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January 2311997

 事果ててすっぽんぽんの嚔かな

                           谷川俊水

  今日は趣向を変えて1996年末の「余白句会」より一句。「嚔」は「くさめ」。
んなものに誰が点入れるのか、に騒々子、敢然として地に入れる。これがいいのです。騒々子、今回の選のコンセプトはグロテスクと馬鹿笑いである。(中略)「事果てて」が凄い。他に言いようがないのかねえ…。虚脱している男の間抜け面が目に見えるようで、これは他に言いようがない。川柳に破礼句(バレく)の分野あり。男女間の性愛を詠む。ここでも近世以降は傑作なし。やはり江戸期の「風流末摘花」などであの手のものは尽きています。この句などはだから新しい。俊水、字余り句は作るは、自由律句を作るは、バレ句は作るは、自由奔放、といえば聞こえはいいが、要はムチャクチャ俳諧。その元祖となる気配あり。……(「余白句会報告記」・騒々子<井川博年>)(清水哲男)


November 18112000

 数へられゐたるくつさめ三つまで

                           伊藤白潮

面から見ると珍しい言葉使いのように思えるが、「くつさめ」は現代表記では「くっさめ」だ。「嚔(くしゃみ・くさめ)」だ。まずは、嚔の定義から。「一回ないし数回痙攣状の吸息を行なった後、急に強い呼息を発すること。鼻粘膜の刺激または激しい光刺激によって起る反射運動で、中枢は延髄(えんずい)にある[広辞苑第五版]」。理屈はこうでも、嚔は不意にやっくるのだから、理屈なんぞを知っていても何の役にも立ちはしない(それにしても「嚔」とは、難しい漢字ですね)。不意にやってくるもの、意識の外からやってくる現象は、みんな不思議だ。でも、不思議だからといって不思議のままに放置しておけないのが、人の常だろう。そこで嚔にも、人は不思議な理屈をくっつけてきた。時代や地域差によって多少の違いはあるようだが、たとえば嚔一回だと「誰かが噂をしている」証拠という理屈。戦後すぐに流行した「リンゴの歌」にも「♪どなたが言ったか楽しい噂、軽いくしゃみも飛んででる……」と出てくる。二度の嚔は「誰かが悪口を言っている」となり、三度目は「惚れられて」いるのであり、四度目となれば「こりゃあ、本物の風邪のせいだ」となる。掲句もこのあたりの俗諺(ぞくげん)を踏まえており、周囲の人たちも三度目までは面白がって数えていたが、四度目からは数えなくなったと言っている。面白がってはいられなくなったのだ。本物の風邪と察したからである。作者ももちろんシラけたのだけれど、まわりの人たちもシラーッとなってしまった。軽い囃し立てが冗談の域をすっと越えた瞬間を、実に巧みに捉えた句だ。平仮名の多用は、鼻のぐずつき具合と照応している。白潮、絶好調なり。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


January 3112004

 キオスクに黒タイを買ふ漢の嚔

                           石井ひさ子

語は「嚔(くさめ・くしゃみ)」で冬。「漢(かん)」は男子のこと。好漢、悪漢、無頼漢などと使う。これから通夜に出かけるところか。不祝儀は突然にやってくるものだから、男もあわてて「キオスク」で「黒タイ」を買っているのだろう。そのときに、思わずも「嚔」が出てしまったのを作者は目撃した。って、嚔はたいてい思わずも出るものだが、傍で見ていると、なんとなくその人が緊張感を欠いているように写ってしまう。だから、この男の通夜に行く心情も、あまり切実ではなく、どちらかといえば義理を果たしに行くという感じに見えたのだった。義理の付き合いも大変だな……。そういうことだろうと思う。こういうときにキオスクはまことに便利で、黒タイもあれば香典袋もある。むろん祝儀袋もあり、署名用の筆記用具もあるといった案配だ。私も、何度かそういうものを求めた経験がある。品揃えにはコンビニと共通するところもあるが、やはりキオスクならではの独特の仕入れ方があるのだろう。なにしろ、客が電車を待つ間のほんの短い時間での勝負だ。よく眺めたことはないけれど、句の「黒タイ」同様に、他の商品も緊急事にとりあえず間に合うような、しかも安価なものが多く取りそろえてあるはずである。そのときに不必要な人には、なんでこんなものが置いてあるのかと首をかしげたくなる商品も、きっとあるに違いない。一度、じっくりと観察してみよう。俳誌「吟遊」(No.21・2004年1月)所載。(清水哲男)


November 30112005

 汁の椀はなさずおほき嚔なる

                           中原道夫

語は「嚔(くさめ・くしゃみ)」で冬。私などは「くしゃみ」と言ってきたが、「くさめ」は文語体なのだろうか。日常会話では聞いたことがないと思う。句で嚔をしたのは、作者ではない。会食か宴席で、たまたま近くにいた人のたまたまの嚔である。ふと気配を感じてそちらを見ると、「ふぁふぁっ」と今にも飛び出しそうだ。しかも彼は、あろうことか汁がまだたっぶりと入った椀を手にしたままではないか。「やばいっ」と口にこそ出さねども、身構えた途端に「おほき嚔」が飛び出してきた。このときに、汁がこぼれたかどうかはどうでもよろしい。とりあえずの一件落着に、当人はもとより作者もまたほっとしている。安堵の句なのだ。汁碗を持ったままの嚔は滑稽感を誘うが、汁碗でなくとも、何かを持ったまま嚔をしたことのある人がほとんどだろう。収まってみれば、何故持ったまま頑張ったのかがわからない。よほどその汁の味が気に入っていたのだという解釈もなりたつけれど、そうではなくて私は、汁碗をもったままのほうがノーマルな感覚だと思う。それはこれから嚔をする人の心の中に、たとえ出たとしても「おほき嚔」でないことを願う気持ちがあるからだ。汁碗を持って我慢しているうちに、止まってしまうかもしれないし……。すなわち「おほき恥」を掻きたくないために、最後まで平然を装う心理が働くからなのである。だから、この句は誰にでもわかる。誰にでも、思い当たる。ただし、しょっちゅう嚔が出る人はこの限りではない。出そうになったらさっと上手に汁碗を置いて、すっと後ろを向くだろう。『銀化』(1998)所収。(清水哲男)


January 1112008

 現身の暈顕れしくさめかな

                           真鍋呉夫

つしみのかさあらはれしくさめかなと読む。暈は、太陽や月の周辺に現れる淡い光の輪のこと。くしゃみをした瞬間、その人の体の周辺に暈が茫と出現した。くしゃみだからこそ、生きてここに在ることの不思議と有り難さと哀しみが滲む。六十年代のテレビ映画の「コンバット」は一話完結の戦争物として一世を風靡したが、その一話に、戦友の姿が曇って見えると必ずその人が戦死することに気づいた兵士の話があった。兵士は次第に自分の能力が怖くなる。ある日鏡に映った自分の姿が曇って見える。その日は前線から後方へ移動する日で、みなこの兵士を羨んだが、兵士は移動の途中地雷でジープごと吹っ飛ぶ。この話の「曇り」は仕掛けもオチもあるけれど、この句の暈は感覚が中心で、理屈で始末のつくオチがない。どこか生と死の深遠に触れている怖ろしさがある。くさめというおかしみを通して存在の深遠に触れる。こういうのを俳諧の本格というのだろう。『定本雪女』(1998)所収。(今井 聖)


November 19112008

 哲学も科学も寒き嚔哉

                           寺田寅彦

(くさめ)とは、さても厄介な漢字である。この漢字をさらりと書いてのける人は果たして何人いらっしゃるか? くさめ、くしゃみ、くっさめ、はくしゃみ・・・・いろいろな呼び方があって、思わずくさめをしたくなるようなにぎやかさである。嚏は通常、冷気が鼻の粘膜を刺激することで出るわけだが、それだけではなくアレルギー性の嚏もある。しかし、咳とちがって悲壮感とかやりきれなさはない。それはさておき、寅彦はご存知のように地球物理学者にして文学者。筆名は吉村冬彦。掲出句で「文学も科学も・・・・」としなかったのは、今さら「文学がお寒い」と詠ったところで始まらない、という気持ちがあったのか、と愚考するが、いかがなものか。「寒き嚏」ではなくて「寒き」で切れる、と解釈することもできそうだけれど、その場合、すっきり切ろうとするならば「寒し」だろう。ここでは哲学や科学を、嚏と同等なものと茶化したとらえ方をしているのだろう。「寒き嚏」とはくどいとか何とか、決まってとやこう云々する人もいるだろうが、そのあたりのことは十分承知したうえで、寅彦はこう言い切ったのではないか。哲学が寒いのも、科学が寒いのも、季候の次元の問題などではない。ノーベル科学賞受賞者が日本で今年四人も出たことを知ったら、寅彦は掲出句を修正しただろうか? 寅彦は第五高等学校時代(熊本)に、俳句を見てもらいに漱石先生を頻繁に訪ね、「ホトトギス」に掲載された。蛇足だが、寅彦一家を題材にしたマキノノゾミの芝居「フユヒコ」は大傑作。『俳句と地球物理』(1977)所収。(八木忠栄)


December 23122008

 許されてゐる昼酒の大くさめ

                           榎本好宏

原庄助氏を引き合いに出すまでもなく、お日さまの高いうちから飲酒するというのは好ましくないという日本の良俗がある。くしゃみやげっぷも生理的現象とはいえ、人前ですることは恥ずかしいという西洋風のお行儀がすっかり浸透したようだ。そういえば、萎んだ芙蓉みたいなくしゃみばかりになり、打上げ花火のような豪快なくしゃみを聞くことも稀になった。さらに、セクハラ、パワハラ、モラハラとハラスメントが声高に言われるなか、ずいぶん堅苦しいお約束が増えたが、それによってより健全で快適な社会になったのかは心もとない。昼酒も大くさめも、どちらも禁忌を破るゆえに成り立つ快感がある。昼酒飲みながら、遠慮がちにくしゃみなんかしなさんな、というたっぷりした空気のなかの掲句である。さらに『食いしん坊歳時記』(角川学芸ブックス )の著者でもある作者のこと、さぞかしおいしい匂いが並んでいることだろう。垂涎(あ、これもお行儀委員会に叱られそうな言葉ですね)の昼酒である。〈煤逃げをしてはみたもの出たものの〉〈梟にリラの匂ひを聴きにゆく〉『祭詩』(2008)所収。(土肥あき子)


November 22112009

 くさめして我はふたりに分れけり

                           阿部青鞋

あ、こういう見方もあるんだなと、感心しながら本日の句を読んでいました。クシャミというもの、あらためて考えてみれば、たしかに奇妙なものです。体を二つに折り曲げて、自分が破裂するように出てくるものなんて、ほかには思いあたりません。だからでしょうか、俳句だけではなく、現代詩の中でも時折登場します。長い詩の最後に、大きな空の下でクシュンとすれば、不思議な余韻が生み出され、どことなく孤独感や切なさをかもし出します。今日の句も、なかなか印象的です。クシャミの衝撃で、自分が二人にはがれたと書いてあります。アップルパイでもあるまいに、クシャミひとつでそう簡単にはがれてはたまりませんが、もちろんここは理屈ではなく。分かれたふたりが、あわててひとつに戻る姿でも思い浮かべながら、楽しく読んでいればよいのでしょう。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


November 14112015

 想像力欠けた男のくしやみかな

                           椿屋実梛

中、この句の三句前に〈 B型の男くぢらのごと怒る〉とある。同一人物か否かはわからないがいずれも、やや冷めた目で目の前の男性をしっかり観ている作者である。想像力に欠ける、とは具体的にどういうことなのかと考えると、相手の立場を思いやることができない、自己中心的である、というのもその一つだろう。そろそろ解放されたいなと思っていた作者の前でひたすらマイペースでしゃべり続けていた男が、ハクションチキショー、みたいな大きいクシャミをする。我に返ったかのように、お、もうこんな時間か、オレ帰るわ、などと言って歩き出す彼は、クシャミも含めデリカシーの感じられない存在である。ちなみに同集中に〈蛞蝓のやうな男に好かれをり〉という句もある。鋭い観察眼と巧みな表現力に感心しつつ、作者の幸せを願っている。『ワンルーム白書』(2015)所収。(今井肖子)




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