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February 2821997

 上京や春は傷みしミルク膜

                           あざ蓉子

である。「上京」という言葉を聞くだけで胸が疼く。多くの地方の少年少女が、今年もまた故郷を離れて行くことであろう。東京へ東京へ……。かつて谷川雁に「東京へ行くな」という名詩あり、寺山修司には『家出のすすめ』があった。古くは尾崎士郎の『人生劇場』、近くは五木寛之の『青春の門』。評者また急に読みたくなり『青春の門・自立編』を買ってしまった。この本の主人公は筑豊出身。この句の作者また同じ九州の熊本・玉名である。本来結びつかない上京とミルクの膜が、かくも見事に結びついている青春の不思議さよ。『ミロの鳥』所収。(井川博年)


March 1531997

 また春が来たことは来た鰐の顎

                           池田澄子

わずも、笑いがこみ上げてきた。鰐が長い顎に手をあてて(あてられっこないけれど)、春の再来に戸惑っている図。「何の心構えもできてないしなア……」。などと、私は漫画的に読んだが、他にもいろいろと解釈は可能だろう。というよりも、こういう句は、あまり真剣に考えないほうがよい。なんとなく可笑しい。それで十分だ。たまには、深刻度ゼロの句も精神のクリーニングに役に立つ。ただし、誰にでもつくれる句でないことだけは、押さえておく必要があるだろう。作者生来の資質全開句なのだから。「船団」(第32号・1997)所載。(清水哲男)


April 1141997

 春ひとり槍投げて槍に歩み寄る

                           能村登四郎

とり黙々と槍投げの練習に励む男。野球などとは違い、練習から試合まで、槍投げは徹底して孤独なスポーツだ。野球だと、ときに処世訓めいた言葉とともに語られることもあるけれど、そういうことも一切ない。ただひたすらに、遠くに投げるためだけの行為のくりかえし。すなわち人生的には無為に近いこの行為を、作者は無為にあらずと詠んでいるのだ。春愁を通り越した人間の根源的な愁いのありかを、読者に差し出してみせた名句である。『枯野の沖』所収。(清水哲男)


February 1821998

 木々のみな気高き春の林かな

                           塩谷康子

語にもいろいろある。句の「気高き」などもその一つだろう。気高い山といえば、昔は富士山が定番だったけれど、いまでは富士山を形容して「気高い」とはほとんど言わなくなった。この山の場合は権力がいいように「気高く」扱ってきた歴史があるから(富士山のせいじゃない)、べつに気高いと思わなくても構わないのだが、しかし、この言葉が象徴する「品格」一般がないがしろにされている事態には承服しかねる。「上品」「下品」も、いまや死語に近くなっているのではないか。言葉の生き死にには、当然歴史的社会的背景があり、経済優先の世の中では「品位」などなくたって構わないし、日本版ビッグバン(変な言葉だ)が進行していけば、ますます「下品」が下品と承知しないではびこるのだろう。一方では、しかし作者のように、木々の「気高さ」を素直に実感として感じている人が存在していることも確かなわけで、経済の暴走族どもにいいように言葉を引き倒されるのはたまらない。そのような無惨を許さないためにも、たとえば俳句は「気高さ」をもっと詠んで欲しいと思った。『素足』(1997)所収。(清水哲男)


February 2621998

 鮒よ鮒あといく春の出会いだろう

                           つぶやく堂やんま

りは、鮒(ふな)にはじまり鮒に終る。そういうことを言う人がいる。小学生の頃、どういうわけか鮒釣りが好きだった。生来短気なくせに、鮒を釣るときだけは、じいっと水面のウキを眺めて飽きなかった。釣ったバケツの中の鮒は、母が七輪で焼いて残らず晩ご飯のおかずになった。……と書くだけで、そのときの味がよみがえってくる。子供だったから、作者のような心境にはならなかったけれど、季節のめぐりとともに遊んだり働いたりする人は、誰しもがこうした感慨を抱いて生きていく。いまにして、そのことが痛切にわかってきたような気がする。作者は自分の作品を俳句ではなく「つぶやき」だと言う。作品様式を「つぶやっ句」と称している。いうところの「俳句」にまでは結晶させないゾという意志の強さに「つぶやっ句」独自の考え方と心意気と美学とがあって、私は好きだ。しかし、この「句」もまた俳句からすると立派な発句にはちがいなく、たぶん俳句は「つぶやっ句」と共存して、今後の「いく春」をも生きつづけていくことになるのだろう。考えてみれば、ほとんどの俳句は「つぶやき」にはじまっているのだからである。『つぶやっ句観音堂』(1995)所収。(清水哲男)


March 0531998

 春よ春八百屋の電子計算機

                           池田澄子

の場合の「電子計算機」はパソコンではなく、「金銭登録機」のことだろう。それまでは店先に吊るした篭に売上金を放り込んでいた八百屋が、ある日突然近代的な「金銭登録機」を導入した。親父さんは嬉しそうに、しかし照れ臭そうに、慣れない手付きで扱っている。「これからは古い考えじゃ駄目だ」くらいのことを、作者に言ったかもしれない。そんな機械を導入するほどはやっている店とも思えないが、時は春なんだから「ま、いいじゃないか」と、作者もいい気分になっている。句の季節はいつでもいいようなものだが、やはり「春」でないと、この句は成立しない。「春」はこんなふうに、理屈抜きで人を浮き浮きさせる季節だからだ。だが、もう一方で「春愁」という精神状態になることもある。ややこしくも厄介な季節なのである。同じ作者に「頭痛しと頭を叩く音や春」がある。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)


March 1531998

 ファインダーてふ極小の窓の春

                           林 翔

者の林翔(はやし・しょう)は八十四歳。1940年(昭和15年)に「馬酔木」入会というから、本格的な句歴は六十年に及ぼうとしている。カメラの極小の窓からは、どんな春が見えたのだろうか。最近気がついたことだが、カメラを片手に散歩する高齢者の何と多いことか。有名な公園などでは、「極小の窓」から覗いている人の邪魔をしないようにするのが一苦労だ。たいていの人は、植物を被写体にしている。間違っても、行きずりの美人を撮ったりはしない。かつて稲垣足穂が「人間の興味は、歳を取るにつれて動物から植物に、さらには鉱物へと移っていく」と言ったのは、本当だった。私はまだまだ美人は好きだけれど、だんだんとそうなりつつあることも否定できない。たまにデジカメを持って、近所をウロウロする。ひとりでに、好みの花ばかり探している自分に気がつく。『あるがまま』(1998)所収。(清水哲男)


April 1041998

 春宵や自治会の議事もめて居り

                           酒井信四郎

だ子供が小さかった頃、地域の方々にドッジ・ボールや運動会やお祭りで三人の娘たちがお世話になった。女房に尻を叩かれ自治会のお手伝いをしぶしぶ引き受けたことがある。議事は延々深夜に及んだ。最後に長老が一言、「こりゃあ、明日の晩、もう一度やるべえ」。なんとも楽しげに一同が賛成する。お茶をなん杯も飲み、漬物をつまみながら。何でも早く事を済ますのがいいわけではなさそうだ。若造の私ごとき短慮ではついていけない。もう一句、「国訛りさざめく春の県人会」。新潟小千谷生まれの元郵便局長さん、当年とって九十歳。『有峰』所収。(八木幹夫)


April 1241998

 春たのしなせば片づく用ばかり

                           星野立子

を開けたほうが暖かく感じる。そんな日がつづくと、洗濯や掃除など、主婦の仕事は大いにはかどる。はかどることが、また次の用事を片づけることに拍車をかけてくれる。洗濯や掃除といっても、立子の時代には洗濯機や掃除機があるわけではなし、主婦は大変であった。とくに作者の場合は、主婦業の他に、俳人としての仕事もあったわけで、ついつい先伸ばしにしていた「用」も、いろいろとあったことだろう。しかし、億劫に思っていた「用」も、やりはじめてみれば何のことはない。簡単にすんでしまう。それもこれもが、この明るい季節のおかげである。こういうことは、主婦にかぎらず、もちろん誰にでも起きる。春はありがたい季節なのだ。地味な句だが、季節と人間の関係をよくとらえていて卓抜である。『続立子句集第二』(1947)所収(清水哲男)


April 2241998

 春の蔵でからすのはんこ押してゐる

                           飯島晴子

からないといえば、わからない。だが、ぱっと読んで、ぱっと何かが心に浮かぶ。そして、それが忘れられなくなる。飯島晴子の俳句には、そういうところがある。一瞬にして読者の想像力をかきたてる起爆剤のようだ。たとえば、ある読者はおどろおどろしい探偵小説の一齣と思うかもしれないし、また別の読者は昔の子の無邪気に遊ぶ姿を想像するかもしれない。前者は「春の蔵」の白壁の明るさに対して「からす」に暗さや不吉を読むからであり、後者は「からすのはんこ」に子供らしい好奇心のありかを感じるからである。もちろん、作者自身の描いたイメージは知るよしもないけれど、知る必要もないだろう。よく読むと、この句では主体も客体も不明である。いったい誰が「からすのはんこ」を押しているのだろうか。はっきり見えるのは「春の蔵」だけなのであって、結果的に作者は「春の蔵」の存在感だけを感じてくれればよいと作ったのかもしれない。何度も読んでいるうちに、そう結論づけたくもなってきた。しかし、彼女の句はそんな結論なんかいらないと言うだろう。『春の蔵』(1980)所収。(清水哲男)


May 0451998

 追憶のぜひもなきわれ春の鳥

                           太宰 治

るい鳥の囀りが聞こえるなかで、過去をふりかえっているのは『人間失格』などの作家・太宰治だ。しかし、よい思い出などひとつもなく、その虚しさに嘆息している。自嘲している。明暗のこのような対比が、太宰文学のひとつの特長だ。太宰の俳句は珍しいが、当人に言わせると「そのとしの夏に移転した。神田・同朋町。さらに晩秋には、神田・和泉町。その翌年の早春に、淀橋・柏木。なんの語るべき事も無い。朱麟堂と号して俳句に凝つたりしてゐた。老人である」(『東京八景』1941)ということで、大いに俳句に力を注いでいた時代があったようだ。小説家として有名になってからは、トリマキと一緒にしばしば句会を開いていたという記録もある。それにしては残されている句が少ないのは、俳人としての力量が一流に及ばないことを自覚して、みずから句稿を破棄してしまったからであろう。この句も、太宰の名前がなければ、さしたる価値はない。今年は、太宰歿して五十年。著作権が切れることもあり、太宰本があちこちから出る模様。『太宰治全集』(筑摩書房)他に所収。(清水哲男)


February 2221999

 人妻に春の喇叭が遠く鳴る

                           中村苑子

妻。単に結婚している女性を言うにすぎないが、たとえば「既婚女性」や「主婦」などと言うよりも、ずっと人間臭く物語性を感じさせる言葉だ。それは「人妻」の「人」が、強く「他人」を意味しており、社会的にある種のタブーを担った存在であることが表示されているからである。もとより、この言葉には、旧弊な男中心社会の身勝手な考えが塗り込められている。最近は、演歌でもめったに使われなくなったように思う。その意味では、死語に近い言葉と言ってもよいだろう。作者は女性だが、しかし、ほとんど男のまなざしで「人妻」を詠んでいるところが興味深い。春の日の昼下がり、遠くからかすかに喇叭(ラッパ)の音が流れてきた。彼女には、戸外でトランペットか何かの練習に励む若者の姿が想起され、つい最近までの我が身の若くて気ままな自由さを思い出している。といって、今の結婚生活に不満があるわけではないのだけれど、ふと青春からは確実に隔たった自分を確認させられて、ちょっぴり淋しい気分に傾いている。遠くの喇叭と自分とを結ぶか細い一本の線、これすなわち「春愁」の設計図に不可欠の基本ラインだろう。『白鳥の歌』(1996)所収。(清水哲男)


March 0331999

 佐保姫に山童の白にぎりめし

                           大串 章

保姫(さほひめ)は、秋の竜田姫と対になる春のシンボル。春の野山の造化をつかさどる女神である。雛祭りに尾篭な話で恐縮だが、山崎宗鑑の編纂した『犬筑波集』のなかで、荒木田守武が立ち小便をさせてしまったことでも有名だ。すなわち「かすみのころもすそはぬれけり」に附けて「さほ姫の春たちながら尿をして」とやった。オツに気取った王朝女性たちへの痛烈な面当てだろう。それはともかく、句の姫はやさしくて上品な春の化身。その姫の加護を受けているかのような明るい陽射しのなかで、山の子が大きくて白い握り飯をほおばっている。すべて世は事もなし……の情景である。作者と同世代の私にはよくわかるのだが、この「白にぎりめし」には、世代特有のこだわりがある。戦中戦後の飢えの時代に子供だった私たちは、いまだに「白にぎりめし」を普通の食べ物として看過できないのだ。なにしろ絵本の「サルカニ合戦」の握り飯を見て、一生に一度でいいから、こんなに大きな握り飯(カニの身体以上の大きさだった)を食べてみたいと思ったのだから、飢えも極まっていた。そうした作者幼時の思いの揺影が、句の隠し味である。山童(さんどう)は、ここでほとんど作者自身と重なっている。(清水哲男)


March 1331999

 春の宵歯痛の歯ぐき押してみる

                           徳川夢声

の気分は経験者にはよくわかる。ずきずきする歯ぐきを、本当は触りたくないんだけど押してみる。押すことによって痛みを一段深く味わう、こんな倒錯した心理は、歯痛を経験したことのない者にはわからないだろうな、と半分は空威張りしているのだ。この素朴のようでいて下手でなく、平凡のようでいて非凡のような句の作者こそ誰あろう。戦前・戦後ラジオや映画で大活躍をした「お話の王様」徳川夢声。この句は、実は歯痛どころではない大変な時代の産物だった。時は昭和20年(1945年)3月13日、あの東京下町を焼き尽くした東京大空襲の3日後のこと。同じ頃の句に「一千機来襲の春となりにけり」「空襲の合間の日向ぼっこかな」とある。句日誌『雑記・雑俳二十五年』(オリオン書房)所収。(井川博年)


March 1631999

 燈を消せば船が過ぎをり春障子

                           加藤楸邨

岐島での諷詠。隠岐島は、出雲の北方およそ四十キロに位置する二つの島からなる。作者が「さて、寝るとしようか」と、宿の部屋の燈を消して床につこうとしたら、海を行き交う船の燈火がぼんやりと障子に写っていたという図。いかにも、ほんのりと春めいてきた暖かな夜を暗示していて、心地好い句だ。冬の宿であれば、当然雨戸を閉めてしまうので、船の燈火など写りようもないのである。ところで「春障子」という季語はないようだけれど、我が歳時記では採用したくなるほどに、この言葉はそれ単体で春ならではの情緒を醸し出していると思う。隠岐島でなくとも、都会地であっても、春の障子にはそれぞれにそれらしい雰囲気があるからである。ただ残念なことに、障子それ自体が一般家庭では絶滅の危機に瀕していることもあり、障子の認知度は低くなる一方だ。下側から作業を進める障子紙の貼り方も、もはや若い人には無縁であるし、これからは「障子」そのものが歳時記的に市民権を維持することはないだろう。古い建具がすたれていくのは時代の流れであり、同時に句のような情緒も消えていくということになる。愚痴じゃないけれど、こうした句に接するたびに「昔はよかった」と思ってしまう。「文化」は「情緒」を駆逐する。(清水哲男)


March 1931999

 ハンドバツク寄せ集めあり春の芝

                           高浜虚子

え書きに「関西夏草会。宝塚ホテル」とあるから、ホテルの庭でのスケッチだ。萌え初めた若芝の庭園に、たくさんのハンドバッグ(虚子は「バツグ」ではなく「バツク」と表記している)が寄せ集められている。団体で宝塚見物に来ている女性客たちが、記念写真の撮影か何かのために置いたものが、一箇所に取りまとめられているのだろう。春と女性。いかにもこの季節にふさわしい心なごむ取り合わせだ。いくつかのハンドバッグが、春の光を反射して目にまぶしい。現代にも十分に通用する句景であるが、句作年月は昭和十八年(1943)の三月である。つまり、敗戦の二年前、戦争中なのだ。前年の三月には、東京で初の空襲警報が発令されてはいるが、嵐の前の静けさとでもいおうか、内地の庶民には、このようにまだまだ日本の春を楽しむ余裕のあったことがわかる。ただし、この句が作られたときの宝塚雪組公演の演目は「撃ちてし止まむ」「桃太郎」「みちのくの歌」と、戦時色の濃いものではあった(『宝塚歌劇の60年』宝塚歌劇団出版部・1974)。そして、虚子が信州小諸に疎開したのは、翌年の九月四日のこと。「風多き小諸の春は住み憂かり」などと、不意の田舎暮らしに不平を漏らしたりしている。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)


April 2341999

 春の蔵でからすのはんこ押してゐる

                           飯島晴子

の実家に土蔵があったので、幼いころから内部の雰囲気は知っている。言ってみれば大きな物置でしかないのだが、構造はむしろ金庫に似ている。巨大な閂状の錠前を開けると、もうひとつ左右に引き開ける木製の内扉があって、入っていくと古い物独特の匂いが鼻をついた。蔵の窓は小さいので、内部は薄暗く、不気味だった。子供心に、蔵に入ることはおっかなびっくりの「探検」のように思えたものだ。江戸川乱歩は、この独特の雰囲気を利用して、蔵の中で怖い小説を書いたそうだが、たしかに蔵には心理的な怖さを強いる何かがある。そしてこの句には、そうした蔵の怖さと不気味さを描いて説得力がある。春の陽射しのなかにある土蔵は、民話的な明るさを持っている。微笑したいような光景だけれど、その内部で起きている「劇」を想像せずにはいられない作者なのだ。「からすのはんこ」を押しているのは、誰なのか。「からすのはんこ」とは何か。そのことが一切語られていないところに、怖さの源泉があるのだろう。とくに「はんこ」を押す主格の不在が、読者に怖さをもたらす。実景は「春の蔵」だけであり、後は想像の産物だ。虚子の言った「実情実景」がここまで延ばされるとき、俳句は見事に新しくなる。『春の蔵』(1980)所収。(清水哲男)


February 1322000

 爪に火をともす育ちの老の春

                           阿波野青畝

畝、八十代の句。世間的には、悠々自適の暮らしぶりと見えていた時期の作品だ。作者もまた、よくぞここまでの感を得てはいるが、他方ではいつまで経っても貧乏根性の抜けないことに苦笑している。自足と自嘲とがないまぜになったまま、こうしてまた春を迎えることになった。ものみな芽吹く春の訪れは、年齢を重ねる意識と結びつかざるを得ない。その上で、幼少期の「育ち」が人生に影響することの真実を、老いの現実が具体的に示していることに感じ入っている。それにしても「爪に火をともす」とは、苛烈な比喩だ。蝋燭(ろうそく)の代わりに爪に火をともすなど、間違ってもできっこない。けれども極貧は、焼けるものなら我が身を焼いてでもよいというところまで「明かり」を欲するのだ。作者にとっては、もとより茫々たる昔の話ではあるが、懐しい昔話に閉じこめてしまうには、あまりにその渇望は生々しすぎたということだろう。誰もが老いていく。肉体も枯れていく。しかし、それは自分の中で、ついに昔話にはなしえない生々しい渇望の記憶とともに、なのである。この句にそんなことまで感じてしまうのは、私だけの気まぐれな「春愁」の故であろうか。『あなたこなた』(1983)所収。(清水哲男)


March 0832000

 大人だって大きくなりたい春大地

                           星野早苗

直に、おおらかな良い句だと思った。辻征夫(辻貨物船)の「満月や大人になってもついてくる」に似た心持ちの句だ。三つの「大」という字が入っている。もちろん、作者は視覚的な効果を計算している。辻の句とは違い、技巧の力が働いている。このとき「春大地」の「大」に無理があってはならないが、ごく自然にクリアーした感じに仕上がった。ホッ。だから、句の成り立ちからして、掲句は写生句ではありえない。頭の中の世界だ。その世界を、いかに外側の世界のように出して見せるのか。そのあたりの手品の巧拙が勝負の句で、「船団の会」(坪内稔典代表)メンバーの、とくに女性たちの得意とする分野と言ってよいだろう。が、このような句作姿勢には常に危険が伴うのだと思う。技巧と見せない技巧を使うことに執心するがために、中身がおろそかになる危険性がある。「おろそか」は、技巧の果てに作者も予期しない別世界が出現したときに、「これはこれで面白いね」と自己納得してしまう姿勢に属する。俳句は短い詩型だから、この種の危険性は、なにも「船団俳句」に特有のことではないのだけれど、最近「船団」の人の句をたくさん読んでいるなかで、ふと思ったことではある。『空のさえずる』(2000)所収。(清水哲男)


March 1032000

 天が下に春いくたびを洗ふ箸

                           沼尻巳津子

の訪れは、もちろん水の温んできた感触から知れるのだ。悠久の自然の摂理にしたがって、また春がめぐってきた。「天が下に」ちんまりと暮らしている人間にも、大自然の恩寵がとどけられた。そんな大きい時空間の移り行きのなかで、私は「いくたび」の春を迎えてきただろうか。小さな水仕事をしながら、ふと感慨が頭をよぎった。人の営みは小さいけれど、ここで作者はその小ささをこそ愛しているのだ。台所はしばしば俳句の題材に採り上げられるが、「天が下に」と大きく張って「洗ふ箸」と小さく収めたところが、作者の手柄である。水仕事だけではなくて、人間のすべてのちんまりとした営みを「天が下に」置いてみるという気持ちなのだろう。同じ作者の句に「一斉にもの食む春の夕まぐれ」の佳句があって、ここでも「天が下に」が意識されている。「全体」から「個」へ、はたまた「個」から「全体」へと。そうしたスケールの、絶妙な出し入れの才に秀でた俳人だと思う。『背守紋』(1988)所収。(清水哲男)


March 1232000

 猪が来て空気を食べる春の峠

                           金子兜太

(いのしし・句では「しし」と読ませている)というと、とくに昔の農家には天敵だった。夜間、こいつらに荒らされた山畑の無残な姿を、私も何度も見たことがある。農作物を食い荒らすだけではなく、土を掘り返して野ネズミやミミズなどを食うのだから、一晩にして畑はめちゃくちゃになってしまう。俳句で「猪」は秋の季語だが、もちろんそれはこうした彼らの悪行(?!)の頻発する季節にちなんだものだ。猪や鹿を撃退するために「鹿火屋(かびや)」と言って、夜通し火を焚いて寝ずの番をする小屋を設ける地方もあったようだが、零細な村の農家にはそんな人的経済的な余裕はなかった。せいぜいが、猟銃を持っているときに出くわしたら、それで仕留めるのが精いっぱい。仕留められた猪も何度も見たけれど、いつ見ても、とても可愛い顔をしているなという印象だった。日本種ではないようだが、いま近くの「東京都井の頭自然文化園」で飼われている猪族も、実に愛嬌のある顔や姿をしている。まともに見つめると、とても憎む気にはなれないキャラクターなのだ。だから、この句の猪の可愛らしさも素直に受け取れる。ましてや「春の空気」しか食べていないのだもの、私もいっしよになって口を開けたくなってくる……。『遊牧集』(1981)所収。(清水哲男)


April 0442000

 どことなく傷みはじめし春の家

                           桂 信子

わゆる春愁には、このような暮らしの上の心配も入り込んでくる。「どことなく」と言うのだから、具体的に家のどこかが「傷(いた)みはじめ」たというわけではない。「どことなく」なんとなく、どこなのだかよくはわからないのだが、どこかが確実に傷んできた気配がするのだ。だから、緊急に修理する必要もないわけだが、「どことなく」不安にもなってくる。暖かい光のなかの、一見平和な環境にある「春の家」だからこそ、この漠然たる不安が際立つ。句全体の味わいとしては、しかし、「どことなく」ユーモラスだ。ここに、みずからの漠然たる不安を客観視できる作者の、したたかな腕前を感じさせられる。春愁におぼれない強さ。あるいは、春愁の甘い響きに飽きてしまった諦念が、ぽろりと、むしろ不機嫌主導でこぼれ落ちたのかもしれない。いずれにしても、単純の極にある言葉だけで、これだけのことを言えた作者の才質は素晴らしい。「俳句研究年鑑」(1994)の自選句欄で見つけた。すなわち、作者自信の一句である。(清水哲男)


February 1122001

 地球儀のいささか自転春の地震

                           原子公平

語では、地震を「なゐ」と言った。作者も、そのように読んでくださいと「ない」と仮名を振っている。ぐらっと来た。少し離れたところの地球儀を見ると、「いささか」回るのが見えた。地震だから地が動いたわけで、そこから「地球儀」も自転したと捉えたのが揚句の芸である。「いささか」でも地球儀が回るほどの地震だから、そんなに小さな揺れではなかったろう。ちょっと緊張して、腰を浮かせたくなるほどだったろう。とっさに地球儀に目がいったのは、部屋の中でいちばん転落しやすい物という意識が、日ごろからあったからに違いない。たしかに地球儀は、少なくとも見た目には安定感に欠けている。でも、それっきりで揺れは収まった。ヤレヤレである。句意としては、こんなところでよい。ただうるさいことを言えば、何故「春の地震」なのかという疑問が残る。べつに「春」でなくたって、他の季節の「地震」でも、同じことではないか。実際に、たまたま「春の地震」に取材したのだとしても、それだけでは「春」と表現する根拠には乏しいのではないか。地震の揺れように、四季の区別はないからだ。はじめ私もそう思ったが、この句の主題は「地震」などにはなく、本格的な「春」の到来にあるのだとわかった。すなわち、他の「夏」でも「秋」でも「冬」でもなく、いきなり「地震」のように予知できない感じで訪れるのが「春」なのだと。四季のうちで最もおだやかな「春」が、もっとも不意にやってくるのだと……。「春めく」という言葉があるくらいで、兆しはあっても、待つ「春」は遅い。しかし、あっと「地球儀」の回転に気づいたときには、もう「春」は盛りなのである。わざわざ「地震」を「ない」と読ませているのは、字余りを嫌ったのではなくて、「古来」という感覚を生かしたかったのだ。すなわち、句全体が「春の訪れ」の喩になっている。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)


February 1422001

 砂漠越ゆ女神たのみの春飛行

                           松村多美

書に「ラスベガス二句」とあるうちの一句。砂漠の人工都市ラスベガスに入るには、まるで「蚊とんぼ」のような頼りない雰囲気の飛行機に乗る必要がある。昔は、よく墜落した。だから必然的に「女神たのみ」の心持ちになる。巧みな句だと思う。私が最初にラスベガスに出かけたのは、仕事のためだった。生来の高所恐怖症も伴って、この飛行機には生きた心地がしなかった。「女神たのみ」などぜいたくなことは言っていられない。「ワラ」にもすがりたい思い。「春飛行」の暢気な風情は、カケラもなかったのである。と、体験した人にはよくわかる揚句だが、作者が書き留めておきたかった気持ちもよくわかるが、他の読者にはどうだろうか。最近は、海外に取材した句が増えてきた。虚子や漱石あたりが出かけていった戦前にも海外句はあるが、当時は物珍しさも手伝って読まれたのだろう。絵はがきかスナップ写真みたいに、だ。いまは旅行事情が激変しているので、そうもいかない。日本にいるときと同じ作句態度が要請される。が、私の狭量にも原因がありそうだが、行ったことのない外国が読まれていると、ちっとも面白く感じない。風土文物などが実感的にわからないので、感覚が届かないのである。国内であれば、未知の土地の句でも、それなりに推量はできる。外国は、さっぱりいけない。手がかりがない。これからも海外句は増えていくだろうが、未知の読者に向けて、一句や二句でその土地を言い当てるのは無理ではなかろうか。他に何か、芭蕉の『おくのほそ道』みたいな方法でも工夫しないと……。考えてみれば、芭蕉の紀行文は海外レポートみたいな要素をたくさん含んでいる。『森を行く』(2001)所収。(清水哲男)


February 2222001

 兵舎の黒人バナナ争う春の午後

                           島津 亮

が世に連れるように、俳句も世に連れる。揚句を理解するには、戦後の疲弊した日本社会に心を移して読まなければならない。「兵舎」には「きゃんぷ」の振り仮名。春の午後に、基地の兵舎で、黒人兵たちがふざけ半分にバナナを争っている。ただそれだけの図であるが、作者はただそれだけのことに呆然としていると言うのだ。何故の呆然か。一つには、進駐してきたアメリカ兵たちが、日本の兵士たちに比べてあまりにも明るく開放的であったことへの衝撃がある。とくに黒人兵たちは目立ったこともあり、とてつもなく陽気に見えた。兵舎での食べ物の取り合いくらいは、日常茶飯事という印象だ。日本の軍隊では考えられない光景である。そして彼らのこの陽気は、同時に治外法権者の特権にも通じていると写り、敗戦国民にはまぶしいような存在だった。もう一つには、困難を極めた食糧事情の問題がある。バナナやパイナップルなどは高価で、そう簡単には庶民の口には入らなかった。それをごく普通の食べ物として、平気で取り合っている……。呆然とせざるを得ないではないか。「春の午後」は、さながら天国のような基地の兵舎の雰囲気を象徴した言葉として読める。前衛俳句の旗手として活躍した島津亮にしては大人しい句だが、あの頃を知る読者には、今でもひどく切なく響いてくるだろう。羨まず嫉まず怒らず、ただ呆然とするのみの世界が同じ地上に近接していたのだ。もう一句。「びくともせぬ馬占領都市に花火爆ぜる」。人間よりも馬のほうが、よほど性根がすわっていた。『記録』所収。(清水哲男)


February 1522002

 春いくたび我に不落の魔方陣

                           清水哲男

生日には、自作を載せるならわし。と言っても、自分勝手に決めたこと。お目汚しですみません。「魔方陣(まほうじん)」は、n×n個の升目に数を入れて、縦、横、斜め、どの一列のn個の数の和も一定になるようにしたもの。nが3なら三方陣、nが4なら四方陣というように呼ぶ。三方陣には、「憎し(294)と思う七五三(753)、六一八(618)は十五(15)なりけり」などの覚え歌がある。中学生の頃、このnをどんどん増やして解くのに夢中になった。n方陣では「n(n自乗+1)/2」が答えだなんてことは知らないので、憎しも憎し、ひたすら勘を頼りに解いていくのだから大変だ。それだけに、解けたときの心地よさったらなかった。そんなことをふと思い出して、二年前の誕生日を迎えるにあたって作った句。紙の上の魔方陣ならいずれ何とかなるけれど、「春いくたび」馬齢を重ねてみても、人生の魔方陣ってやつはどうにもならないなあ……と。自嘲気味。「不落」は難攻不落のそれのつもりだ。物心がついたときには、空爆が日常という世代である。死なないで、今日誕生日を迎えられたのは偶然だ。私という存在は、神様が気まぐれに解く魔方陣の片隅に入れていただいた一つの数字のようなものかもしれない。「64」。(清水哲男)


March 0432002

 春なれや歩け歩けと歩き神

                           山田みづえ

や春。何となく家にとどまっていられない気持ちになって、さしたる目的もないのに、外出することになる。やはり、春だからだろうか(「春なれや」)。しかも、しきりに「歩け歩け」と「歩き神」が促してくるのである。私も、そうだ。これからのほど良く暖かい季節には、休日の原稿書きの仕事がたまっていても、ついつい「歩き神」の命じるままに、少し離れた公園などに足が向いてしまう。帰宅してからしまったと思っても、もう遅い。ところで、この神様はそんなにポピュラーではないと思うが、平安末期の歌謡集『梁塵秘抄』に出てくる。「隣の一子が祀る神は 頭の縮れ髪ます髪額髪 指の先なる拙神(てづつがみ) 足の裏なる歩き神」。隣家の娘をからかった歌と解釈されており、髪はちぢれて手先は不器用、おまけにやたらとそこらをほっつき歩くというのだから、当時の女性としてはひんしゅく者だった。しかし、それもこれもが娘に宿った神様のせいだよと歌っているところに、救いはある。すなわち「歩き神」とは、人間を無目的にほっつき歩かせる神というわけで、決して健康のためにウォーキングを奨励するような真面目な神様ではない。しかも足の裏に宿っているというのだから、取りつかれた人はたまったものではないだろう。足が、勝手に動くのだからだ。このことを踏まえて、もう一度掲句に戻れば、何もかもをこのどうしようもない神様のせいにして、「ま、いいか」と歩いている作者の楽しい心持ちがよく伝わってくる。『木語』所収。(清水哲男)


February 1922003

 春萱に氷ノ山その氷のひかり

                           友岡子郷

ずは、句の読み方を。「はるかやにひょうのせんそのひのひかり」。「氷ノ山(ひょうのせん)」という珍しい読みの名の山は、ずいぶんと有名らしいが、掲句ではじめて知った。この山の名をこよなく愛するという作者によれば、「兵庫、鳥取二県の接点にそびえる高岳で、厳冬のころは風雪に荒(すさ)ぶ険しさがあるゆえ、この名が付いたにちがいない。人界から離れて、きびしい孤高を保っているかのような山の名である」。調べてみたら、中国山脈の山のなかでは、大山についで二番目の高さだという。早春。名山を遠望する作者の周辺には、すでに「萱(かや)」や他の野の草が青々と芽吹いており、本格的な春の訪れが間近いことを告げている。だが、彼方にそびえ立つ氷ノ山にはまだ雪が積もっていて、厳しい「氷(ひ)のひかり」を放っている。このコントラストが、非常に美しい。このとき、作者に見えているのは、おそらく山頂付近だけなのではあるまいか。場所にもよるだろうが、絵葉書の富士山のように、すそ野近くまでは見えていないのだと思う。したがって、ますますコントラストが際立つ。「ひ」音を畳み掛けた手法も、実景そのものにくっきりとしたコントラストがあっての上での、必然的なそれだろうと読んだ。『日の径』(1980)所収。(清水哲男)


February 2222003

 春ながら野に南極の昏さあり

                           三宅一鳴

田蛇笏に『現代俳句の批判と鑑賞』という正続二冊の角川文庫があり、続(1954)のほうの目次から見つけた句。目次には採り上げた句と作者名のみが並んでいて、前書や添書は省略されている。実は前書のある句だったのだが、目次だけ見て心引かれ、蛇笏の鑑賞を読む前に、次のように解釈した。どこまでも明るい春の野が広がっている。まことに駘蕩たる気分だ。そんな気分に心を遊ばせているうちに、ふと気づいたことには、春の野は単に明るいばかりではないということだった。明るさのその奥に、何か昏(くら)いものが潜んでいる。見つめていると、ますますそれが実感として迫ってくる。この昏さは何だろうか。一瞬考えて作者は、直覚的に地球の極に思いがいたった。そうだ。はるか地の果ての極の磁力が、かすかに春の野に及んでいるがゆえの昏さなのだ……。眼前の何でもないような光景にも、常に全地球的な力が及んでいるという発見に、おそらく作者は興奮を覚えただろう。おおむねこのように読んで、さて蛇笏の鑑賞や如何にとページを繰ってみたら、句には次の前書があったのだった。「亜國ヴエノスアイレス市より智國サンチアゴ市まで飛行機にて約六時間を翔破す」。句景をてっきり日本の春の野と思い込んでいたので、読んだ途端にショックを受けた。実景だったのか。だったら、相当に解釈が異ってくる。蛇笏は、日ごろの作者の修練のおかげで、俳句が外国の景色の前でもたじろいでいない一例として、句を誉めている。ま、それはその通りなのかもしれないが、この前書さえなければ、もっと良い句なのになアと、いまの私は妙に意固地になっている。(清水哲男)


February 2422003

 やはらかに裾出して着る春のシャツ

                           土肥あき子

意は明瞭。変哲もない句と言えばそれまでだが、「やはらかに」と「春」の付き過ぎを承知の上での作句だろう。付き過ぎが、かえって春を喜ぶ気分を上手に増幅している。そこらへんに、作者のセンスの良さを感じさせられた。男だと、なかなかこうは作れない。よほどの洒落男なら別だけれど、基本的に男の服装は「着たきり雀」に近いからだ。いかにスーツやネクタイを取っ換え引っ換えしようが、服の着方にまでは、そんなにバリエーションがあるわけじゃない。冠婚葬祭の服装のあり方からはじまるドレスコード的に言っても、女性のほうが、コードの種類ははるかに豊富である。これにはもとより、歴史的社会的なさまざまな要因がからんでくるわけだ。思い出したが、いわゆる「裾出しルック」が流行しはじめたころに、こんな笑い話が本当にあった。会社の応接室に通された中年のおじさんが、お茶を入れてくれた女性の裾が出ていることに気づき、見かねてタイミングを見計らい、小声でそっとささやいた。「出てますよ」。言った途端に、彼女は憤然として、しかし小声でささやき返したという。「流行ってるんです、いま」。当時はシャツまでは下着という感覚が一般的だったので、おじさんが見かねた気持ちもよくわかる。このエピソードに触れて以来、私は女性がどんな服装や着方をしていようとも、「流行ってるんだな、いま」と思うことに決めたのだった。俳誌「鹿火屋」(2003年1月号)所載。(清水哲男)


March 0932003

 生き残りたる人の影春障子

                           深見けん二

く晴れた日。縁側に腰掛けているのか、廊下を通っていったのか。明るい障子に写った「人の影」を認めた。その人は、九死に一生を得た人だ。大病を患ったのかもしれないし、戦争に行ったのかもしれない。しかし作者は、ふだんその人について、そういう過去があったことは忘れている。その人は身内かもしれないし、遊びに来た親しい友人かもしれない。いずれにしても、作者はその人の影を見て、はっとそのことを思い出したのである。自分などとは比較にならぬ不幸な体験を経て、その人はいまここに、静かに生きている……。生き残っている。その人と直に向き合っているとわからないことを、束の間の影が雄弁に語ったということだろう。すなわち、障子一枚隔てているがゆえに、逆にその人の本当の姿がくっきりと浮かび上がったのだ。影は実体のディテールを消し去り抽象化するので、実体に接していたのではなかなか見えてこないものを、率直にクリアーに写し出す。この人は、こんなに腰が曲がっていたのか、等々。シルエット、恐るべし。さて、作者はこれから、その人と言葉をかわすのかもしれない。だとしても、いつもの調子で、何事も感じなかったように、であるだろう。『花鳥来』(1991)所収。(清水哲男)


March 1432003

 顎紐や春の鳥居を仰ぎゐる

                           今井 聖

の「鳥居」を見上げているのは、どんな人だろう。「顎紐(あごひも)」をかけているというのだから、警官か消防隊員か、それとも自衛隊員か。あるいはオートバイにまたがった若者か、それとも遠足に来た幼稚園児だろうか。いろいろ想像してしまったが、おそらくは消防関係の人ではなかろうか。春の火災予防運動か何かで、神社に演習に来ているのだ。仕事柄、とくに高いところには気を配る癖がついている。大鳥居なのだろう。仰ぎながら梯子車がくぐれるか、神社本体への放水の邪魔にならないかなど、策を練っている。たまたま通りかかった作者には、しかし彼の頭のなかは見えないから、顎紐をかけたいかめしい様子の人が、さも感心したように鳥居を仰いでいる姿と写った。春風駘蕩。鳥居は神社の顎紐みたいなものだし(失礼)、そう思うと、両者のいかめしさはそのまま軽い可笑しみに通じてくる。余談になるが、この顎紐のかけ方にも美学があって、真面目にきちんと締めるのは野暮天に見える。戦争映画などを見ていると、二枚目は紐をだらんとぶら下げていることが多い。これが本物の戦闘だったら危険極まると思うが、その方がカッコいいのだ。そういえば、最近の消防団のなかには、顎紐つきの旧軍隊のような帽子を廃止して、野球帽スタイルのものをかぶりはじめたところもある。顎紐そのものを追放してしまったわけだが、実際の消火活動の際に、あれで大丈夫なのだろうか。『谷間の家具』(2000)所収。(清水哲男)


March 1532003

 玉丼のなるとの渦も春なれや

                           林 朋子

じめての外食生活に入った京都での学生時代。金のやりくりなどわからないから、仕送り後の数日間は食べたいものを食べ、そうしているうちに「資金」が底をついてくる。さすがにあわてて倹約をはじめ、そんなときの夕食によく食べたのが、安価な「玉丼(ぎょくどん)」だつた。「鰻玉丼」だとか「蟹玉丼」なんて、立派なものじゃない。言うならば「素玉丼」だ。丼のなかには、米と卵と薄い「なると」の切れっぱししか入っていない。丼物は嫌いじゃないけれど、毎日これだと、さすがに飽きる。掲句を読んで、当時の味まで思い出してしまった。作者の場合は、むろん玉丼のさっぱりした味を楽しんでいるのだ。「なると」の紅色の渦巻きに「春」を感じながら、上機嫌である。「なると」は、切り口が鳴門海峡の渦のような模様になっていることからの命名らしいが、名づけて妙。食べながら作者は、ふっと春の海を思ったのかもしれない。楽しい句だ。またまた余談になるが、昭和三十年代前半の京都には「カツ丼」というものが存在しなかった。高校時代、立川駅近くの並木庵という蕎麦屋が出していた「カツ丼」にいたく感激したこともあって、京都のそれはどんなものかとあちこち探してみたのだが、ついに商う店を発見できなかった。さすがに今はあるけれど、しかし少数派のようだ。なんでなんやろか。『眩草(くらら)』(2002)所収。(清水哲男)


February 2622004

 東京の春あけぼのの路上の死

                           加藤静夫

京論として読むと、さしたる発見があるわけではない。「東京砂漠」なんて昔の歌もあるくらいで、この大都会の索漠たる状況は多く掲句のように語られてきた。この種の東京認識は、もはや常識中の常識みたいなものだろう。にもかかわらず、この句が私を惹きつけるのは何故だろうか。結論から言ってしまえば、この句は東京論なのではなくて、東京に代表される現代都市の「あけぼの」論だからである。それこそ常識中の常識である「春(は)あけぼの」の持つイメージの足元を、末尾の「路上の死」がまことに自然なかたちですくっていて、そこに新鮮さを覚えるからなのだ。作者の眼目は、ここにある。つまり、句が指さしているのは大都会の孤独な死ではなく、その死が象徴的に照り返している今日的な自然のありようなのである。「春あけぼの」の下の東京の孤独死の悲劇性を言っているのではなく、「路上の死」の悲劇性から現代の「あけぼの」は立ち上がってくると述べている……、とでも言えばよいだろうか。その意味で、この句は社会詠ではなくて自然詠と受け取るべきだ。早起きの私は我が家のゴミ当番なので、あけぼの刻に集積所までゴミを運んでいく。そうすると、まさか孤独死まで連想は届かないが、なんだかそこに積まれたゴミの山から、早朝の光りをたたえた空や大気が生まれてきたような感じがする。別に神経がどうかしたということではなく、実感として素直にそう感じている自分に気がつく。そしてこのときに、ゴミの山から孤独死までの距離はさして遠いものではないだろう。私にはそんな日常があるので、余計に掲句に魅かれ、このような解釈になったのだった。俳誌「鷹」(2004年1月号)所載。(清水哲男)


March 1532004

 下宿屋は下長者町下る春

                           児玉硝子

面を見ているだけで、なんとなく切なくも可笑しく感じられる句だ。ペーソスがある。大学に合格すると、地方出身者が何をおいてもやらねばならぬことは「下宿探し」である。もっとも今では、素人下宿も減ってきたから、アパート探し、マンション探しということになるのかな。いろいろと探し回って、作者が決めた下宿の住所を確認してみたら「下長者町下る」であった。「下」の文字が二つも入っていて、せっかく縁起の良い長者という地名なのだが、下宿の「下」の字も含めると三つになり、なんだか長者がどんどん零落衰退していく町のようではないか。「下る」とあるから、この町があるのは京都だ。御所の南北の真ん中あたりから烏丸通越しに西に延びているのが長者町通りで、同志社大学に通うには便利な地域だろう。住む部屋を探すのに、よほど縁起をかつぐ人でないかぎりは、まず住所表記など気にはかけない。部屋を決めてから住所を教えてもらい、たいていは「あ、そう」なんてものである。ただ京都のように古い地名が生きている街だと、句のように「あ、そう」と簡単に言うには抵抗を覚える場合も出てきてしまう。友人知己に新住居を知らせる手紙を書きながら、やはり「下」ばかり書いていると、もう少しマシな地名のところを選べばよかったと、そんなに切実ではないにしても、イヤになった昔の記憶が書かせた句のような気がする。私の場合は、新入生のときには宇治市「県通り」、二回生からは京都市北区「小山初音町」だった。いずれも良い地名なのだが、ちょっと「初音町」は照れ臭く感じていた。しかも当時の実家の住所は東京都西多摩郡多西村「草花」と言ったから、「草花」から「初音」へと転居したわけで出来過ぎである。「『草花』やて、ウソやろ」と、出来たてほやほやの友人に言われたことがある。彼に悪気はなけれども、「てやんでえ、『長者町』こそ大ウソじゃねえかっ」と言い返してやりたかったけれど、他所者の悲しさで大人しく黙ってたっけ……。『青葉同心』(2004)所収。(清水哲男)


March 1832004

 花よ花よと老若男女歳をとる

                           池田澄子

語は「花」、平安時代以降は桜の花を指すのが一般的だ。手塚美佐に「誰もかも寒さを言へり春を言ふ」があって、その後に掲句の季節が来る。昔から毎年のことではあるが、「春は名のみの風の寒さ」の候より「春」を言い、少し暖かくなってくると「花よ花よ」と開花を待ちわび、咲いたら咲いたで老いも若きもが花見に繰り出してゆく。四季の変化に富む地での農耕民族に特有の血が騒ぐのだろうか。正直に言うと、私は桜よりも野球シーズンを待ちかねる気持ちが強いのだが、野球とてもファンの「花」には違いない。句は人がそんな気持ちを繰り返すうちに、「老若男女」がみな歳をとっていくのだなあと、あらためて感嘆している。この感嘆の気持ちのなかには、唖然呆然の気配も感じられる。何故なら、老若男女の加齢には例外がなく、そこには当然自分も含まれていることに、あらためてハッとさせられるからだ。この認識は、理屈を越えた唖然呆然に否応無くつながってしまう。同じ作者に「四十九年頸に頭を載せ花曇り」の句もあり、ここにも唖然呆然の気配が漂っている。この句はしかし、あまり若い人には本当にはわからないだろう。意味的には誰にでも理解できるが、ここに唖然呆然の気配を感じるには、やはりそれなりの年齢に達している必要があるからである。したがって若い読者のなかには、「花よ花よ」と浮かれている人たちへの皮肉を言った句と誤読する人がいるかもしれない。でも、この句には皮肉の一かけらも含まれてはいないのだ。実感を正直に詠んだら、こうなったのである。では、この句を味わうにふさわしい年齢とは何歳くらいだろうか。特別にお教えすれば、それはいま掲句にハッとしたあなたの年齢が最適なのであります。『いつしか人に生まれて』(1993)所収。(清水哲男)


April 0442004

 綺麗事並べて春の卓とせり

                           櫂未知子

意は、いかにも春らしい綺麗(きれい)な彩りの物ばかりを並べたてて、テーブルを装ったということだろう。しかし、綺麗事をいくら並べてみても、やはり全体も綺麗事であるにしかすぎない。装った当人が、そのことをいちばん良く知っている。これから来客でもあるのだろうか。気になって、なんとなく気後れがしている。そんな自嘲を含んだ句だ……。おそらく多くの読者はそう読むはずだと思うけれど、なかにはまったく正反対の意味に解する人もいそうである。というのも、綺麗事の本義は単に表面だけを取り繕った綺麗さの意味ではなくて、そのものずばり、良い意味で「物事を手際よく美しく仕上げること」だからだ。この意味で読むと、掲句の解釈はがらりと変わってしまう。我ながら上手に「春の卓」を作れたという満足感に、作者が浸っていることになる。浮き浮きしている図だ。どちらの解釈を、作者は求めているのだろうか。もとより、私にもわかりっこない。けれども、今日では本義はすっかり忘れ去られているようなので、やはり前者と取るのが自然ではあるのだろう。「君の仕事はいつも綺麗事だ」と言われて、ニコニコする人はまずいないはずだからだ。すなわち、綺麗事の本義はもはや死んでしまったと言ってもよい。同様の例には、たとえば「笑止千万」がある。本義は「悲しくて笑いなどは出てこない」だが、現今では逆の意味でしか通用しない。どうして、こんなにも正反対の転倒が起きるのか。言葉とは面白いものだ。ところで最近、柳家小三治のトークショーの録音を聞いていたら、この「綺麗事」を本義で使っているシーンに出くわした。となれば、落語の世界などではむしろ良い意味で使うことが多いのだろうか。本義の綺麗事に感心する小三治の咄を聞いていて、とても懐しいような気分がした。『セレクション俳人06・櫂未知子集』(2003)所収。(清水哲男)


April 2442004

 家族寫眞に噴水みじかく白き春

                           竹中 宏

らりと読み下せば、こうなる。家族で撮った春の写真に、噴水が写り込んでいる。シャッター・チャンスのせいで、噴水の丈は短い。画面は、光線の加減でハレーションでも起こしたのだろうか。全体的に、写真は白っぽい仕上がりになっている。そんな写真の世界を「白き春」と締めくくって、明るい家族写真にひとしずくの哀感を落としてみせた恰好だ。このときにこの理解は、一句を棒のようにつづけて読むことから生まれてくる。むろんこう読んでも一向にかまわないと私は思うが、そう読まない読み方もできるところが、実は竹中俳句の面白さではないのかと、一方では考えている。すなわち、棒のように読み下さないとすれば、キーとなるのは「噴水みじかく」で、この中句は前句に属するのか、あるいは後五に含まれるのかという問題が出てくる。前句の一部と見れば、噴水は写真に写っているのだし、後句につながるとすれば、弱々しく水のあがらない現実の噴水となる。どちらなのだろうか。と、いろいろに斟酌してみても、実は無駄な努力であろうというのが、私なりの結論である。この一句だけからそんなことを言うのは無理があるけれど、この人の句の多くから推して、この中句は前後どちらにも同時にかけられていると読まざるを得ないのだ。しかもそれは作者の作句意識が曖昧だからというのではなく、逆に明確に意図した多重性の演出方法から来ているのである。中句を媒介にすることで、掲句の場合には写真と現実の世界とが自由に出入りできるようになる。その出入りの繰り返しの中で、家族のありようは写真の中の噴水のように、短くともこれから高く噴き上がるように思えたり、現実のそれのようにしょんぼりするように思えたりする。そして、このどちらが真とは言えないところに、「白き春」の乾いた情感が漂うことになるのである。またそして、更に細かくも読める。「噴水」までと「みじかく白き春」と切れば、どうなるだろうか。後は、諸兄姉におまかせしましょう。『アナモルフォーズ』(2003)所収。(清水哲男)


February 0922005

 音速たのし春の午砲の白けむり

                           原子公平

書きに「少年時代の思い出 一句」とある。「午砲(ごほう)」は俗に「お昼のどん」と言われ、市民に正午を知らせた号砲だ。明治四年にはじまり、昭和四年サイレンにきりかえられるまで、旧江戸城本丸で毎日正午の合図に空砲を打った。いまのように時計が普及していなかった時代だから、これをアテにしていた人たちは多かったろう。むろん私は知らないのだけれど、はるか年上の原子少年はおもしろがっていたようだ。学校で「音速」を習ったばかりだったのかもしれない。まずその方角に「白いけむり」が上がったのが見え、しばらくしてから「どーん」と音が聞こえてくる。けむりが見えてから音がするまでの間(ま)に、なんとも言えぬおもむきがあった。折しも季節は「春」、のどかな少年期の真昼を回想して、作者はひとり微笑している。「音速」という硬い科学用語も、無理なく句に溶け込んでいる。それもまた、暖かい春ゆえだろう。なお、この午砲は東京・小金井公園のなかにある「江戸東京たてもの園」に保存されている(はずだ。数年前には入り口近くに置いてあった)。もっと大きいものかと思っていたら、意外に小さかったので驚いた。小学生がまたがって遊べるくらいの大きさと言えば、想像していただけると思う。『酔歌』(1993)所収。(清水哲男)


February 2822005

 バースデー春は靴から帽子から

                           中嶋秀子

まには、こうした手放しの明るさも気持ちが良い。作者の「バースデー」の正確な日付は知らないが、まだ寒い早春のころだろう。誕生日というので、自分に新しい「靴」と「帽子」をおごった。身につけると、それらの華やいだ色彩から、自然に先行して「春」が立ち上ってきたように思われたと言うのである。ひとり浮き浮きしている様子が伝わってくる。何の変哲もない句のように思えるかもしれないが、俳句ではなかなかこうした美意識にはお目にかかれない。つまり、人工的な靴や帽子から自然現象としての春に思いが至るという道筋を、通常の俳句様式は通らないからだ。何から、あるいはどこから春が来るかという問いに対して、たいていの俳句はたとえば芽吹きであったり風の吹き具合であったりと、同じ自然現象に予兆を感じると答えるのが普通だろう。が、掲句はそれをしていない。このような表現はかつてのモダニズム詩が得意としたところで、人工と自然を相互に反射させあうことで、いわば乾いたハイカラな抒情の世界を展開してみせたのだった。一例として、春山行夫詩集『植物の断面』(1929)より一部を紹介しておく。「白い遊歩道です/白い椅子です/白い香水です/白い猫です/白い靴下です/白い頸(くび)です/白い空です/白い雲です/そして逆立ちした/お嬢さんです/僕のKodakです」。「Kodak」はアメリカ製のカメラだ。掲句の「バースデー」も「Kodak」の味に通じている。『玉響』(2004)所収。(清水哲男)


March 0732005

 春や春まづはぶつかけうどんかな

                           有馬朗人

年の冬は長い。「春や春」には、まだとても遠そうな日がつづいている。誰かの短歌に「待っていればいずれは来るものを、人は何故わざわざ春を探しにいったりするのだろうか」、そんな趣旨のものがあった。この句をここに載せる私の気持ちも、やはり春を待望しているからなのだ。ああ待ち遠しい、寒いのはもうご免だ。掲句では、すでに春爛漫。外出先ですっかり嬉しくなって、なにはともあれ「ぶつかけうどん」で腹ごしらえをすることにした。うどんにもいろいろな種類があるけれど、この場合は「ぶつかけ」という言葉の勢いが気に入って注文したのだろう。「ぶつかけうどん」の味が好きというよりも、言葉が気分にマッチしての選択である。大袈裟に言えば時の勢い、別の何かを食べたくて店に入ったつもりが、メニューに並んだ料理名を見ているうちにふっと気が変わることはよくある。作者ははじめから「ぶつかけ」に決めていたのかもしれないが、いずれにしても言葉に惹かれたのには違いあるまい。食べるときにタレをぶっかけるとはいっても、それは言葉の綾というもので、実際には飛び散らないように静かにかける。お上品にも、いちいち別皿のタレにうどんをからめて食べるのは面倒だ。そこで、「えいっ」とばかりにぶっかける気持ちでかけるから「ぶつかけうどん」。東京辺りでも、まだまだ「ぶつかけ」ならぬ単なる「かけうどん」の似合う日がつづきそうだ(笑)。『不稀』(2005)所収。(清水哲男)


March 2332005

 春の木になりて縄など垂らすかな

                           鳴戸奈菜

い句だ。いや、逆に可憐な句と言ってもよい。一読,鮮やかな女性「性」を感じた。が、もしかすると作者はそのことに無意識であるかもしれない。それほどに、句柄がすっとしているからだ。でも、男が読めば、すっとしているほどに強い女性「性」を感じるのである。作者の名前が伏せられていたとしても,男の句ではないことがすっと伝わってくる。同じようなことを詠むとしても、男だったら「春の木を見れば縄など垂れている」程度になるだろうか。夏や秋の木ではなく、ましてや冬のそれでもなく,これから花開こうかという「春の木になる」。明るくも生臭い春の木は、しかしみずから動くことはかなわない。あくまでもじいっと立ったままなのであり、徹底して受け身である。その身悶えせんばかりの悩ましさから,少しでも解放されるために、せめて出来ることと言えば「縄など垂らす」ことくらいだろう。木の芽時の縄だから、もとより通りかかる誰かの自殺への誘惑装置として垂らすのだ。そこが「怖い」と感じさせる所以だが,しかし女性の根元的な「性」、当人も無意識であるかもしれない「性」のありようには、常に「縄など垂らす」ようなところがあるのだと思う。突き詰めた物言いをしておけば、死への誘惑がひそんでいる。したがって、その意味で理解するとなると、何の外連み(けれんみ)も無くすっと提出している作者の心情は,むしろ可憐の側にあるとも言えるのである。『鳴戸奈菜句集』(2005・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


March 3132005

 春や一億蝋人形の含み針

                           豊口陽子

が、どこで切れているのか。しばし迷った。大宅壮一の「一億総白痴化」じゃないけれど、最初は「一億蝋人形」(化)するのかとも考えた。でも、そう読むと、あまりにも構図が単純になってしまい、しかも押し付けがましくなる。私もあなたも「蝋人形」というわけで、決めつけが強引に過ぎるからだ。で、素直に「春や一億」で切ってみた。そうすると、一億の民みんなに春が訪れたと受け取れ,ほとんど「春や春」と同義になる。情景がぱっと明るくなり,蝋人形とのコントラストが鮮明になる。「含み針」は、口に含んだ短い針を敵に吹きつけて攻撃する一種の飛び道具だ。実際に使われたものかどうかは知らないが,時代物の小説などにはよく出てくる。作者は「春や一億」の明るいイメージは、つまるところ表層的なそれに過ぎず,その深層には正体不明の蝋人形がいて、それも含み針を口中に,一億の能天気に一針お見舞いすべく隙をうかがっていると詠んでいる。この、言い知れぬ不安……。蝋人形は不気味だ。どんなに明るい表情に作られていても,その一瞬の表情や仕草が永久に固定されていることから、本物の人間との差異が強調されてしまうからだ。身体的にも精神的にも,およそ運動というものがないのである。いま思い出したが,西條八十が若い頃、空に浮かんだ蝋人形の詩を書いている。八十は不気味にではなく,耽美的に蝋人形をとらえているのだが、私などにはやはり病的な不気味さばかりが印象づけられた世界であった。『薮姫』(2005)所収。(清水哲男)


April 1342005

 後れ毛や春をそわそわパラフィン紙

                           室田洋子

爛漫などという朗々たる春を捉えたのではなく、極めて日常的な春の喜びを繊細な感覚で詠んだ句だ。うなじの「後れ毛」と包装用の「パラフィン紙」とには何の関係もないのだけれど、「そわそわ」という感覚からすると、両者は手品のように結びつく。いずれもがデリケートな質感を備えており、そわそわとした一種不安定な気分と良くマッチしている。作者はうなじに春を感じながら、たとえば洋菓子のパラフィン紙をそっとはがしているのだろうか。主人公が少女ならば「るんるん」気分になるところだが、作者にはそれらの持つデリカシーの味をも楽しむ気持ちがあるので、やはり「そわそわ」気分と言うしかないのである。パラフィン紙は、別名をグラシン紙と言う。昔の文庫本のカバーがみなこれだったし、いまでも箱入りの本の内カバーとしてよく使われている。カステラの敷き紙なんかもそうだったが、今でも健在かな。半透明で、薄くて破れやすい。私の子供の頃には、大人も含めて俗に「ブーブー紙」と呼んでいた。なぜ「ブーブー」なのかと言えば、この薄紙を口に当てて強く息を吹きかけると「ブーブー」と鳴るからである。他愛無い遊びだったが、鳴らしたときに紙が唇に微妙にふるえて触れるこそばゆさを、いまだに覚えている。『海程樹道場第四集』(2005・群馬樹の会)所載。(清水哲男)




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