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March 0931997

 蝶が来てしらじらしくも絵にとまる

                           安田くにえ

れからの季節。戸外にイーゼルを立てて、絵を描く人が増えてくる。我が家の近所では、井の頭公園、神代植物公園など。見かけると、ほほえましい気分になる。通りがかりの人は、たいていひょいと絵をのぞいていく。なかには、立ち止ってしばし筆使いをみつめる人もいる。そんな折りに、たまさか蝶が飛んできて、絵にとまったというのである。すなわち、絵に描いたような出来事が起きた……。「こいつは出来過ぎだなあ」と、作者は苦笑している。「蝶よ、そこまでやるのかよ、しらじらしいぞ」と、絵の外の偶然の絵画的光景の発見に目を細めている。これぞ、俳句の楽しさ。俳諧の妙。(清水哲男)


April 1041997

 あをあをと空を残して蝶分れ

                           大野林火

みあって舞いのぼった蝶が、空中でパッと二つに分れたのだ。その後の青空の美しさ。大野林火の耽美的傾向を代表する作として知られるこの句は、昭和16年作、句集『早桃』に収められている。同じ16年作に、「瓶の芒野にあるごとく夕日せり」という句もあるが、いずれも単純な構図の中に作者の美意識がよく顕れている。こうした句からも分るように、林火は自他共に許す抒情派であるが、句作とともに文章をよくし、随筆集『行雲流水』評論集『近代俳句の観賞と批評』など句集以外の著作も多い。明治37年生れ、臼田亜浪門。昭和21年、俳誌「濱」創刊主宰、同53年、俳人協会会長就任。同57年8月21日没。「先師の萩盛りの頃やわが死ぬ日」が辞世の句。先師は亜浪。(大串章)


March 1131998

 朧夜の四十というはさびしかり

                           黒田杏子

齢を詠みこんだ春の句で有名なのは、なんといっても石田波郷の「初蝶やわが三十の袖袂」だろう。三十歳、颯爽の気合いが込められている名句だ。ひるがえってこの句では、もはや若くはないし、さりとて老年でもない四十歳という年齢をひとり噛みしめている。朧夜(朧月夜の略)はまま人を感傷的にさせるので、作者は「さびし」と呟いているが、その寂しさはおぼろにかすんだ春の月のように甘く切ないのである。きりきりと揉み込むような寂しさではなく、むしろ男から見れば色っぽいそれに写る。昔の文部省唱歌の文句ではないけれど、女性の四十歳は「さながらかすめる」年齢なのであり、私の観察によれば、やがてこの寂しい霞が晴れたとき、再び女性は颯爽と歩きはじめるのである。『一木一草』(1995)所収。(清水哲男)


April 2142000

 暗殺の寝間の明るさ蝶の昼

                           守屋明俊

句お得意の明暗対比の技法。どこだろうか。かつて歴史的な暗殺事件のあった家屋が公開されており、観光名所のようになっている。暗殺現場であったという寝間に入ってみると、とても伝えられるような陰惨な殺しがあった部屋とは思えない。説明の人が柱や欄間に残る刀傷を指さしたりしてくれるのだが、なんとなく腑に落ちるような落ちないような……。真昼の明るさが、暗殺の生臭さを遮るのだ。加えて、暗殺の政治的有効性がゼロになった現代という時代性が、かつての暗殺理解を拒むからでもある。部屋の障子は大きく開け放たれ、明るい庭に目をやると、蝶がひらひらと春風に流れているのが見える。どなたにも、きっと同種の体験はおありだろう。私など、こうした建物や部屋に入ったときにいつも感じるのは、昔の人(大昔からつい五十年ほど前までの大人たち)の平均的な背丈の小ささだ。「五尺の命ひっさげて」とある戦前の歌を証明するように、玄関からして首を縮めて入らないとゴツンとやりそうになる。だから、現代人はとてもあんなに小さな空間で刀なんぞは振り回せないだろう。心理的にはそういうことも働いて、史実の暗さや生臭さはいっそう遠のいてしまうのかもしれない。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)


February 2522001

 蒼白な火事跡の靴下蝶発てり

                           赤尾兜子

つう「蝶発(た)てり」といえば、明るい希望や期待の心などを象徴するが、揚句の蝶の姿はあくまでも暗い。火事場に残された焼け焦げて汚れた靴下のように「蒼白な」蝶が、ふらふらっと哀れにも舞い上がったところと読む。それでなくとも暗い蒼白な「火事跡」に、追い討ちをかけるようにして蝶の暗い飛翔ぶりを足している。「これでもか」と言わんばかりだ。このとき、読者には少しの救いも感じられない。やりきれぬ。このような感受性や叙情性は、詩人で言えば萩原朔太郎のそれに近いだろう。極端に研ぎ澄まされた神経が、ことごとく世間一般の向日性と摩擦を生じてしまうのだ。作者は新聞記者だったから、結局はどこかで世間との折り合いをつけなければならぬ職業であり、かといってみずからの感受性を放擲するわけにもいかず、そこで「蒼白」になりながら俳句を書いていたのだと、これは私の偏見かもしれないが……。でも、兜子はなぜ死ぬ(自殺・1981)まで俳句に執着したのだろうか。私の長年の素朴な疑問だ。揚句一句だけからでもわかるが、この程度の中身ならば詩ではむしろ凡庸なレベルにダウンする。逆に言えば、俳句に執着したがために、この内容で止まってしまったと言うべきか。詩で言えることを、無理に俳句で言おうとしているとしか思えない。だったら、俳句でないほうがよかったのではないか。なぜ俳句だったのか。その意味で、兜子にかぎらず、私がハテナと思う「俳人」は少なくない。眺めていて、詩の書き手は比較的俳句や短歌を読むが、ほとんどの俳人は詩を読まないようだ。関係がありそうな気がする。『虚像』(1965)所収。(清水哲男)


February 1722003

 世の中よ蝶々とまれかくもあれ

                           西山宗因

者・宗因は、言わずと知れた江戸期談林派の盟主。とにかく(「とまれかくもあれ」が「とまれかくまれ」に言い掛けてある)、「世の中」なんてものは、深刻に考えだしたらキリがない。「蝶々」が花から花へ止まったり移ったりするように、すべからく我々も好き勝手なことをして生きるべきだ(「かくもあれ」)と呼びかけている。「そんなことを言われても無理……」という読者の反応も、ちゃんと計算済みの句だ。というよりも、本人がいちばん「無理」を承知の上での作句なのだろう。この句から自然に思い起こされるのは、誰もが知っている「ちょうちょう」という子供の歌だ。♪ちょうちょう ちょうちょう/菜の葉に とまれ/菜の葉に あいたら/桜にとまれ……。作詞は明治期の野村秋足という人だが、もしかすると、掲句を踏まえているのかもしれない。と思えるほどに、内容が酷似している。こんな享楽思想を、いたいけない子供たちに吹き込んでよいものだろうか(笑)。蛇足ながら、「ちょうちょう」のメロディは日本製ではない。原曲がスペイン民謡であることは、知る人ぞ知るところ。さて、また新しい一週間のはじまりですね。今週もお互いに、「とまれかくまれ」掲句なんぞは忘れて(!?)がんばりましょうや。(清水哲男)


March 1632003

 けふいちにち食べるものある、てふてふ

                           種田山頭火

頭火は有季定型を信条とした人ではないので、無季句としてもよいのだが、便宜上「てふてふ(蝶々)」で春の部に入れておく。放浪行乞の身の上で、いちばん気がかりなのは、むろん「食べるもの」だ。それが「けふ(今日)いちにち」は保証されたので、久方ぶりに心に余裕が生まれ、「てふてふ」の舞いに心を遊ばせている。好日である。解釈としてはそんなところだろうが、ファンには申し訳ないけれど、私は何句かの例外を除いて、山頭火の句が嫌いだ。ナルシシズムの権化だからである。元来、有季定型の俳句俳諧は、つまるところ世間と仲良くする文芸であり、有季と五七五の心地よい音数律とは、俗な世間との風通しをよくするための、いわばツールなのである。そのツールを、山頭火はあえて捨て去った。捨てた動機については、伝記などから推察できるような気もするし、必然性はあると思うけれど、それはそれとして、捨てた後の作句態度が気に入らない。理由を手短かに語ることは難しいが、結論的に言っておけば、有季定型を離れ俗世間を離れ、その離れた場所から見えたのは自分のことでしかなかったということだ。そんなことは、逆に俗世間の人たちが最も執心しているところではないのか。だからこそ、逆にイヤでも世間とのつながりを付けてしまう有季定型は、連綿として受け入れられてきているのではないのか。せつかく捨てたのだったら、たとえば尾崎放哉くらいに孤立するか、あるいは橋本夢道くらいには社会批判をするのか。どっちかにしてくれよ。と、苛々してしまう。まったくもって、この人の句は「分け入つても分け入つても」自己愛の「青(くさ)い山」である。『種田山頭火句集』(2002・芸林書房)他に所収。(清水哲男)


April 2242003

 《蝶来タレリ!》韃靼ノ兵ドヨメキヌ

                           辻貨物船

まどき「韃靼(だったん)ノ兵」と言ってもリアリティはないけれど、かつての韃靼兵(モンゴル兵)は勇猛果敢をもって天下に鳴り響いていた。いや、勇猛果敢というよりも残虐非道性で群を抜いており、ヨーロッパ人は彼らを地獄(タルタルス)からの使者とみなして怖れたという。すなわち、韃靼は「タルタル、タタール」の音訳だ。そんな怖れを知らぬ地獄の軍団が、一匹の蝶の出現にどよめいたというのである。暴力装置として徹底的に鍛え抜かれた荒くれ男どもにも、こんなに柔らかい心が残っているのだと言ってみせたところが、いかにも抒情詩人・辻征夫(俳号「貨物船」)らしい。カタカナ表記にしたのは、読者に漢文の読み下し文を想起させ、遠い歴史の一齣であることを暗示したかったのだろう。掲句は、言うまでもなく安西冬衛の次の一行詩「春」を踏まえたものだ。「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」。このことについては、小沢信男が簡潔に書いているので引用しておく。「颯爽たる昭和モダニズムの記念塔。現代詩の辺境をひらいた先達へ、ざっと七十年をへだてて世紀末の平成から、はるかに送るエール。その挨拶のこころこそが、俳諧に通じるのではないか」。なお、この句は萩原朔太郎賞受賞記念として建てられた碑に刻まれている。朔太郎ゆかりの広瀬川河畔(前橋文学館前)に、細長く立っている。「広瀬川白く流れたり/時さればみな幻想は消えゆかん。……」(朔太郎)。『貨物船句集』(2001・書肆山田)所収。(清水哲男)


April 2142004

 山国の蝶を荒しと思はずや

                           高浜虚子

語は「蝶」で春。作者は「思はずや」と問いかけてはいるが、べつだん読者にむかって「思う」か「思わない」かの答えを求めているわけではない。この質問のなかに、既に作者の答えは含まれている。「山国の蝶を荒し」と感じたからこそ、問いかけの形で自分の確信に念を押してみせたのだ。「きっと誰もがもそう思うはずだ」と言わんばかりに……。優美にして華麗、あるいは繊細にして可憐。詩歌や絵画に出てくる蝶は多くこのように類型的であり、実際に蝶を見るときの私たちの感覚もそんなところだろう。ところが「山国の蝶」は違うぞと、掲句は興奮気味に言っている。山国育ちの蝶は優美可憐とはほど遠く逞しい感じで、しかも気性(蝶にそんなものがあるとして)は激しいのだと。そしてここで注目すべきは、、蝶の荒々しさになぞらえるかのように、この句の表現方法もまた荒々しい点だ。そこが、作者いちばんの眼目だと、私には思われる。すなわち、作者の得意は、蝶に意外な荒々しさを見出した発見よりも、むしろかく表現しえた方法の自覚にあったのではなかろうか。仮に内容は同じだとしても、問いかけ方式でない場合の句を想像してみると、掲句の持つ方法的パワーが、より一層強く感じられてくるようだ。まことに、物も言いようなのである。これは決して、作者をからかって言うわけじゃない。物も言いようだからこそ、短い文芸としての俳句は面白くもあり難しくもあるのだから。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)(清水哲男)


March 0732006

 春の宵遺体の母と二人きり

                           太田土男

語は「春の宵」。句意は明瞭だ。通夜の座で、束の間のことではあろうが、たまたま部屋に一人きりとなった。いや、正確には「母と二人きり」になった。そのことを詠んでいるだけだが、普通の感覚からすると「遺体」という表現はひどく生々しくて気にかかる。そこまであからさまな言い方はしなくても、他にいくらでも言い換えは可能だ。だが作者は、それを百も承知で「遺体」と言わざるを得なかったのだと思う。つまりこの句では、この「遺体」の表現に込められた思いが重要なのである。すなわち、母上が亡くなり、その死を覚悟していたかどうかは別にして、作者はいざ母の死に直面して混乱してしまっている。いわば悲しみのわき上がってくる前の心の持ち方が、定まらないのだ。だからこそ、いま目の前に横たわっている母は、既に故人なのだということを、何度もおのれ自身に言い聞かせなければならなかったのだろう。それが作者に,生々しくも「遺体」という表現をとらせたのだと思われる。となれば、お母さんはもう「遺体」なのだと何度も繰り返し、戸惑いを克服して自己納得するまでの精神的経緯が、すなわち掲句のテーマでなければならない。したがってこの句は、通常言うところの惜別の句などではない。あくまでも自己に執した、自己憐憫の静かな歌だ。句集では,この句のあとに「蝶々と百歳の母渉りゆく」があり、生々しい「遺体」句を読んだ読者は、ここでようやくほっとできるのである。『草原』(2006)所収。(清水哲男)


February 0522007

 洞窟はモンシロチョウを放しけり

                           松原永名子

ンシロチョウは、まだ蛹(さなぎ)のままで冬眠中だろう。これがどこからともなくヒラヒラ舞い出てくると、春来たるの実感が湧く。この句、そのどこからかを「洞窟」からと特定したところが面白い。良いセンスだ。情景としては洞窟のあたりにモンシロチョウが飛んでいるだけなのだが、冬の間はじいっと洞窟が囲い込んでいたチョウを、陽気が良くなってきたのを見定めたかのように、「もう大丈夫だよ」と、ようやく表に放してやったと言うのである。このときに、洞窟は温情あふれる生き物と化している。真っ暗な空間が抱え込んでいた真っ白(厳密には斑点があるので純白とはちがうけれど)なモンシロチョウ。想像するだけで、この色彩の対比も鮮やかである。この対比が鮮やかだから、読者は句のどこにも書かれていない春の陽光の具合や洞窟周辺の草木や花々の色彩にまでイメージを膨らますことができるというわけだ。余談になるが、日本のモンシロチョウは奈良時代に、大根の栽培と共に移入されたと考えられているそうだ。ひょっとすると大昔には、本当にモンシロチョウは洞窟が放すものと思っていた人がいたかもしれない。俳誌「花組」(2006年・第31号)所載。(清水哲男)


March 1132007

 起きよ起きよ我が友にせんぬる胡蝶

                           松尾芭蕉

代詩が昆虫をその題材に扱うことは、そう多くはありません。かすかに揺れ動く心情を、昆虫の涙によって表したものはありますが、多くの場合「虫」は、姿も動きも、人の観念を託す対象としてはあまり向いていないようです。片や、季語がその中心に据えられた「俳句」という文芸においては、間違いなく虫はその存在感を存分に示すことができます。季節の中の身動きひとつでさえ、俳人の掌に掬い取られて、時に感情の深部にたどり着くことがあります。掲句、「ぬる」は「寝る」の意味。虫の中でも、「蝶」の、夢のように舞うすがたは、地べたを這う虫とは違った印象をあたえてくれます。芭蕉が「起きよ起きよ」と二度も声を掛けたくなったのも、色彩そのもののような生き物に、弾むこころが抑えられなかったからでしょう。「我が友にせん」というのは、単に話し相手になっておくれということでしょうか。あるいは蝶に、夢の中身を教えてくれとでも言うつもりでしょうか。一人旅の途中で、目に触れたかわいらしい生き物に、つい声を掛けたと思えば、ほのぼのとした情感を持つことができます。ただ、見方によっては、これほどにさびしい行為はないのかもしれません。一人であることは、それが選び取られたものであっても、ちょっとした心の揺らぎによって、だれかへもたれかかりたくなるもののようです。『芭蕉物語』(1975・新潮社)所収。(松下育男)


March 1632007

 初蝶や屋根に子供の屯して

                           飯島晴子

常の中で見たままの風景から感動を引き出すことは、簡単そうに見えて実は一番難しく、それゆえ挑戦しがいのある方法だと僕は思う。一番というのは、俳句のさまざまの手法と比較しての話。僕等は社会的動物だから、先入観を脳の中にインプットされてここに立っている。どんなシーンには感動があって、どんなシーンが「美しい」のか。ホントにホントの「自分」がそう感じ、そう思っているのだろうか。先入観の因子が「ほらきれいだろ」と脳髄に反射的に命令を出してるだけのことじゃないのか。そもそもラッキョウの皮を剥くみたいに、インプットされた先入観の皮を剥いで、ホントの自分を見出す試みを僕等はしているのだろうか。こういう句を見るとそう思う。屋根に子供がいるだけなら先入観の範疇。あらかじめ準備されたフォルダの中にある。猫が軒を歩いたり、秋の蝶が弱々しかったりするのと同じ。要するに陳腐な類想だ。しかし、「屯して」と書かれた途端に風景の持つ意味は様相を変える。屋根に子供が屯する風景を誰があらかじめ脳の中に溜めておけるだろう。四、五人の子供が屋根の上にいる。考えてみれば、現実に大いに有り得る風景でありながら、である。一日に僕等の目の前に刻々と展開する何千、何万ものシーンから僕等はどうやればインプットされた以外のシーンを切り取れるのか。子規が気づいた「写生」という方法は実はそのことではないのか。この方法は古びるどころか、まだ子規以降、端緒にすら付いていないと僕は思うのですが。『八頭』(1985)所収。(今井 聖)


March 2132007

 つくしが出たなと摘んでゐれば子も摘んで

                           北原白秋

会では、こんな句に点は入らないだろう。八・六・五という破調のリズムはあまりしっくりとこない。春になった! やあ、つくしが出た。摘もう、摘もう!――そんなふうに弾むこころをおさえきれずに野に出て、子どもたちと一緒になってつくしを摘む。つくしが出た、それを摘む人もたくさん出た。春がきた。そんなワクワクした情景を技巧をこらすことなく、構えることなく素直に詠んでいる。「うまい俳句を作ろう」などという意識は、このときの白秋には皆無だったにちがいない。いや、わざと「俳句」のスタイルにはとらわれまい、と留意したとさえ思われる。童謡を作るときのこころにかえっているようだ。白秋はもちろん定形句も作っているが、自由律口語の句も多い。「土筆が伸び過ぎた竹の影うごいてる」「初夏だ初夏だ郵便夫にビールのませた」「蝶々蝶々カンヂンスキーの画集が着いた」等々。俳人諸氏は「やっぱり詩人の句だ」と顔をしかめるかもしれないけれど、この自在さは愉快ではないか。われも子も弾んでいる。スタイルよりも詠みたい中身を優先させている。白秋は室生犀星を相手に、次のように語っている。「発句は形が短いだけに中身も児童の純真が欠かせない。発句にはそれと同時に音律の厳しさがある。七五律はちょっと甘い。五七律をこころみてみたい」。白秋の口語自由律俳句には、気どらない「児童の純真」が裏付けされている。ところで、白秋のよく知られた詩「片恋」全六行は、それぞれ五・七・五となっている。「あかしやの金と赤とがちるぞえな。/かはたれの秋の光にちるぞえな。/片恋の薄着のねるのわがうれひ。/(後略)」『白秋全集38』(1988)所収。(八木忠栄)


March 1432008

 農地改革は暴政なりし蝶白し

                           齋藤美規

正十二年生まれ。昭和十七年から加藤楸邨に師事をした作者が、平成十九年の時点での自選十句の中にこの句を入れている。そのことに僕は作者の俳句に対する態度を感じないわけにはいかない。作者は新潟、糸魚川の地にあって「風土探究」を自己のテーマとして五十六年には現代俳句協会賞を受賞し、俳壇的な評価も確立している。「冬すみれ本流は押す力充ち」「一歩前へ出て雪山をまのあたり」「百年後の見知らぬ男わが田打つ」などの喧伝されている秀句も多い。その中のこの句である。一般的認識では小作解放という「美名」のもとに語られる事柄を、敢えて「暴政」と呼ぶ。敗戦直後占領軍によって為された地主解体による土地の解放政策を何ゆえ作者は否定するのだろうか。調べてみると解放という大義名分の影に、小作に「無償」で譲られた土地が農地として残存せず、宅地に転用され、そこで土地成金を生んだりした例もあるらしい。日本の農業政策の根幹に関わる疑問を、新潟在の作者は自己の問題として提起しているように思う。「風土」とは、田舎の自然を詠むことが中心ではなく、そこで営々と不変の日常を送る自己を肯定達観して詠むことでもなく、社会に眼を開くことを俳句になじまぬこととして切り捨てることでもない。まぎれもない「個」としてそこに在る自己の、憤りや問題意識を詠うこと。その態度こそが「風土」だと、自選十句の「自選」が主張している。『平成秀句選集』(2007)所収。(今井 聖)


March 2532008

 爪先の方向音痴蝶の昼

                           高橋青塢

在では自他ともに認める方向音痴だが、それを確信したのは多摩川の土手に立ち、川下が分からなかったときだ。ゆるやかな流れの大きな川を目の前に、さて右手と左手、どちら側に海があるのかが分からない。なにか浮いたものが流れてはいないかと目を凝らしていると、「そんなことも分からないのか」とどっと笑われた。一斉に笑ってはいたが、おそらくその中の二、三人はわたし同様、風の匂いをくんくん嗅いでみたり、わけもわからず鳥の飛ぶ方角を眺めたりしていたと思うのだが。最近は携帯電話で現在位置を指示し、目的地をナビゲートしてくれる至れり尽くせりのサービスもあるが、表示された地図までもぐるぐると回して見ているのだからひどいものだ。そこを掲句では、下五の「蝶の昼」で、舞う蝶に惑わされたかのようにぴたりと作用させた。英語でぎっくり腰を「魔女の一撃」と呼ぶように、救いがたい方向音痴を「蝶を追う爪先」と、どこかの国では呼んでいるのかとさえ思うほどである。たびたび幻の蝶を追いかける我が爪先が、掲句によって愚かしくも愛おしく感じるのだった。〈青き踏む名を呼ぶほどに離れては〉〈このあたり源流ならむ囀れる〉『双沼』(2008)所収。(土肥あき子)


June 1862008

 ひそと動いても大音響

                           成田三樹夫

季にして大胆な字足らず。舞台の役者の演技・所作は、歌舞伎のように大仰なものは要求されないが、ほんの少しの動きであれ、指一本の動きであれ、テンションが高く張りつめた場面であれば、あたかも大音響のごとく舞台を盛りあげる。大声やダイナミックな動きではなく、小さければ小さいほど、ひそやかなものであればあるほど、逆に観客に大きなものとして感じさせる。舞台の役者はその「ひそ」にも圧縮されたエネルギーをこめ、何百人、何千人の観客にしっかり伝えるための努力を重ねている。たかだか十七文字の造形が、ひそやかな静からゆるぎない巨きな動を生み出そうとしている。舞台上の静と動は、実人生での静と動でもあるだろう。特異な存在感をもった俳優として活躍した三樹夫は、舞台のみならず映画のスクリーン上の演技哲学として、こうした考え方をしっかりもっていたのであろう。ニヒルな存在感を「日本刀のような凄みと色気を持ち合わせた名脇役」と評した人がいた。三樹夫は惜しくも五十五歳で亡くなった。私は縁あって告別式に参列した際、三樹夫に多くの俳句があって遺稿句集としてまとめたい、という話を耳にした。死の翌年に刊行された。「鯨の目人の目会うて巨星いず」「友逝きて幽明界の境も消ゆ」などの句がならぶ。インテリで文学青年だった。掲出句はどこやら尾崎放哉を想起させる。「大音響」といえば、富澤赤黄男に「蝶墜ちて大音響の結氷期」があった。皮肉なことに、赤黄男のほうが演技している。『鯨の目』(1991)所収。(八木忠栄)


February 2422009

 蝶の恋空の窪んでゐるところ

                           川嶋一美

句の季語「蝶の恋」とは、「鳥の恋」「猫の恋」同様、俳句特有の人間に引きつけた思い切り遠回しな発情期や交尾を意味する表現である。ことに「蝶の恋」は、おだやかな風にのって、二匹の羽がひらひらと近づいては遠のき、舞い交わすロマンチックで美しいイメージを伴う。蝶の古名は「かわひらこ」。語源でもあろうが、そこから響く音感には春の陽光に輝く川面をひらひらと飛ぶ姿が鮮明にあらわれてる。中国で「一対の蝶」とは永遠の絆を象徴するように、この若々しく可憐ないとなみが「空の窪み」という愛らしい表現を生んだのだろう。では一体全体「空の窪み」とは具体的にどのような…、などというのはめっぽう野暮な詮索というものだ。思うに、青空がにっこり笑ったときに、ぺこんと出来たえくぼのようなところだろう。あからさまに明るすぎることなく、二匹の蝶が愛をささやき身を寄せるために誂えたような、特別な場所である。〈じつとり重し熟睡子と種俵〉〈午後はもう明日の気配草の絮〉『空の素顔』(2009)所収。(土肥あき子)


March 1332009

 蝶帰り来ず運河を越ゆる太きパイプ

                           久保田月鈴子

鈴子は鈴虫のこと。げつれいしと読む。旧制静岡高校で中曽根康弘と同窓。東大卒業後、国策による合併企業帝国石油に勤務。企業幹部とならず労組の中央副委員長や新産別の副執行委員長として一貫して労働者の側に立った。俳句は「寒雷」創刊以来加藤楸邨に師事。森澄雄、平井照敏のあと編集長を務める。平成四年、享年七六の月鈴子さんの葬儀に、僕は車に楸邨を乗せ参列した。楸邨はすでに支えなければ歩めぬほどに弱っていたが、遺影の前に立って弔辞を述べた。弔辞の中で楸邨は、氏の組合活動への情熱をまず回顧して称えた。帰って来ない蝶は底辺労働者の誰彼。彼らの闘争の歴史の上に太いパイプが築かれる。自分と同時代の人間と社会の関わりを詠んだ俳人は多いが、「社会性」を単なる「流行」として齧り、たちまち俳句的情緒へと「老成」していった「賢い」俳人もまた多い。月鈴子さんは本物だった。『月鈴児』(1977)所収。(今井 聖)


March 1732009

 そこまでが少し先まで蝶の昼

                           深見けん二

課のように家から200mくらい先のポストまでの道を、季節や天気によって最短距離を選んだり、寄り道したりして歩く。このところのあたたかな陽気では、思わぬ時間を取ってしまい、たかだか投函というだけで小一時間ほどが過ぎている。道草の語源は馬が道ばたの草を食べてなかなか先に進めないということからきているという。そうか、だから「道草を食う」というんだ…、などと、とりとめもなく思いめぐらせることさえのどかな春の午後である。掲句は「蝶の昼」という華やかな季題によって、舞い遊ぶ蝶に「そこまで」の用事を一歩もう一歩と誘導されているようだ。しかし、浦島太郎よろしく「ああ、こんなところまで」と詠嘆の大時代的なもの言いでないところが、現実の静かな実感である。しかし「少し先」には、いつもの「そこまで」とはわずかに違う、ささやかな甘い余韻が漂う。隣りに並ぶ〈蝶に会ひ人に会ひ又蝶に会ふ〉では、掲句よりさらに先まで、めくるめく感覚に歩を進める。次元の裂け目に移ろうように、ひらひらと心もとなく舞う蝶を寄り代にして、現実をまぼろしのように見せ、危うく美しい無限世界を描いている。『蝶に会ふ』(2009)所収。(土肥あき子)


March 1932009

 人ごみに蝶の生るる彼岸かな

                           永田耕衣

語で彼岸といえば春の彼岸をさすらしい。春の茫洋とした空気の中でこっちとあっちの世界はぐぐっと近くなるのだろう。掲句は耕衣が二十歳の頃「ホトトギス」に投句した作品だそうだ。処女作には作家の全てが含まれる。と言われるが初期のこの句にその後の耕衣の行き方が示されている。春のうららかな日を浴びて人ごみに生まれる蝶は、死者の生まれ変わりとも歩いている一人が変化した姿とも受けとめられる。夏石番矢の『現代俳句キーワード』によると「蝶はどうやら霊的存在の一時的に宿る移動手段と考えていたらしい。西洋では蝶に死者の霊魂を見ていた。」とある。そう思えば彼岸に蝶が生まれる場所に最も俗な「人ごみ」を想定することで、いま在ることがあの世に繋がってゆく生と死の連続性が感じられる。その点から言えばどことなく不思議な光を放つこの句を耕衣後期の作品に混ぜても違和感はないように思う。『永田耕衣句集』(2002)所収。(三宅やよい)


April 1442009

 切絵師の肩にてふてふとまりけり

                           加古宗也

絵師の技を目の当たりにしたことが二度ある。一度目は、北海道の「やまざき」というバーで、マスターに横顔をするするっと切り絵で作っていただいた。白い紙を切り抜くだけで、しかしそれはたしかに似顔絵なのだった。二度目は寄席の紙切り芸で、客席からのリクエストに即座になんでも応えていた。こちらは輪郭というより、つながり合った線が繊細な形をなして、そして切り抜かれた紙もまた反転する絵になっている見事なものだった。切り絵はなにより風を嫌うため、室内の景色であり、掲句にも蝶は通常いてはならないものだ。鋏の先から繰り出される万象は、平面でありながらその細密さに驚いたり、生々しさに魅入ったりするのだが、そこへ生というにはあまりに簡単なかたちの蝶が舞っていることは、意外な偶然というより、妙な胸騒ぎを覚えることだろう。ひらひらと切絵師にまとわりつく蝶は、切絵師が作品にうっかり命を吹き込んでしまったかのように見えたに違いない。〈朝刊でくるんでありし芽うどかな〉〈快晴といふよろこびに茶を摘める〉『花の雨』(2009)所収。(土肥あき子)


May 0352009

 日をたたむ蝶の翅やくれの鐘

                           望月宋屋

は「つばさ」と読みます。句を読んでまず目に付いたのが「たたむ」の文字でした。今更とは思うものの、手元の辞書を引けば「たたむ」の意味は、「広げてある物を折り返して重ねる。折って小さくまとめる。」とあります、なんだか辞書の説明文がそのまま詩になってしまいそうな、詩歌向きのきれいな語です。望月宋屋(そうおく)の生きていた江戸期にも、「たたむ」は今のようなひそやかさをたたえた語だったのでしょうか。少なくともこの句に使われている様子から想像するに、数百年の時の流れは、語の姿になんら影響を与えることはなかったようです。「日をたたむ」の「たたむ」は「店をたたむ」のように「やめてしまう」の意味。もちろん「たたむ」は「蝶の翅をたたむ」ことにも通じていて、こちらは「すぼめる」の意味でしょうか。さらにくれの鐘の音が「日をたたむ」にもかかってきて、きれいな言葉たちは句の中で、何重にも手をつなぎあっています。そうそう、「心にたたむ」という言葉もありました。もちろん意味は、「好きな人を心の中に秘めておく」という意味。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


May 1852009

 筍と若布のたいたん君待つ日

                           連 宏子

の命は「たいたん」という関西言葉だ。関東言葉に直せば「煮物」であるが、これではせっかくの料理の「味」が落ちてしまう(笑)。この句には、坪内稔典・永田和宏による『言葉のゆくえ』(2009・京都新聞出版センター)で出会った。出会った途端に、美味しそうだなと唾が湧いてきた。ただし関西訛りで読めない人には、お気の毒ながら、句の味がきちんとはわからないだろう。同書で、稔典氏は書いている。「女性がやわらかい口調で『たいたん』と発音すると、筍と若布のうまみが互いにとけあって、えもいえぬ香りまでがたちこめる感じ。『たいたん』は極上の関西言葉なのだ」。ついでに言っておけば、関東ではご飯以外にはあまり「炊く」を使わないが、関西では関東の「煮る」のように米以外の調理にも頻繁に使う。冬の季語である「大根焚(だいこたき)」は京都鳴滝の了徳寺の行事だから、やはり「煮」ではなく「焚(炊)」でなければならないわけだ。同じ作者で、もう一句。「初蝶や口にほり込む昔菓子」。これも「ほうり込む」では、情景的な味がでない。言葉の地方性とは、面白いものである。なお、掲句の季節は「筍」に代表してもらって夏季としておいた。『揺れる』(2003)所収。(清水哲男)


July 0872009

 朝焼けの溲瓶うつくし持ち去らる

                           結城昌治

焼けに対して朝焼け、いずれも夏の季語。何といっても「朝焼け」と「溲瓶」の取り合わせが尋常ではない。思わず息を_むほどの、とんでもない取り合わせではないか。空っぽの溲瓶ではあるまい。朝焼けをバックにしたガラス瓶のなかの排泄したての尿は、先入観なしに見つめれば、決して汚いものではない。尿の色を「美し」ではなく「うつくし」とソフトに視覚的に受け止めた感性には恐れ入る。「うつくし」いそのものが、さっさと持ち去られたことに対する呆気なさ、口惜しさ――と言ってしまっては大袈裟だろうか。病人が快方に向かいつつある、ある朝の病室のスケッチ。ここで私は、昔のある実景を不意に思い出した。学生時代に、怪我で入院していた同年齢のいとこを見舞ったときのことである。彼はベッドで溲瓶を使い、たっぷり入った尿の表面の泡を「ほら、ほら」と大まじめに口で吹いてみせたから、二人で顔を見合わせて大笑いした。大ジョッキのビールもかくや! 二十二歳の昌治が師事していた病友・石田波郷が主宰する句会での作。二人の病室は隣り合っていた。波郷にも「秋の暮溲罎泉のこゑをなす」という別のときの句がある。こちらは音。私なら昌治の「溲瓶」に点を入れる。まあ、いずれも健康な人には思いもよらない句である。昌治には二冊の句集『歳月』『余色』がある。『俳句は下手でかまわない』という、うれしくもありがたい著作があり、「初蝶や死者運ばれし道をきて」という病中吟もある。江國滋『俳句とあそぶ法』(1984)所載。(八木忠栄)


March 1332010

 大川のうたかたはじけ蝶となる

                           河野美奇

、ちょっと散歩に出たら蝶に行き会った。久々の日差しにつられて出かけた者同士、といった出会い方で。すれ違ったというのもおかしいけれど、なんだまだけっこう寒いじゃないの、とでも言いたげに、揺れながら飛んでいってしまった。この句の作者は、隅田川の川縁で蝶と出会ったのだろう。水面のきらきらと蝶のひらひら、まだ少し冷たさの残る川風に吹かれている。蝶が去ってしまってから、この水面のきらきらの中から蝶が生まれたような気がしてくる。そんな気がする、そんな心地、それを言いたいのだけれどなかなか言えない、私などはよくあることだ。しかし作者はきっと静かに、蝶に思いをめぐらせながら、川面を見つめていたに違いない。ほんとうに泡が見えたのか、光がはじけたのか、その一瞬を逃すことなく、うたかたはじけ蝶となる。観る、待つ、逃さない、できそうでなかなかできない。『人のこころに』(2010)所収。(今井肖子)


March 3032010

 目の前をよぎりし蝶のもう遥か

                           星野高士

に付けられる副詞の定番は「ひらひら」。意外なところで「ぱたぱた」。また旧仮名の「てふてふ」も平安時代には文字通り「tefu-tefu」と発音していたというから、これこそ蝶の羽の動きそのものを表していたのだろう。しかし、実際の蝶は、モンシロチョウで時速9キロ出すというから、どちらかというと「すーっ」に近い。最速の蝶タイムを見るとタイワンアオバセセリという種が時速30キロとあって、これは原付の制限速度と同じ。あきらかに「ぴゅーっ」であろう。ところで、ある雑誌に「時速9キロでジョギングすると脳が活性化されさまざまな機能がアップし、さらに心の安定も得られる速度」という記事を見かけた。それでは、モンシロチョウに付いていけば、この効能が得られるのかと思うと、なんだか究極のダイエットとして紹介してみたくなる。というように、思わずロマンチック路線へと誘導されてしまいがちの蝶だが、実は相当たくましく、海上を1000キロも休まず飛行する強者もいる。たしかに以前クチナシの木についた芋虫を育てたことがあるが、その食欲ときたら凄まじいもので、さらにサナギになれば体内では想像もつかないバージョンアップをしてのける。掲句では下五「もう遥か」のスピード感とともに、句全体から漂う得体の知れない不安のようなものは、従来の蝶に植え付けられたイメージと実体との落差であるように思うのだ。『顔』(2010)所収。(土肥あき子)


April 0542011

 入学写真いつも誰かがよそ見して

                           樋笠 文

つどんな写真でも、きれいな笑顔で写る知人にコツを聞いたことがある。秘訣は単純明快。「まばたきをしない」だった。そんなことが可能なのかと思うのだが、集合写真のときなどは「はい、撮りますよ」の掛け声まで目をつぶっているくらいでよいのだと言う。たしかに「いい顔」は長くは続かない。子どもであればなおさらだろう。隣の子が笑わせたり、後ろの子に髪を引っ張られたり、少しぼんやりしていたり。それにしても、全員きちんと正面を向いている集合写真が果たして必要なのかと、ふと思う。公平を旨とする現代では、皆同じ分量で写っていることが重要なのだろうか。うわの空だったり、俯いていたり、泣きべそかいていたり、そんな瞬間を切り取った集合写真の方が、時代を経たのちに記念になったりするのではないだろうか。それでも先生は毎年半分あきらめながら、あの手この手でカメラへ集中させようとする。そして、今日の入学式にもきっと誰かがよそ見をしていることだろう。俳人協会自註現代俳句シリーズ『樋笠文集』(1981年)所収。作者は小学校の先生。〈初蝶を入るる校門開きけり〉〈風光るジャングルジムに児が鈴生〉など明るく多彩。(土肥あき子)


March 3132012

 初蝶と見ればふたつとなりにけり

                           中西夕紀

う目にしているはずなのに、あ、初蝶、という記憶が今年はまだ無い。個人的な事情で、まことに余裕のないこの二ヶ月だったからだろうか。まあ気づいた時が初蝶なのだから、おかしな言い方かもしれないが。でも掲出句のような光景は記憶にある。まさに蝶のひらひらが見えてきて、ああ春が来たな、と感じているのがわかる。まだ寒さの残っている中、元気な蝶に出会うとうれしいものだ。ふたつの蝶は、もつれ合いながらやがて視界から消えてゆき、明るくなってきた日差しの中でゆっくり深呼吸している作者なのだろう。『朝涼』(2011)所収。(今井肖子)


March 1732013

 畝越えて初蝶ひかり放ちけり

                           佐藤博重

ンシロチョウ・モンキチョウ・スジグロシロチョウ・ウラギンシジミ・ムラサキシジミ・キタテハ・ベニシジミ。昆虫情報ブログでは、今年もすでに幾種類もの蝶が観測されています。越冬した個体と、この春に羽化した個体と両方あるそうです。寒さの中では、蝶は飛びません。とくに春先では、お日様が出ていて、風も強くない、うららかな日に限られます。掲句もたぶん。そんな春の日和でしょう。「畝(うね)越えて」が、この時季の蝶の様態をよく表しています。日差しを受けて温まった畝すれすれを選んで越えるのは、蝶の習性でしょう。畝の小高さが、ぬくもりのある空間を作っています。さて、蝶の種類は何か、これはわかりません。モンシロチョウが白い光を放っていることも想像できますし、ムラサキシジミが紫色の光彩を放っている姿も想像できます。いずれにしても、初蝶がひかりを放って畝を越える姿に、春の輝きをみてとれます。『初蝶』(梅里書房・2005)所収。(小笠原高志)


April 1442013

 寝ころんで蝶泊らせる外湯哉

                           小林一茶

防備で、無邪気。天真爛漫、春爛漫。生まれたまんまの姿で、春の空を眺めながら湯にひたり、我が身を蝶の宿にする。粋で自由。一度でいいから、こんなシチュエーションに身を置きたいものです。掲句は前書に「道後温泉の辺りにて」とあり、注釈に、寛政七年(1795)春の即興吟とあります。一茶三十二歳。ご存知のように、一茶は十五歳で故郷北信濃の柏原を出てから五十一歳で帰郷するまで、江戸、西国などを転々として流寓生活を送りました。その半生の中で培われた感覚は、例えば「夕立や樹下石上の小役人」といった人間界の権威に対する皮肉に表れ、一方で、「やれ打つな蝿が手をすり足をする」があります。この句について、昨年『荒凡夫一茶』を上梓された金子兜太氏は、「これは学校の先生が教える慈悲の句ではなく、本当の意味でリアルな、写生の句である」と述べています。「おそらくは、蠅よ、お前は脚を磨いておるなあ、まあ、ゆっくりやってくれやい、と見たままを詠んだ句です。」金子氏は、一茶の句に「生きもの感覚」をみいだしていますが、掲句も同様に、人間界よりも広くおおらかなくくりの自然界に身をひたし、空と湯と蝶と我が身を一体にする一茶の無邪気を読みます。『日本古典文学大系58・一茶集』(岩波書店)所収。(小笠原高志)


February 2522014

 蕗の薹空が面白うてならぬ

                           仲 寒蟬

の間から顔を出す蕗の薹。薹とは花茎を意味し、根元から摘みとっては天ぷらや蕗味噌にしてほろ苦い早春の味覚を楽しむ。穴から出た熊が最初に食べるといわれ、長い冬眠から覚めたばかりで感覚が鈍っている体を覚醒させ、胃腸の働きを整える理にかなった行動だという。とはいえ、蕗の薹は数日のうちにたちまち花が咲き、茎が伸びてしまうので、早春の味を楽しめるのはわずかな期間である。なまじ蕾が美味だけに、このあっという間に薹が立ってしまうことが惜しくてならない。しかし、それは人間の言い分だ。冴え返る早春の地にあえて萌え出る蕗の薹にもそれなりの理由がある。地中でうずくまっているより、空の青色や、流れる雲を見ていたいのだ。苞を脱ぎ捨て、花開く様子が、ぽかんと空にみとれているように見えてくる。〈行き過ぎてから初蝶と気付きけり〉〈つばくらめこんな山奥にも塾が〉『巨石文明』(2014)所収。(土肥あき子)


February 2722014

 ひな寿司の具に初蝶がまぜてある

                           金原まさ子

ーん、ちょっと気持ちが悪い。まっさきに思い浮かべるのはちらし寿司の玉子の薄焼き。虚子の「初蝶来何色と問ふ黄と答ふ」から連想するのだろうか。歳時記にも春、最初に姿を見せるのは紋白蝶、紋黄蝶とあるので、可憐な薄黄色は春の色と言えよう。緑の三ツ葉、蒲鉾の赤、椎茸の黒、華やかなひな寿司に庭に飛んできた初蝶も混ぜる。彩りとしたら文句なし何だけど、蝶の羽の鱗粉だとかぐちゃっとしたおなかあたりの感触だとか想像するとぞっとする。ファンタジーぽくて気持ちが悪い、一筋縄ではいかない落差が仕込まれているのがこの句の魅力だろう。『カルナヴァル』(2013)所収。(三宅やよい)


March 2332014

 てふてふのひらがなとびに水の昼

                           上田五千石

白い。けれどわからない。しばらくしてから読み返して、春のおだやかさが、明るい無風状態で描かれていることがわかりました。まず、「ひらがなとび」がうまい。「カタカナとび」では鋭角的だし、「漢字とび」は困難。「てふてふ」の羽根が、おだやかな春の空気に乗って、ひらがながもつ曲線を描きながらややぎこちなく通り過ぎています。その場所は「水の昼」です。これも最初はわかるようでわかりませんでした。日常的ではない詩的な言葉遣いです。ただ、しばらくして、このまままっすぐ読んでいけばいいことがわかりました。「てふてふ」は、水の上を飛んでいて、水面にも「ひらがなとび」は反射しています。空中の「てふ」と水面の「てふ」。これは分解しすぎかもしれませんが、読みながら遊べる句です。春を最も感じられる昼、無風の水面を蝶がゆっくり過ぎていきました。『琥珀』(2002)所収。(小笠原高志)


April 2642014

 珊瑚咲く海へ染まりに島の蝶

                           小熊一人

年か前にも同じことを思った気がするのだが、蝶にあまり出会わない。いかにも麗らかな春の日が少ないからだろうか。そうこうするうちに春は行きつつあり、ぐんぐんと緑が育ってきたこのところである。この句の蝶は島の渚から珊瑚の海へ、染まりながら消えていく。珊瑚は動物だが碧い海にまさに咲いている、とは沖縄の美しい海ならではだろう、『沖縄俳句歳時記』(1985・那覇出版社)から引いた一句。海と珊瑚と蝶、明るく美しい色彩だが、蝶はやがて珊瑚の海で永遠に眠ることを知っているかのように感じている作者、春を惜しむかすかな淋しさがそこにある。(今井肖子)


April 3042015

 弔砲や地獄に蝶の降りつぐ朝

                           竹岡一郎

獄とは強い言葉である。一度「地獄」が句会の兼題になったことがあるがさっぱり出来なかった。現実との接点を見つけられなかったのだ。掲句は「破地獄弾」と題した章の中の一句。二十句に渡って地獄絵図を描き出している。空に響く弔砲は誰のためのものなのか、その音にとめどなく蝶が落下してくる、蝶は降りやまずやがては地を覆いつくすのだろう。「弔」の字型は人の屍を野に捨て、朽ちてから骨をおさめに行く。そのとき獣を追う弓を携えていったことに由来すると白川静の『字統』にある。人は人を弔うことで生をつないできたが、この弔砲は人類すべてが滅んでしまった朝に撃ちあげられる空砲に思える。『ふるさとのはつこひ』(2015)所収。(三宅やよい)


March 1532016

 網膜に飼ふ鈍色の蝶一頭

                           杉山久子

に焼きつけるとは、見たものを強く記憶にとどめて忘れないようにすることの慣用句だが、実際に日の下でひとつのものをじっと見ると、目を閉じても浮かびあがる。光りの刺激を受けた視覚は、その光りが消えたのちも網膜が持っている残像効果によって視界に残る。掲句が抒情を超えた現実感を伴うのは、誰しもこのような状態を感覚としてよみがえらせることが可能だからだろう。そして、それでもなお詩情を失わないのは、あの軽やかではかない蝶が、大型動物と同じ一頭二頭と数える事実にもある。それによって蝶は突如として巨大で堅牢な存在となり、作者の眼裏にしばらく消えない刻印を残していったのだ。〈ゆふぐれはやし土筆ほきほき折り溜めて〉〈ぶらんこの立ち漕ぎ明日の見ゆるまで〉『泉』(2015)所収。(土肥あき子)




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