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January 2111997

 妻の手のいつもわが邊に胼きれて

                           日野草城

聞で、盥で洗濯をするペルー女性の写真を見た。三十数年前までの日本女性の姿と同じだった。洗濯板も、ほぼ同型。下宿時代の私にも経験があるが、冬場の洗濯はつらい。主婦には、その他にも水仕事がいろいろとある。したがって、どうしても冬は手があれてしまう。よほど経済的に恵まれた家庭の主婦でないかぎり、きれいな手は望むべくもなかった。そんな妻の手へのいとおしみ。敗戦直後の作品である。あと半世紀も経ないうちに、この句の意味はわからなくなってしまうだろう。『旦暮』所収。(清水哲男)


November 28112008

 さも貞淑さうに両手に胼出来ぬ

                           岡本 眸

は「ひび」。出来ぬは「出来ない」ではなくて「出来た」。完了の意。「胼ありぬ」なら他人の手とも取れるから皮肉が強く風刺的になるが、「出来ぬ」は自分の手の感じが強い。自分の手なら、これは自嘲の句である。両手に胼なんか作って、さも貞淑そうな「私」だこと。自省、含羞の吐露である。「足袋つぐやノラともならず教師妻」は杉田久女。貞淑が抑圧的な現実そのものであった久女の句に対し、この句では貞淑は絵に描いた餅のような「架空」に過ぎない。貞淑でない「私」は、はなっから自明の理なのだ。含羞や自己否定を感じさせる句は最近少ない。花鳥や神社仏閣に名を借りた大いなる自己肯定がまかり通る。含羞とは楚々と着物の裾を気にする仕種ではない。仮面の中に潜むほんとうの自分を引きずり出し、さらけ出すことだ。『季別季語辞典』(2002)所収。(今井 聖)




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