔓延する季語季題趣味と無縁であることを評価し、さらに言う。「季語は業のようなものだから、その純正なはたらき(詩としてのはたらき)を駆使するなど容易ではない。大方は<俳>などというはたらきを計るから、自らの居場所さえ解らなくなる為態となる」。(清水哲男)


March 2932006

 玉萵苣の早苗に跼みバス待つ間

                           石塚友二

語は「萵苣(ちさ・ちしゃ)」で春。馴染みが無く、難しい漢字だ。本サイトでは「ちさ」として分類。萵苣には何種類かあるが、「玉萵苣」はいわゆる一般的なレタスのことである。田舎のバス停で、作者はバスを待っている。おそらくは一時間か二時間に一本しか来ないバスだから、乗り遅れないように早めに行っているのだろう。周囲は畑ばかりで、あとは何もない。所在なく見回しているうちに、近くに小さな緑の葉っぱが固まってたくさん生えている苗床が目についた。跼(かが)みこんで見ると、可愛らしい玉萵苣の「早苗」である。ときどきバスのやってくる方角に目をやりながらも、いかにも春らしい色彩の早苗を楽しんでいる図は、長閑な俳味があって好もしい。作者が跼みこんだのは、むろん相手が小さいこともあるのだが、もう一つには、玉萵苣は戦後になって洋食の普及とともに栽培されはじめた品種だから、まだかなり珍しかったことがあるのかもしれない。「おっ」という感じなのである。我が家の農家時代にも萵苣を植えていたが、残念ながら玉萵苣ではなかった。「掻(か)き萵苣」と言って、この品種は既に平安時代には栽培されていたという。その都度、下のほうの葉っぱを何枚か掻きとって食べるタイプのもので、香気はまずまずとしてもやや苦みのあるところが子供には美味を感じさせなかったけれど……。いずれの萵苣も、晩春になると黄色い花をつける。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます