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February 2521997

 梅やなぎさぞ若衆かな女かな

                           松尾芭蕉

まり、梅はいい男みたいで、柳はいい女みたいというわけだ。見立ての句。「立てば芍薬 坐れば牡丹 歩く姿は百合の花」などの類であるが、ひるがえって最近の美男美女は、とんと花に見立てられることがなくなってきたようだ。人間と自然との交感が薄らいできたせいだろう。「牡丹のようなお嬢さん」と言われたって、第一、誉められた当人がわからない。「隆達小唄」に、こんなのがある。「梅は匂ひよ 木立はいらぬ 人はこころよ 姿はいらぬ」。……と、うたいながらも人に姿を求めている屈折した古人の「粋」を、君知るや。このとき三十九歳の芭蕉は、単なる野暮な男でしかないのである。(清水哲男)


February 2322001

 煙草屋の娘うつくしき柳かな

                           寺田寅彦

いした句ではないけれど、たまには肩の凝らない句もいいものだ。「うつくしき」は「娘」と「柳」両方にかけてある(くらいは、誰にでもわかるけど)。この娘さん、きっと柳腰の美人だったのだろう。その昔の流行歌に「♪向こう横丁の煙草屋の可愛い看板娘……」とあるように、なぜか(失礼)煙草屋の娘には美人が多かった。というよりも、実際はなかなか若い娘と口を聞く機会がなかった時代だから、客としておおっぴらに話のできた煙草屋の娘がモテたと見るべきだろう(またまた失礼)。芽吹いてきた柳は、うっとりするほど美しい。したがって、春の季語となった。かの寺田寅彦センセイから、揚句の娘さんは柳と同じように「うつくしき」と詠んでもらったわけで、曰く「もって瞑すべし」とはこのことだ。それがいまや、煙草屋から看板娘が消えたのもとっくのとうの昔のことで、さらには煙草屋の数も激減してしまい、自動販売機が不愉快そうにぼそっと突っ立っているばかり。とくれば、世に禁煙者が増殖しつづけているのも当たり前の成り行きか。ところで一方の柳だが、さすがに美しさを愛でた句は多いのだけれど、なかには其角のように「曲れるをまげてまがらぬ柳かな」と、その性に強情を見る「へそ曲がり」もいた。極め付けは、サトウ・ハチローの親父さんである作家・佐藤紅緑が詠んだ「首縊る枝振もなき柳かな」かな。でも、こんなに言われても、柳は上品だからして「だから、なんだってんだよオ」などと、そんな下卑た口はきかないのである。柳に風と受け流すだけ。(清水哲男)


March 1332001

 人生を空費して居る柳かな

                           永田耕衣

吹きが美しいので「柳」は春の季語。「♪柳青める日、ツバメが銀座に飛ぶよ、……」など、たくさんの春の流行歌にもなっている。さて、揚句。まさか柳に「人生」があろうはずもないから、すうっと読み下さないで、「空費して居る」で一度切る。すると、柳の姿に「人生を空費して居る」おのれの姿がダブル・イメージとなって映し出されてくる。しかし、そう簡単に句を割り切ってしまうのも面白くないよ。と、句それ自体が呼びかけているような気がする。では、次にすうっと読み下してみよう。すると今度は柳にも「人生」があることになる。どんな「人生」なのか。たとえば俗に「柳に風」と言ったりするが、これを皮肉に解釈すれば、平然と風を受け流せるのは、柳にはおのれを主張できるような確固とした主体的自立的「人生」がないからだと言える。何も主張しないのだから、どんな風当たりにも平気の平左でいられるのだ。こう読むと、「人生」の「空費」も捨てたものじゃない。むしろ最初から「空費」するしかない柳の「人生」のほうが、羨ましくさえ思えてくる。となって、結局は途中で切って読んでも読み下しても、テーマは同じところに収斂していく。「空費」全般の肯定だ。ここらへんが、俳句様式のマジックだろう。いわば曖昧さを「精密に表現してみせる」様式とでも言うべきか。簡単に言えば、作者が「そんな気がした」だけで、さしたる説得の努力もせずに、読者に有無を言わせないところが俳句にはある。「作るが勝ち」のところがある。こんな文芸は、他にはないだろう。『人生』所収。(清水哲男)


April 1142001

 むつとしてもどれば庭に柳かな

                           大島蓼太

太(りょうた)は、十八世紀江戸の人。例の「世の中は三日見ぬ間に桜かな」の俳人だ。「むつとして」と口語を使っているのが、面白い。いまどきなら「むかついて」とやるところか(笑)。表で、何か不愉快なことがあった。むかむかしながら帰宅すると、庭では柳が風を受け流すようにして超然と静かに揺れている。些細なことに腹を立てている自分が、小さい人間に思われて恥ずかしいと言うのだろう。むろん、目にしみるような柳の美しさに、立腹に荒れた心が癒されてもいる。桜の句もそうだが、かなり教訓を垂れようとする色合いが濃い。また、そう読まなければ読みようがない。このように詩歌に教訓や人生訓を持ち込む流れは、昔から脈々としてつづいてきた。高村光太郎などはお得意だったし、宮澤賢治の一部の詩もそうだし、現代の書き手にも散見される。投稿作品には、どういうわけか実に多い。子供の頃は別(賢治の「稲作挿話」には感動した)として、やがて私はこういう流れが苦手となり、出会うたびにそれこそ「むつとして」きた。詩歌に生き方まで教えてほしくないよ、「東へ西へ歩け歩け」(光太郎)だなんて余計なお世話じゃないか……。ただし、このテの作者の美質はとにかく生真面目なところにあり、私など不良は恥じ入るばかりだ。だから「むつとして」も、なかなか面と向かっては物を言えないできた。不幸にも我が家の庭には柳もないことだし、どうすればよかんべえか。(清水哲男)


April 0742004

 けろりくわんとして柳と烏かな

                           小林一茶

語は「柳」で春。「梅にウグイス」や「枯れ枝にカラス」ならば絵になるけれど、「柳にカラス」ではなんともサマにならない。しかし、現実には柳にカラスがとまることもあるわけで、絵になるもならぬも、彼らの知ったことではないのである。ただ人間の目からすると、この取り合わせはどことなく滑稽に映るし、両者ともに互いのミスマッチに気がつかないままキョトンとしているふうに見えてしまう。その様子を指して「けろりくわん」とは言い得て妙だ。眉間に皴を寄せて作句するような俳人には絶対に詠めない句で、こういうところに一茶の愛される所以があるのだろう。柳といえば、こんな句もある。「柳からももんがあと出る子かな」。垂れている柳の葉を髪の毛のように見せかけ、誰かを驚かそうと「ももんがあ」のように肘をはりながら「子」が突然に姿を現わしたというのである。「お化けだぞおっ」というわけだが、むろん怖くも何ともない。しかし一茶は、しなだれている柳の葉を頭髪に見立てた子供の知恵に感心しつつ微笑している。このあたりにもまた、芭蕉や蕪村などとは違って、常に庶民の生活に目を向けつづけた彼の真骨頂がよく出ていると言えよう。一茶という俳人は、最後までごく普通の生活者として生きようとした人であり、芭蕉的な隠者風エリート志向を嫌った人だった。どちらが良いというものでもなかろうが、俳句三百年余の流れを見ていると、この二様のあり方は現代においても継承されていることがわかる。そして、とかく真面目好みの日本人には芭蕉的なる世界をありがたがる性向が強く、一茶的なるそれをどこかで軽んじていることもよくわかってくる。が、それでよいのだろうか。それこそ真面目に、この問題は考えられなければならないと思う(清水哲男)


April 1342006

 吹かれつつ柳は発と極を吐き

                           志賀 康

語は「柳」で春。「発」は「ほつ」と読ませている。この人の句には意表をつかれることが多いが、この句もその一つだ。柳の意外な表情を見せられた思いがする。「柳」と「風」といえば、常識では「柳に風と受け流し」のように、柳は風に逆らわないことになっている。風の吹くままに枝や葉をなびかせて、抗わないことで身の安全を守るというわけだ。だが掲句では、そんな柳があまりの強風にこらえかねたのか、ついに「発と極を」吐いたというのである。いや、強風とは書いてない。適度な春風かもしれないのだが、いずれにしても柳が吐くという発想は尋常ではないし、それこそ「発」とさせられる。そして、このときに「極」とは何だろうか。よくは掴めないけれど、おそらくは柳という生命体にある芯のようなものではあるまいか。外側から眺めただけではわからない柳の持ついちばん固い部分、人間で言えば性根のようなもの、それを吐いたというのだから、この柳はよほど環境に適応できなかったか、あるいは嫌気がさしていたのか。となれば、この状況は作者の心情を柳に託したとも読めてくる。これ以上の深読みはやめておくが、わかりにくいこの句を読んでよくわかることは、作者がいかに世の常識による物の見方を嫌っているかだ。いわゆる反骨精神の上に築かれたインスピレーションだなあと、私はひとり納得したことであった。俳誌「LOTUS」(第五号・2006年4月)所載。(清水哲男)




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